村上由起子『きみょうにあかるい』(あざみ書房、2015年12月15日発行)
村上由起子『きみょうにあかるい』で、最初に印象に残ったのは、「あめ」の後半、
「ゆっくり滲みて」が奇妙なのである。何か、まわりと断絶している。そこだけ別の世界という感じがする。
「窓から外を眺めている肩のところで」というのは、「(わたしが)窓から外を眺めている(と、わたしの)肩のところで」ということだと思って読むのだが、その省略された「わたし」は村上によって「省略された」という感じではなく、何かほかの力によって「省略された」のではないか、と私の「感覚の意見」は言う。
その「省略」を強要する力と「ゆっくりと滲みて」が拮抗していると感じる。「省略されたわたし」へ向けて、「わたし」が拡大していく、という感じかなあ。
こういう「感想」は、まあ、いいかげんなのものなのだけれど、詩集を読んでいるあいだもずーっとつづく。
で、最後の方の詩篇「回る(まわ)る」。
という行に出会ったとき、あ、こことつながっているのかな、と「感覚の意見」は、また言うのである。
「省略されたわたし」と「張り巡らせた境界」(ここまでが、わたしの領域、そこから外はわたしの外、という感じの「境界」)はどこかでつながっている。
「わたしの領域(わたしの境界線)」というのは他人との関係で動くものだと思うが、村上にとっては「他人の力」が強すぎて動かせないものなのかもしれない。自分でつくる「境界」ではなく他人がつくる「境界」。「張り巡らせた」は「わたしが張り巡らせた」という能動形なのだが、主語は「わたし」ではなく「だれか」とも読むことができる。「だれかが張り巡らせた」、「だれかよって張り巡らされた」とも読める。そう読み替えるとき、だれかによって「わたし」は省略されている。「境界」をつくるときに「わたし」は「省略されている」。だからこそ、その「境界」が開いたままの傷のように、ひりひりする。「他人」によって、触られている感じがする。
で、ここから強引に、私は「あめ」に戻る。
最終連の「ゆっくり滲みて」「引き剥がすと」という、次の行へとつづいていくことば、その「言い方」が、「境界」とどこかで重なる。「ゆっくり滲みた」「引き剥がした」とことばを切断しない。ことばを持続させていく。その「持続」が「線」になり「境界線」になる。ふと、そう感じるのである。
「ゆっくり滲みて」の主語は「おしっこ」。「わたし」の分身。「引き剥がすと」の主語は「ママじゃないだれか」。それが「わたしの分身」を消す。「わたしの分身」が引こうとする「境界線」(シミあと)を消して、「わたし」がそこに存在してることを(存在したこと)を消そうとしている。
それを「おしっこ」の側から「消されていく」と感じる。違う「境界線」を引かれていると感じる。その「境界線」が、何度も何度も、繰り返されて、だれかによって「張り巡らされた」感じになる。
それが「このごろ見えて仕方がない」。
「境界」とは「他人」がつくりあげる「わたし像」かもしれない。「きみょうにあかるい」は、そういう「像」に気がついたときのことを書いているのかもしれない。
「わたし」はだれかからみれば、「あかるい」存在だ。その「あかるい」は「わたし」には奇妙に見える。なぜなら、わたしは「くらい」存在だからである。
「てらされて」が「境界線を引かれて」になると思う。「されて」という音の響き、受け身の形の動詞に、そう感じてしまう。
この「境界線」にあらがうように、村上は「あるいてきたので」と、不思議な「持続」で対抗している。「持続」することで、どこかに「境界線」の隙間があれば、そこから「滲み出して」自分を押し広げようとしているのかもしれない。おしっこのように「ゆんくりと滲みて」ゆきたいと欲望しているのかもしれない。
この形は
という具合に、だらだらとつづいていく。この「だらだら」とした「持続」はおしっこが「ゆっくり滲み」る感じに似ている。この「だらだら」が、
と閉じられるとき、「意味」を書きたい気持ちに襲われるが、書かずに感想をほうり出しておこう。「意味」よりも、おしっこが「ゆっくり滲みて」の方が、はるかに、あたたかくて、かなしい、と思うので。
*
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支払方法は、発送の際お知らせします。
村上由起子『きみょうにあかるい』で、最初に印象に残ったのは、「あめ」の後半、
窓から外を眺めている肩のところで
パパじゃないだれかがささやくから
わたしは思わずおもらしをしてしまう
ズボンとパンツとカーペットには
あたたかなわたしのおしっこが
ゆっくりと滲みて
それを見つけたママじゃないだれかが
大慌てでカーペットを引き剥がすと
「シミになったら大変」
とタワシでいつまでもこすり続けた
「ゆっくり滲みて」が奇妙なのである。何か、まわりと断絶している。そこだけ別の世界という感じがする。
「窓から外を眺めている肩のところで」というのは、「(わたしが)窓から外を眺めている(と、わたしの)肩のところで」ということだと思って読むのだが、その省略された「わたし」は村上によって「省略された」という感じではなく、何かほかの力によって「省略された」のではないか、と私の「感覚の意見」は言う。
その「省略」を強要する力と「ゆっくりと滲みて」が拮抗していると感じる。「省略されたわたし」へ向けて、「わたし」が拡大していく、という感じかなあ。
こういう「感想」は、まあ、いいかげんなのものなのだけれど、詩集を読んでいるあいだもずーっとつづく。
で、最後の方の詩篇「回る(まわ)る」。
どう触れられても痛いのは
何時の間に張り巡らせた境界が
このごろ見えて仕方がないから
という行に出会ったとき、あ、こことつながっているのかな、と「感覚の意見」は、また言うのである。
「省略されたわたし」と「張り巡らせた境界」(ここまでが、わたしの領域、そこから外はわたしの外、という感じの「境界」)はどこかでつながっている。
「わたしの領域(わたしの境界線)」というのは他人との関係で動くものだと思うが、村上にとっては「他人の力」が強すぎて動かせないものなのかもしれない。自分でつくる「境界」ではなく他人がつくる「境界」。「張り巡らせた」は「わたしが張り巡らせた」という能動形なのだが、主語は「わたし」ではなく「だれか」とも読むことができる。「だれかが張り巡らせた」、「だれかよって張り巡らされた」とも読める。そう読み替えるとき、だれかによって「わたし」は省略されている。「境界」をつくるときに「わたし」は「省略されている」。だからこそ、その「境界」が開いたままの傷のように、ひりひりする。「他人」によって、触られている感じがする。
で、ここから強引に、私は「あめ」に戻る。
最終連の「ゆっくり滲みて」「引き剥がすと」という、次の行へとつづいていくことば、その「言い方」が、「境界」とどこかで重なる。「ゆっくり滲みた」「引き剥がした」とことばを切断しない。ことばを持続させていく。その「持続」が「線」になり「境界線」になる。ふと、そう感じるのである。
「ゆっくり滲みて」の主語は「おしっこ」。「わたし」の分身。「引き剥がすと」の主語は「ママじゃないだれか」。それが「わたしの分身」を消す。「わたしの分身」が引こうとする「境界線」(シミあと)を消して、「わたし」がそこに存在してることを(存在したこと)を消そうとしている。
それを「おしっこ」の側から「消されていく」と感じる。違う「境界線」を引かれていると感じる。その「境界線」が、何度も何度も、繰り返されて、だれかによって「張り巡らされた」感じになる。
それが「このごろ見えて仕方がない」。
「境界」とは「他人」がつくりあげる「わたし像」かもしれない。「きみょうにあかるい」は、そういう「像」に気がついたときのことを書いているのかもしれない。
「わたし」はだれかからみれば、「あかるい」存在だ。その「あかるい」は「わたし」には奇妙に見える。なぜなら、わたしは「くらい」存在だからである。
きみょうにあかるい
このひかりのなかに
わたしはずっとてらされて
あるいてきたので
「てらされて」が「境界線を引かれて」になると思う。「されて」という音の響き、受け身の形の動詞に、そう感じてしまう。
この「境界線」にあらがうように、村上は「あるいてきたので」と、不思議な「持続」で対抗している。「持続」することで、どこかに「境界線」の隙間があれば、そこから「滲み出して」自分を押し広げようとしているのかもしれない。おしっこのように「ゆんくりと滲みて」ゆきたいと欲望しているのかもしれない。
この形は
なにいろのかおをして
あるいているのか
じぶんではもうよく
わからないので
わからないと
いったまでで
という具合に、だらだらとつづいていく。この「だらだら」とした「持続」はおしっこが「ゆっくり滲み」る感じに似ている。この「だらだら」が、
うつくしいひかりはたしかに
わたしにもとどくが
それはもう
ここではないのだから
と閉じられるとき、「意味」を書きたい気持ちに襲われるが、書かずに感想をほうり出しておこう。「意味」よりも、おしっこが「ゆっくり滲みて」の方が、はるかに、あたたかくて、かなしい、と思うので。
*
谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。