新井豊吉「触れる人」(「潮流詩派」244 、2016年01月10日発行)
新井豊吉「触れる人」は誘われて接客の仕事をする少女を描いている。
一行目の不思議なことがらを二行目で言い直している。「手から入ってき」たのは「おじさん」そのものではなく「温かい」何か、「温かさ」だろう。「おじさん」が「わたし」の手に触れる。「温かさ」が手に触れる。「あまりに」というのは、少女がそれまでに感じたことのない「温かさ」を意味しているのだろう。「街に誘われ」と書いているが、「温かさに誘われ」だと思って読んだ。
そう読んだ上で、私は「入る」という「動詞」と、「誘われる(誘う)」という「動詞」のつかい方、その関係に、うーん、とうなるのである。
ふつう、だれかの手が自分の手に触れて、それを「温かい」と感じるとき、「包む」という「動詞」をつかう。おじさんの手の温かさがわたしの手を包む。でもここでは、「包む」という手の外側に関係する動詞ではなく、「入る」という内側に関係する動詞がつかわれている。手は確かに「包む」のだろう。けれど、「温かさ」は「包む」と同時に「入る」、「侵入してくる」。「包む」手、「触れる手」は拒むことができる。払いのけることができる。けれど、触れてしまった「温かさ」は払いのけることはできない。「手(肉体)」のなかに「入る」。入ってきてしまう。
「わたし」はそれを受け入れる。この「温かさ」と同じ感じで、「誘い」が少女の肉体のなかに「入ってきた」。そして少女はそれを受け入れた。つまり「誘われた」。
この「入る」という動詞は、また別の形で言い直されている。「大丈夫」が「わたしの心と重なる」。手(肉体)のなかへ入ってくるというのは、「心」のなかに入ってくることと同じ。入ってきて「重なる」。「重なる」は別の動詞で言えば「まじる」かもしれない。(「まじる」という動詞を新井が書いているわけではないが、私は、そう思って読んだ。)まじって、区別がつかない。「重なり」はもう「剥がす」ことができない。つまり「一体」になっている。
「いままでに聞いたことのないような/しっかりした大丈夫」。この二行も、いいなあ。これは「温かさ」だな。少女は、きっと「大丈夫」ということばで、だれかから支えてほしかったのだろう。「支える」は「温かい」に通じる。
まるで、ここに書かれている少女になった気持ちになる。少女の気持ちがわかる、というのではなく、ことばを読んでいると、少女になってしまう。
この部分も、まるで新井が書いたというよりも、この詩のなかの少女自身が書いたもののように感じられる。あるいは、少女になって、私(谷内)が書いているように錯覚してしまう。言い換えると、もし私が少女なら、体験していることをこんなふうにことばにしたい、ことばにすることで体験を反芻したいと感じる。読むと、少女になってしまう。
「あちここちにちらばる」と「ディズニーランド」という比喩が、そうかこれが少女の実感なのかと、感動してしまう。「統合(統一)する」ではなく「ちらばる」。それも、どこにとは特定できない「あちこち」という不特定の場所。
少女は、自分自身を「統一」できずにいる。それが「ちらばる」という動詞のなかで具体的に書かれている。この「統一できない/ちらばる」は、その前の「恥ずかしさと輝き」を言い直したものである。「恥ずかしい(恥じる)」と「輝き(輝く)」は、同じもの(統一した状態であるもの)ではない。「恥じる」と「輝く」という動詞は別の動きである。「ひとつ」の「こころ」が別々に動いてしまう。それが瞬時に起きる。それが「ちらばる」ということ。
この「ちらばる」自己、「ちらばるわたし」を「統一」するのが「おじさん」だ。
「ちらばるわたし」はおじさんの「かわいい/大丈夫」ということばを聞くことで「うれしい」にかわる。「うれしい」に「統一」される。
このあと、少女はどうなるか。
「知らない女の人が入ってきた」は「店に」入ってきた、という意味だろう。詩の冒頭、一行目の書かれていた「手から入ってきて」とは「入る」という動詞は同じだがつかい方がちがう。
一行目の「入る」に対応するのは「言葉はわたしをすり抜けて」の「すり抜ける」である。「わたしを」は「わたしの心を」と「心」を補うと、「言葉はわたしの心ををすり抜けて」になる。そして、「わたしの心と重なる」という行ときちんと向き合う形になる。
「温かさ」は「手(肉体)」に、さらに「心」に入ってきた。「大丈夫」「かわいい」ということばも少女の「心」に入ってきた。けれど「怖くなかったか」「お父さんもお母さんも怒っていない」ということばは少女の「心」には入ってこない。「すり抜けていく」。そして、何も「統一」せず、「脱ぎ捨てたばかりの服にころがった」。
「ころがった(ころがる)」は、どこか「ちらばる」に似ている。
しかし、どこかがちがう。
「ちらばる」には「統一したい」という意識が隠れている。統一されているもの、ひとつの状態であったものだけが「ちらばる」。「ころがる」には「統一」をもとめる意識はない、と思う。「統一」とは無関係である。何かから分離してしまって、それが分離したまま、そこにある、という感じ。
この詩では「ころがる」の「主語」は先生や知らない女の人の「言葉」だが、一方で「脱ぎ捨てたばかりの服」もまた「ころがる」の「主語」として読むことができる。「言葉」といっしょに、そこに「ころがっている」。少女の「肉体/こころ」とは無関係に、そこにある。
なぜ、「ころがった」のか。おじさんのことばと比較するといいかもしれない。おじさんのことばは「いままで聞いたことのないような」ことばだった。「しっかり」という印象がある。こころをこめてそう言っている感じがする。「しっかりした」は「信用できる」でもあるかもしれない。一方、先生や女の人のことばは「いつも聞いている(聞かされている)」ことばかもしれない。そして、先生や女の人のことばというのは、少女を「外側」から「枠にはめ込み」、「統一」しようとするものだろう。おじさんのことばが「内側」から少女を支えるのとは、その点がちがう。「外側」から少女を「統一しようとする」ものだから、それは少女と分離して、「ころがる」。あてがわれた「服」と同じように。
このとき、少女のこころと肉体は、まだ「おじさん」といっしょにある。だから、この詩が書かれている。その少女の「さびしさ」が、うーん、美しいと言っていいのかどうかわからないが、美しい。
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新井豊吉「触れる人」は誘われて接客の仕事をする少女を描いている。
おじさんがわたしの手から入ってきて
あまりに温かいので街に誘われた
宝石のようなお酒と果物のやま
ガラスに光る液体は甘く
友達と飲むお酒とはちがうみたい
おじさんは大丈夫だからという
いままで聞いたことのないような
しっかりした大丈夫が
わたしの心と重なる
一行目の不思議なことがらを二行目で言い直している。「手から入ってき」たのは「おじさん」そのものではなく「温かい」何か、「温かさ」だろう。「おじさん」が「わたし」の手に触れる。「温かさ」が手に触れる。「あまりに」というのは、少女がそれまでに感じたことのない「温かさ」を意味しているのだろう。「街に誘われ」と書いているが、「温かさに誘われ」だと思って読んだ。
そう読んだ上で、私は「入る」という「動詞」と、「誘われる(誘う)」という「動詞」のつかい方、その関係に、うーん、とうなるのである。
ふつう、だれかの手が自分の手に触れて、それを「温かい」と感じるとき、「包む」という「動詞」をつかう。おじさんの手の温かさがわたしの手を包む。でもここでは、「包む」という手の外側に関係する動詞ではなく、「入る」という内側に関係する動詞がつかわれている。手は確かに「包む」のだろう。けれど、「温かさ」は「包む」と同時に「入る」、「侵入してくる」。「包む」手、「触れる手」は拒むことができる。払いのけることができる。けれど、触れてしまった「温かさ」は払いのけることはできない。「手(肉体)」のなかに「入る」。入ってきてしまう。
「わたし」はそれを受け入れる。この「温かさ」と同じ感じで、「誘い」が少女の肉体のなかに「入ってきた」。そして少女はそれを受け入れた。つまり「誘われた」。
この「入る」という動詞は、また別の形で言い直されている。「大丈夫」が「わたしの心と重なる」。手(肉体)のなかへ入ってくるというのは、「心」のなかに入ってくることと同じ。入ってきて「重なる」。「重なる」は別の動詞で言えば「まじる」かもしれない。(「まじる」という動詞を新井が書いているわけではないが、私は、そう思って読んだ。)まじって、区別がつかない。「重なり」はもう「剥がす」ことができない。つまり「一体」になっている。
「いままでに聞いたことのないような/しっかりした大丈夫」。この二行も、いいなあ。これは「温かさ」だな。少女は、きっと「大丈夫」ということばで、だれかから支えてほしかったのだろう。「支える」は「温かい」に通じる。
まるで、ここに書かれている少女になった気持ちになる。少女の気持ちがわかる、というのではなく、ことばを読んでいると、少女になってしまう。
肩をだしたきれいな女の人や
タレントのような男の人に
わたしは視られている
かすかな恥ずかしさとかがやきが
あちこちにちらばり
ディズニーランドにいるよう
この部分も、まるで新井が書いたというよりも、この詩のなかの少女自身が書いたもののように感じられる。あるいは、少女になって、私(谷内)が書いているように錯覚してしまう。言い換えると、もし私が少女なら、体験していることをこんなふうにことばにしたい、ことばにすることで体験を反芻したいと感じる。読むと、少女になってしまう。
「あちここちにちらばる」と「ディズニーランド」という比喩が、そうかこれが少女の実感なのかと、感動してしまう。「統合(統一)する」ではなく「ちらばる」。それも、どこにとは特定できない「あちこち」という不特定の場所。
少女は、自分自身を「統一」できずにいる。それが「ちらばる」という動詞のなかで具体的に書かれている。この「統一できない/ちらばる」は、その前の「恥ずかしさと輝き」を言い直したものである。「恥ずかしい(恥じる)」と「輝き(輝く)」は、同じもの(統一した状態であるもの)ではない。「恥じる」と「輝く」という動詞は別の動きである。「ひとつ」の「こころ」が別々に動いてしまう。それが瞬時に起きる。それが「ちらばる」ということ。
この「ちらばる」自己、「ちらばるわたし」を「統一」するのが「おじさん」だ。
一杯のお酒は
お給料では払えない
でもおじさんは
君はかわいいから大丈夫だという
かわいいと何度もいってもらってうれしい
「ちらばるわたし」はおじさんの「かわいい/大丈夫」ということばを聞くことで「うれしい」にかわる。「うれしい」に「統一」される。
このあと、少女はどうなるか。
知らない女の人が入ってきた
わたしはおじさんに断りもなく
家に戻ることになった
怖くなかったかと先生はいう
お父さんもお母さんも怒っていないからと
知らない女の人はいう
言葉はわたしをすり抜けて
脱ぎ捨てたばかりの服にころがった
「知らない女の人が入ってきた」は「店に」入ってきた、という意味だろう。詩の冒頭、一行目の書かれていた「手から入ってきて」とは「入る」という動詞は同じだがつかい方がちがう。
一行目の「入る」に対応するのは「言葉はわたしをすり抜けて」の「すり抜ける」である。「わたしを」は「わたしの心を」と「心」を補うと、「言葉はわたしの心ををすり抜けて」になる。そして、「わたしの心と重なる」という行ときちんと向き合う形になる。
「温かさ」は「手(肉体)」に、さらに「心」に入ってきた。「大丈夫」「かわいい」ということばも少女の「心」に入ってきた。けれど「怖くなかったか」「お父さんもお母さんも怒っていない」ということばは少女の「心」には入ってこない。「すり抜けていく」。そして、何も「統一」せず、「脱ぎ捨てたばかりの服にころがった」。
「ころがった(ころがる)」は、どこか「ちらばる」に似ている。
しかし、どこかがちがう。
「ちらばる」には「統一したい」という意識が隠れている。統一されているもの、ひとつの状態であったものだけが「ちらばる」。「ころがる」には「統一」をもとめる意識はない、と思う。「統一」とは無関係である。何かから分離してしまって、それが分離したまま、そこにある、という感じ。
この詩では「ころがる」の「主語」は先生や知らない女の人の「言葉」だが、一方で「脱ぎ捨てたばかりの服」もまた「ころがる」の「主語」として読むことができる。「言葉」といっしょに、そこに「ころがっている」。少女の「肉体/こころ」とは無関係に、そこにある。
なぜ、「ころがった」のか。おじさんのことばと比較するといいかもしれない。おじさんのことばは「いままで聞いたことのないような」ことばだった。「しっかり」という印象がある。こころをこめてそう言っている感じがする。「しっかりした」は「信用できる」でもあるかもしれない。一方、先生や女の人のことばは「いつも聞いている(聞かされている)」ことばかもしれない。そして、先生や女の人のことばというのは、少女を「外側」から「枠にはめ込み」、「統一」しようとするものだろう。おじさんのことばが「内側」から少女を支えるのとは、その点がちがう。「外側」から少女を「統一しようとする」ものだから、それは少女と分離して、「ころがる」。あてがわれた「服」と同じように。
このとき、少女のこころと肉体は、まだ「おじさん」といっしょにある。だから、この詩が書かれている。その少女の「さびしさ」が、うーん、美しいと言っていいのかどうかわからないが、美しい。
ふゆの少年―新井豊吉詩集 | |
新井豊吉 | |
潮流出版社 |
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