岡井隆「臓器性腐敗臭」(「現代詩手帖」2016年01月号)
岡井隆「臓器性腐敗臭」は「旧友Oの訃報を読んで作るうた」というサブタイトルをもっている。
その書き出しの二行。
この「臓器性」とは何だろう。わからない。「腐る」という動詞、それからサブタイトルの「訃報」を結びつけると、「臓器(内臓)」のどこかを悪くして、それが旧友の死因だったのかなあ、と感じる。
「臓器性をもつて」ということばを省略して、
これでも「意味」は通じる感じがする。ただし、その場合は「ねぢくれたこころ」というよりも「純粋なこころ」の方が「腐る」とぴったりくるかなあ。美しいこころ、美しい仲間意識というものも、いつかは「腐る」。だらしなく崩れ、解体していく。死んで行く。そういうことばの方が「わかりやすい」。「流通言語」に近い。
しかし岡井は「純粋なこころ」とは書かずに「ねぢくれたこころ」と書き、これを「仲間意識」と並列させる。そして、それを結びつけるものを「臓器性」と書いている。「臓器性」を「もつて」と「もつ」という動詞と組み合わせて動かしている。
この「臓器性」って、何だろう。
「ねぢくれた」という「こころ」を修飾していることばから「ねぢくれた臓器」、大腸のようなものが連想される。そうすると旧友の死因は大腸ガン?
わかったような、わからないような……。いや、ぜんぜん、わからない。
この「臓器性」は繰り返し出てくる。
ペニスの大きさに嫉妬した。嫉妬は「腐れごごろ」、腐ったこころ、かもしれない。精神(知性?)に対する嫉妬ではなく、肉体に対する嫉妬だから「臓器性」? 肉体に関係していることを「臓器」で言い直している? それとも「臓器」は外から見えないから「隠しているこころ」?
ここにも「腐る」という動詞があらわれる。ただし、それは「行灯をともす」ということばといっしょで「臓器性」からは少し離れている。「行灯をともす」は「昼行灯をともす」、無駄なことをする、役に立たないことをする、というくらいの「意味」かな? 二人よりも三人の方が仕事をさぼる、ずるをするとき、こころやすいということか。むりにことばを補えば、ここでも「こころ」が「腐る」ということになる。
「こころ」が「臓器」?
かもしれない。
ここに描かれる「わたし(岡井)」は中学生。中学生のころの「こころ」というのは、「内面」というよりも「外面」、つまり「体力」の方にあるだろうなあ。もてあます肉体の力。性に目覚めるころの肉体の暴走。それが「こころ」。そこから「腐る」。
先に引用した「股間の長大なもの」も「肉体」。
どうしても、自分の肉体と他人の肉体を比較して「こころ」が苦悩する。「腐る」。「こころ」は肉体とぴったり重なる。その肉体を「筋肉」と言い直しているのが、この部分なのかなあ。
しかし、「筋膜」というのが、よくわからない。「このごろ流行」というのだけれど、そんなことばある?
もしかすると、筋肉の周りの贅肉? 脂肪? それなら「メタボ」ということばが浮かぶ。たしかに「流行」している。
でも、それって、中学生の話題じゃないねえ。
そう思ってると、次の連で「七十年前に別れた」ということばが出てきて、突然、時間がかわるから、「メタボ(筋膜)」は、その飛躍のための踏み切り台だったのかなあ。
昔は他人の筋肉に嫉妬した(こころを腐らせた)、いまは他人の脂肪のつきぐあいに嫉妬したり優越感にひたったり、やっぱり、こころを腐らせている。こころを大事なことにつかっていない、くらいの意味?
単なる連想だけれど、Aの死に関係して「臓器」は「心筋」と言い直されているから、死因は心臓なのかもしれない。Oの死因はまだ書かれていないが、Aは心臓が原因。そして、岡井は? あ、生きているのだけれど「肺」が「腐る」、つまり、病んでいる?
他人の病気に同情もするが、やっぱり病気かと他人が健康ではないのを、相あわれむということが、岡井の年代にはあるのかもしれない。
この奇妙な関係も、「腐っている」。あまり、健康的な関係とは言えない。それを自嘲しているのかなあ。
いや、違うなあ。
ここの「心筋」というのは「わたし(岡井)」の心筋。Aは故郷(?)の庄内川のほとりで死んだ(墓がある)。それをしみじみ思い、感傷に浸っている。こういう感傷、感情の動き、こころの動きを「心(筋)の腐敗」と呼んでいるのだろう。センチメンタルは「こころが腐っている証拠」というふうに、「かれ(A)」は、いつも「わたし(岡井)」の感情の激しさをからかい、あわれみ、笑っていたのだろう。
「肺臓性」というのは、その補足。肺→胸→心(臓)と連想をすすめれば、そこに「感情」が浮かび上がる。
いままたOの死に対して感情を動かしている「わたし(岡井)」。それを見るとAは憫笑するだろうなあ、と想像しているのだと思う。
で、最後の部分。
Oの死因は胆嚢性の「腐れ」らしい。
その前に「胆と胆」ということばが出てくる。これは「肝胆相照らす」ということばを思い起こさせる。互いに真心を打ち明けあい親しく交わる。中学時代は、そうだったのだ。そのころは互いのペニスや筋肉に驚き、嫉妬したり羨んだりしながら、「こころ」を「腐らせていた」。しかし、ほんとうは何も腐っていなかった。すべてが生き生きしていた。幾何学の線を引き、その線の上を走る知性が「感情(こころ)」そのものだった。
病が進行しはじめたのは、互いの「名」が出るようになってから。有名になってから。そのころから、二人の関係も「中学時代」そのままではなくなった、ということだろう。いまは「訃報」さえ、肉親が知らせてくるのではなく、何かで「読む」ことで知る関係なのだ。周りのいろいろいなことが二人を「中学生」にしてくれない。というのは、あまりにも世俗的な読み方かな?
「腐る」という動詞と「臓器(性)」というイメージが交錯し、その「臓器」に「こころ」が重なるように動いている。
「こころ」と書いてしまうと抽象的になるが、それを「臓器」という「比喩」にしてしまうと、とたんに生々しくなる。きっと「臓器」というものが「肉体」の内部にあって、切り離してしまうともう「いのち」がなくなるからだろう。
「臓器」という「比喩」によって、旧友との関係が、「臓器(内臓)」など気にかけもしない元気な「肉体」そのものの「なつかしさ」で目の前にあらわれてくる感じがする。
「動詞」が詩のことばを動かしていると同時に、「臓器性」という「イメージ」が、詩の全体を統一している。「臓器」という「もの」と「こころ/感情」が融合し、からみあったまま「肉体」としての人間を浮かび上がらせる。イメージの力、喚起力の支配が強い。このイメージの強さは、岡井が歌人であることも影響しているのかな? 短歌が鍛え上げたイメージの力。「名詞」によって、世界を統合する力を強く感じる。
岡井隆「臓器性腐敗臭」は「旧友Oの訃報を読んで作るうた」というサブタイトルをもっている。
その書き出しの二行。
どんなねぢくれたこころだつて仲間意識だつて
臓器性をもつて腐るんだ
この「臓器性」とは何だろう。わからない。「腐る」という動詞、それからサブタイトルの「訃報」を結びつけると、「臓器(内臓)」のどこかを悪くして、それが旧友の死因だったのかなあ、と感じる。
「臓器性をもつて」ということばを省略して、
どんなねぢくれたこころだつて仲間意識だつて
腐るんだ
これでも「意味」は通じる感じがする。ただし、その場合は「ねぢくれたこころ」というよりも「純粋なこころ」の方が「腐る」とぴったりくるかなあ。美しいこころ、美しい仲間意識というものも、いつかは「腐る」。だらしなく崩れ、解体していく。死んで行く。そういうことばの方が「わかりやすい」。「流通言語」に近い。
しかし岡井は「純粋なこころ」とは書かずに「ねぢくれたこころ」と書き、これを「仲間意識」と並列させる。そして、それを結びつけるものを「臓器性」と書いている。「臓器性」を「もつて」と「もつ」という動詞と組み合わせて動かしている。
この「臓器性」って、何だろう。
「ねぢくれた」という「こころ」を修飾していることばから「ねぢくれた臓器」、大腸のようなものが連想される。そうすると旧友の死因は大腸ガン?
わかったような、わからないような……。いや、ぜんぜん、わからない。
この「臓器性」は繰り返し出てくる。
君は汚れた手拭の外にもう一つ長大なものを股間にさげてゐた
それがわたしに臓器性の腐れごころを生んだとしても なあ しよ
んない
ペニスの大きさに嫉妬した。嫉妬は「腐れごごろ」、腐ったこころ、かもしれない。精神(知性?)に対する嫉妬ではなく、肉体に対する嫉妬だから「臓器性」? 肉体に関係していることを「臓器」で言い直している? それとも「臓器」は外から見えないから「隠しているこころ」?
君とわたしともう一人Aとで行灯をともしたのは多分三人といふの
が二人よりも腐りやすいと知つてたからだらう
三人が持つてる臓器性つてたとえば筋肉だね あるいは筋膜(この
ごろ流行の)
ここにも「腐る」という動詞があらわれる。ただし、それは「行灯をともす」ということばといっしょで「臓器性」からは少し離れている。「行灯をともす」は「昼行灯をともす」、無駄なことをする、役に立たないことをする、というくらいの「意味」かな? 二人よりも三人の方が仕事をさぼる、ずるをするとき、こころやすいということか。むりにことばを補えば、ここでも「こころ」が「腐る」ということになる。
「こころ」が「臓器」?
かもしれない。
ここに描かれる「わたし(岡井)」は中学生。中学生のころの「こころ」というのは、「内面」というよりも「外面」、つまり「体力」の方にあるだろうなあ。もてあます肉体の力。性に目覚めるころの肉体の暴走。それが「こころ」。そこから「腐る」。
先に引用した「股間の長大なもの」も「肉体」。
どうしても、自分の肉体と他人の肉体を比較して「こころ」が苦悩する。「腐る」。「こころ」は肉体とぴったり重なる。その肉体を「筋肉」と言い直しているのが、この部分なのかなあ。
しかし、「筋膜」というのが、よくわからない。「このごろ流行」というのだけれど、そんなことばある?
もしかすると、筋肉の周りの贅肉? 脂肪? それなら「メタボ」ということばが浮かぶ。たしかに「流行」している。
でも、それって、中学生の話題じゃないねえ。
そう思ってると、次の連で「七十年前に別れた」ということばが出てきて、突然、時間がかわるから、「メタボ(筋膜)」は、その飛躍のための踏み切り台だったのかなあ。
昔は他人の筋肉に嫉妬した(こころを腐らせた)、いまは他人の脂肪のつきぐあいに嫉妬したり優越感にひたったり、やっぱり、こころを腐らせている。こころを大事なことにつかっていない、くらいの意味?
庄内川はかはりなく庄内を流れそのほとりにAの死が厳存した
かういふのは臓器としては心筋の腐敗臭
かれは なんでも有頂天に喜ぶわたしの肺臓性の 腐れっぷりを手
を叩いて憫笑した!
単なる連想だけれど、Aの死に関係して「臓器」は「心筋」と言い直されているから、死因は心臓なのかもしれない。Oの死因はまだ書かれていないが、Aは心臓が原因。そして、岡井は? あ、生きているのだけれど「肺」が「腐る」、つまり、病んでいる?
他人の病気に同情もするが、やっぱり病気かと他人が健康ではないのを、相あわれむということが、岡井の年代にはあるのかもしれない。
この奇妙な関係も、「腐っている」。あまり、健康的な関係とは言えない。それを自嘲しているのかなあ。
いや、違うなあ。
ここの「心筋」というのは「わたし(岡井)」の心筋。Aは故郷(?)の庄内川のほとりで死んだ(墓がある)。それをしみじみ思い、感傷に浸っている。こういう感傷、感情の動き、こころの動きを「心(筋)の腐敗」と呼んでいるのだろう。センチメンタルは「こころが腐っている証拠」というふうに、「かれ(A)」は、いつも「わたし(岡井)」の感情の激しさをからかい、あわれみ、笑っていたのだろう。
「肺臓性」というのは、その補足。肺→胸→心(臓)と連想をすすめれば、そこに「感情」が浮かび上がる。
いままたOの死に対して感情を動かしている「わたし(岡井)」。それを見るとAは憫笑するだろうなあ、と想像しているのだと思う。
で、最後の部分。
旧友Oよ君は新聞に顔写真が出たわたしにお祝ひを言つて来たが二
つの腹部臓器を病んでゐたんぢやないかな 胆と胆の
むかしあの工場動員の庭で土の上に釘で線を引きながら幾何の演習
をしたよね
幾何の線分は少くとも生き生きとしてゐた
腐りはじめたのはお互ひ名が出てからだらうね 腹部臓器性の腐れ
つてひどいからね
二人で中学校の校庭の芝生に坐つて涙を拭ひ合つてゐた時には そ
れはなかつた 胆嚢性のあのふかくつて厭味な腐れは ね
Oの死因は胆嚢性の「腐れ」らしい。
その前に「胆と胆」ということばが出てくる。これは「肝胆相照らす」ということばを思い起こさせる。互いに真心を打ち明けあい親しく交わる。中学時代は、そうだったのだ。そのころは互いのペニスや筋肉に驚き、嫉妬したり羨んだりしながら、「こころ」を「腐らせていた」。しかし、ほんとうは何も腐っていなかった。すべてが生き生きしていた。幾何学の線を引き、その線の上を走る知性が「感情(こころ)」そのものだった。
病が進行しはじめたのは、互いの「名」が出るようになってから。有名になってから。そのころから、二人の関係も「中学時代」そのままではなくなった、ということだろう。いまは「訃報」さえ、肉親が知らせてくるのではなく、何かで「読む」ことで知る関係なのだ。周りのいろいろいなことが二人を「中学生」にしてくれない。というのは、あまりにも世俗的な読み方かな?
「腐る」という動詞と「臓器(性)」というイメージが交錯し、その「臓器」に「こころ」が重なるように動いている。
「こころ」と書いてしまうと抽象的になるが、それを「臓器」という「比喩」にしてしまうと、とたんに生々しくなる。きっと「臓器」というものが「肉体」の内部にあって、切り離してしまうともう「いのち」がなくなるからだろう。
「臓器」という「比喩」によって、旧友との関係が、「臓器(内臓)」など気にかけもしない元気な「肉体」そのものの「なつかしさ」で目の前にあらわれてくる感じがする。
「動詞」が詩のことばを動かしていると同時に、「臓器性」という「イメージ」が、詩の全体を統一している。「臓器」という「もの」と「こころ/感情」が融合し、からみあったまま「肉体」としての人間を浮かび上がらせる。イメージの力、喚起力の支配が強い。このイメージの強さは、岡井が歌人であることも影響しているのかな? 短歌が鍛え上げたイメージの力。「名詞」によって、世界を統合する力を強く感じる。
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