詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田島安江「共食い」

2016-01-15 09:13:11 | 現代詩講座
田島安江「共食い」(現代詩講座@リードカフェ、2016年01月13日)

共食い   田島安江

食卓におかずを並べていると
野菜以外はみんな共食いではないかと思えてきて
暗澹として落ち着かない

ずっとずっと太古まで遡ると
わたしはちいさな生きもの
生きているというたしかなものはなにもなくなってしまう
みじんこになり魚になり
海の生物になり
陸にのぼって動物になっていく
ひとはひとではなくなっていく

目も見えず口もきけず耳も聴こえなかったら
飢えてしまったら
手にできるものならなんでも手当たりしだい食べるかもしれなくて
舌は味を感じられないし
歯はただ噛み切るだけ
手にしたものを片端から食べる
鼠のように野良猫や野良犬のように
生きて動いているものならなんでも食べてしまうかもしれなくて

ひとの起源をたぐっていくと
とんでもないことにつきあたる
絶滅に向って進んでいる生き物たちと
わたしにどんな違いがあるというのだろう
ただ食べつづける飢えないために
病が蔓延しひととひとが憎みあうことなど
とっくに遺伝子に組み込まれているのだとしたら
わかっていて共食いしているとしたら
いや、飢えたら共食いどころか
自分の指や手や足さえ食べるかもしれない
ハムスターのように弱い兄弟たちを食べてしまうかもしれない
ひとがひとを殺すとはそんなことではないかと
ひとはもうとっくに気づいているにちがいない

鶏を牛を豚を食べる
大根を白菜をトマトを人参を食べる
わたしはまだひとは食べない

 刺戟の多い作品だ。受講者はどう読むか。感想を聞いた。

<受講者1>最後の一行がおそろしい。武田泰淳の「ひかりごけ」みたい。
      三連目の
      「手にできるものならなんでも手当たりしだい食べるかもしれなくて」
      も怖い。
<受講者2>散文詩という感じ。最後の一行が印象的。
<受講者3>二行目「野菜以外は……」おもしろい。
      途中でタイトルを忘れて、「共食い」と見直した。
      四連目は説明の文章。ドキュメンタリーのナレーションみたい。
      けれど「舞台」で読むとおもしろいと思う。
<受講者4>「野菜以外」の行は発想がおもしろい。
      二連目「太古まで遡ると」には歴史的、時間的な広がりがある。
      三、四連目は、頭のなかが混乱する。
      深いことが書いてあるのがわかるけれど、すぐにはつかみきれない。
<受講者5>四連目、特に「ただ食べつづける飢えないために」からの三行が強烈。
<受講者2>スケールが大きい。時空を自在に動き回る感じがする。
     
 朗読して、そのあとすぐに感想を順々に言っていくので、最初の発言者はなかなか考えをまとめきれない。他人の感想を聞きながら、自分の考えをまとめる時間があるひとの方が余裕をもって感想を言える。
 長くて複雑な作品だと、自然とそういう展開になる。こういうことも大勢で詩を読んでいるときの楽しみである。
 この詩では「共食い」という詩の「内容/意味」が衝撃的。
 どうして、こういう作品を書いたのか。

<田  島>人類は四度目の絶滅に向かって動いている。
      人間は食べて生きている。人間は動物も植物も食べる。
      植物を食べることと、動物を食べることはとどう違うのか。
      また食べることで、人間と動物はどう違うのか。
      そんなことを考えた。

 そういう説明があったのだが、まあ、説明は説明。その「説明」の要素が、詩にも含まれているかもしれない。そのために、行分けで書かれているけれど「散文詩みたい」という感想があり、「説明の文章」という感想も聞かれたのだと思う。
 四連目は特にそういう印象が強いのかもしれない。
 私は、この四連目がとても好き。それまで食べるということが具体的な肉体の動きとして書かれている。たとえば「舌は味を感じられないし/歯はただ噛み切るだけ」という行が生々しい肉体の動きをあらわしている。「みじんこ」「魚」「海の生物」「動物」という具合に、実際に目で見ることができるものが書かれている。
 四連目では、そのことばが少し変化している。受講者のひとりが強烈と指摘した「ただ食べつづける飢えないために/病が蔓延しひととひとが憎みあうことなど/とっくに遺伝子に組み込まれているのだとしたら」という部分には「憎み合う」という感じ言うの動きがあり、「遺伝子」という目に見えないものも登場している。ここでは「肉体」も動いているが、同時に「思考」も動いている。「精神」あるいは「頭」が動いていると言ってもいい。「肉体」を踏まえた上で、「肉体」という存在に一種の「統一」をあたえるための考えが動いていて、その考えが「深化」していく感じがする。
 「肉体」を「食べる」という動詞にしばりつけて統一している感じ。その統一へ向けた動きを「深める」、動きが「深まる」「深化する」という感じ。
 「ドキュメンタリーのナレーション」という指摘があったが、そこで描かれているものを、「映像/目に見えるもの」だけに終わらせるのではなく、「目に見えるもの」を貫く何かを「説明」しようとする意思、思いの強さのようなものがある。「舞台で読むとおもしろい」という感想も、その延長線上にあると思う。そこに「肉体」が動いている。「肉体」の動きだけで衝撃的ではあるのだけれど、それを「ことば」でとらえなおす。「ことば」で統一しなおす感じがある。
 「ことばで統一しなおす」は、世界を「ことばで作りなおす/組み立てなおす」こと。その「組み立てなおす」という動きが「詩」なのだと思う。「ことばで組み立てなおされた世界」が「詩」。
 四連目では、それまで書いてきたことを、さらに見つめなおしている。言い直している。反芻しなおしている。見つめなおすことで、さらに進んでいる。そのときの反芻/反復から先へ進むときの「距離」が、たぶん「スケールが大きい」という感想になる。「歴史的/時間的」ということを感じさせる。「いま」を書いているのに「いま」だけではない広がりがあるということだと思う。

 ここで、私は質問をしてみた。私は、どんな詩人でも(作家でも)、ある大事なことは何度でも言い直すものだと感じている。一度では言い足りない。何かを言い漏らしている感じがする。それを探しながら、なお、言い直す。そういうことが作品のなかに反映していると感じる。
 田島は「動物を食べる人間と、動物を食べる動物、おなじように生きるために食べている。その人間と動物はどう違うのか。また植物とはどう違うのか」と考えたという。その考えに通じる一行が二連目の最後の行、

ひとはひとではなくなっていく

 という、この一行だけでは「わかりにくい」表現になっていると思う。
 これを田島は言い直してはいないか。どの行に、「言い直し」を感じるか、それについて質問してみた。

<質  問>「ひとはひとではなくなっていく」を別のことばでいうと、どうなる?
      言い直していることばは、どれ?
<受講者1>二連目「目も見えず口もきけず」の一行。
<受講者2>「ハムスターのように弱い兄弟たちを食べてしまうかもしれない」
      ここに「共食い(兄弟で食い合う)」が書かれている。
      「共食い」をするとき、「ひとはひとでなくなる」。
      「ひとがひとを殺すとはそんなことではないかと」にも感じる。
      「ひとを殺す」とひとはひとでなくなる。
<受講者3>「手にできるものならなんでも手当たりしだい食べるかもしれなくて」
      「手当たりしだい」がひとではない。
<受講者4>「手にしたものを片端から食べる」かな。

 私は、三連目の、

舌は味を感じられないし
歯はただ噛み切るだけ

 ここに、「ひとではない」ものを感じた。
 「味覚」がない。「味覚」というのは「文化」である。「味を感じない」は「味の文化を感じない」ということでもある。ただ、噛む、咀嚼があるだけだ。「ひと」を「肉体」そのものにまで還元して、とらえている。「文化」の否定。「食べる」という「行為」から「味わう」という部分を除外してしまっている。
 それは「手当たりしだい食べる」ということと同じだけれど「味」を否定している部分に、「ひとではない」というものを感じた。
 「ひとではない」なら、何か。

鼠のように野良猫や野良犬のように

 という行で言い直していると私は思った。ただ「食べる」という肉体の本能で動いているとき、ひとは鼠や野良猫や野良犬と同じ存在になっている。「ひとでなくなっている」。

 そういうことを言いながら、私は、また逆のことも言った。
 「味覚の発達」について、あるところで読んだおもしろい見方を紹介した。ふつう、「味の判別」が鋭いひとを味覚が発達しているという。どこそこの料理はうまい、云々。しかし、それは味覚が衰えているのではないか。どれがうまいなど気にせず、手当たり次第ただ食いまくる中学生くらいのときがいちばん味覚が発達している。どんな味でも「おいしい」と思える味覚の方が健康だ、という意見である。
 私は、この意見を、なるほどなあ、と思う。
 「おいしい」と思えなくなったとき、たしかに「味覚」は衰えている。健康ではなくなっている。
 そうすると「味覚文化」などというのは、まあ、一種の「衰退の文化」ということになるのだが。

 四連目で「思考の深化」を書いているが、それは「文化」とは遠い「肉体」をきちんと書いているからこそ「思想の深化」として見えてくるのだと思う。既成の「文化」にたよらず、自分のことばを動かそうとしているから、そこに「思想」を感じる。「思想」の動きを感じる。
 そして、そういうことを考えると、三連目の最後、

生きて動いているものならなんでも食べてしまうかもしれなくて

 この行の終わり方が、とてもおもしろい。
 「かもしれない」で終わっても、「意味」はそんなにかわらないだろう。「かもしれない」でおわった方が中途半端な感じがしなくて、すっきりする。
 しかし、たぶん、すっきりできないのだ。
 「味覚文化」を否定した「肉体」を書いたときから、思考が動きはじめている。その動きが、そこでおわってしまうのではなく、つづいたまま、しかし、飛躍する。その微妙な変化がそのまま「かもしれなくて」という言いよどんだ感じに残っている。
 「かもしれなくて」と言いよどんで、そのまま沈んでいくのではなく、逆に、言い残したことを「ことば」そのもので動かしていく。「ことば」にしかできないこと、思考へと動いていく。その飛躍台が「かもしれなくて」という中途半端なことばのなかにある。
 四連目のことばの特徴は、先に書いた「目に見えないもの」が書かれているということと、「だろう」「だとしたら」「としたら」ということばに象徴されている。「推測/推論」のことばだ。
 「だろう」は「かもしれない」へと動き、さらに「ではないか」と疑問を経て、「違いない」へとたどりつく。思考が急激に動いている。ダイナミックに動いている。
 「論」というだけなら、二連目でも「論」が動いている。しかし、その「論」は既成の「進化論」。海でうまれた「いのち」が、やがて魚になり、陸にあがり動物になり、人間になるという「論」。四連目は田島が考えた「論」。それは科学的に認められてはいない。だから「かもしれない」という仮定からはじまり、推測/推定を重ね、断定へと動いていく。「ちがいない」とは言っても、「推論」である。
 「推論」だから、どこへでもゆける。そこにダイナミックの要素がある。
 推敲に推敲を重ねて書いた緊密/厳密な詩ではなく、勢いで書いた急激な変化のおもしろさが満ちている。精神が動いているということを感じさせる詩である。

 田島から最後の一行は、最後の最後になって入れた、という「告白」があった。この一行を書くか、書かないか。意見は分かれた。書かないと不安定だし、書いてしまうと余分な感じがする。
 むずかしい。
 最後の一行ではなく、最後の連そのものも。
 田島は「ひとは食べない」かもしれないが、「ひとを喰っている」と書いておこう。
 そんな告白、質問はするものではない。


詩集 遠いサバンナ
田島 安江
書肆侃侃房
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