平林敏彦「生きて、書く」、谷川俊太郎「テラス」(「現代詩手帖」01月号)
平林敏彦「生きて、書く」は「詩を書くぞ/なにがなんでも 詩を書くぞ」という大岡信の引用からはじまっている。
その二連目の「詩を書いた仲間があつまって来る」ということばのあとに、
という三行がある。
いいなあ。「感傷に溺れることを拒まない」。これを「好きで好きで」と言い直している。好きなんだから、他人の批判なんか関係ない。感傷に溺れて何が悪い! 「好きで好きで」の繰り返しがいい。一回言うだけでは満足できない。言った気持ちになれない。
これを四連目で、また言い直している。
「好き」は「好きになる」という「自発的」な行動ではない。「好き」にさせられるのだ。そして「好きにさせられた」のに、そこに「強制的」なものを感じない。「好きになる/好きにさせられる」は区別がない。
それは、冒頭の大岡信の「詩を書くぞ/なにがなんでも 詩を書くぞ」のことばについても言える。そう言ったのは大岡信だが、そのことばを引用したとき、それは平林のことばにもなる。厳密な「区別」は意味がない。
では、私は、私の「好きな詩」について「感想」を書きつづけよう。
「好き」になってしまえば、もうそれは誰が書いた詩であっても、関係がない。「私のことば」として「好きなように」読む。「誤読」する。「そんな意味じゃない」と言われたって知ったことじゃない。間違って好きになって何が悪い。
そこにことばがある。それを読む。誰が書いたものかで区別してもはじまらない。「私が読んだ」ということだけがある。「読んで好きになった」という事実だけがある。だから、私は今年もわがまま放題を書く。
*
谷川俊太郎「テラス」の全行。
最終連も印象的だが、私は二連目の「鳩が一羽足元まで来た」が好きだ。
「魂」というものが存在すると私は考えたことがないので、「意味」をとろうとすると、そこでつまずいてしまうのだが。書いていることがかなりいいかげんになるのだが……。
「鳩」は何だろう。焼身自殺した僧の「魂」と読むと「意味」になる。ただの「鳩」、寺や駅のホームにもいる誰のものでもない「鳩」そのものと読むと「無意味/ナンセンス」になる。
「意味」に読むこともできるが「無意味/ナンセンス」としても読むことができる。どっちでもいい。その感じが私は好きだ。そして、どっちでもいいと思うからこそ「無意味/ナンセンス」の方に力点を置いて、「ここが好き」と言う。
でも、そう言ったあとで、困る。三連目に困る。
ここには「意味」しか書いてない。「意味」というのは、別なことばで言うと「論理」。抽象的で、「もの」が動いていかない。「ことば」が「考え」として動いている。「考え」だから、それこそ、どうとでも考えることができる。「ありえないこと」さえ人間は「考える」ことができ、その「ありえない」ことを「ことば」として存在させ、あたかも「ある」かのようにみせかけることができる。いや、実際、そうやって動いた「ことば」がそこに存在してしまう。
三連目の一行目の「みな」ということばが、そういう「論理」の無責任さ(?)に拍車をかけている。「みな」って誰? 私は読んだ瞬間、二連目の「鳩」と思って、そうか、「鳩」も人類か、うれしいなあ、と感じたのだが、これは私がそう読みたいだけで違うだろうなあ。
一連目に「老若男女」ということばがある。二連目に「僧侶」が出てくる。「鳩」は「無意味/ナンセンス」そのものであり、「みな」の「意味(内容)」は「老若男女」「僧」を引き継いでいるんだろうなあ。行き交う人々や僧は「自分を信用しているのか」「人類を信用しているのか」。
こういうことを「考える」のはなんだか、めんどうくさい。
こういうめんどうくさいことを考えてしまうことばの動きを、谷川は四連目で、ふたつのおもしろいことばであらわしている。
「意味(論理)」というのは意識的に追いかけるときもあるが、ときには知らず知らず、無意識に動いてしまうことがある。「意味(論理)」だけを勝手に追いかけて、ことばがことばのなかを暴走する。ことばの暴力である。ことばの肉体は、暴走するものなのだ。自分自身が何ができるかは問題ではなくなる。三連目に即して言えば、そこで問われているのは「みな」であり、谷川は自分は「何を信用している」とは書いていない。書かずに、他人に問いかける。そこに、ことばの暴力がひそんでいる。
もうひとつ、
「強面」という表現のなかに「暴力」がなんとなく隠れている。「強面の口調」とは「意味」をおいつづける口調のことだ。「意味」をおいつづける、「意味」にしばられると、「口調」が「強面」になる。あ、避けたい。近付きたくない、と思うときの「口調」だね。
で、そのあと、「口調」はそんなふうに「論理」を無意識に、抽象的に追っているのだが、ここで谷川は突然立ち止まる。「内心」ではどうか。自分自身に「自分を信用しているか/人類を信用しているか」と問いかける。そして、違うものを発見する。
「よちよち歩きの子」は「意味/論理」を追いかけない。たとえば「足元に来た鳩」をただそこに「鳩がいる」というだけのことで「鳩」を追いかける。追いかけると逃げる。逃げるだけではなく、飛ぶ。つかまえられない。つかまえられないのに、そのことが楽しい。「無意味」が楽しい。
そこでは「意味」はまだ生まれていない。「未生」である。「意味」は「未生」でも「肉体」はすでにある。その「意味にしばられる前の肉体」を思い出せる、思い出すということが楽しいなあ。
そして、こから三連目へ引き返してみる。「信用している(信用する)」ということばが二度出てきている。谷川は何を「信用している」のか。「強面の口調」ではないな。むしろ、「よちよち歩きの子」を「信用している」。
四連目の最終行の「ほっとする」は「信用している(信用する)」に通じる。それは「信用できる」「安心できる」という具合に言い直すことができる。「強面」は「安心できる」こともあるかもしれないが、なんとなく「警戒心」を誘う。
「知らず知らず」無意識のうちに意味ということばの暴力へと突き進んでしまったが、そこで立ち止まり、谷川は「よちよち歩きの子」にもどることができる。「意味」を捨てて、「無意味」に生きることができる。その、瞬間的にぱっとあらわれた谷川の姿に、私はそれこそ「ほっと」する。「はっと」して引き込まれる。
谷川は「無意味」を「信用している」。「無意味」のなかにある、不思議な力をを信用している。それは「強面」ではない何かだ。「やわらか」な何かだ。
で、ここからさらに一連目へ引き返すことができる。
書き出しの「物語の流れ」とは何か。きっと「意味」の流れ、「意味の形」なのだろう。「流れ」というからには、ある「方向」がある。「意味」とは「方向」のことである。「方向」にあっているものが「意味」として尊重される。「流れ/方向」から逸脱していくものは「無意味/ナンセンス」として否定される。
だから、ここでは谷川は「意味になること」に「身を任せたくない」と言っているのだと思う。
「曼陀羅」にももちろん「意味」はあるだろうけれど、それは「物語」のように「流れ」をつくっていない。どこまでも広がっている。
あ、こんなふうに書いてしまうと、それはそれで「意味」になってしまうなあ。
やっぱり最初にもどろう。
二連目の「鳩が一羽足元まで来た」がいいなあ。その「鳩」に「意味」などなくて、意味がないからこそ、むじゃきに追いかける「よちよち歩きの子」になることができる。「意味」(物語)の「流れ」とは無関係に存在している「肉体」、「肉体」で「鳩」と向き合う瞬間がいいなあ。二連目で「鳩」に気がつくとき、谷川は「よちよち歩きの子」になっている。「焼身自殺」「僧侶」「魂」というようなことばのすぐあとでも、谷川は「よちよち歩きの子」に「なる」ことができる。そこが好きだなあ。
*
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平林敏彦「生きて、書く」は「詩を書くぞ/なにがなんでも 詩を書くぞ」という大岡信の引用からはじまっている。
その二連目の「詩を書いた仲間があつまって来る」ということばのあとに、
かれらは感傷に溺れることを拒まない
みんな詩が好きで好きで
生きのびてきたのだと
という三行がある。
いいなあ。「感傷に溺れることを拒まない」。これを「好きで好きで」と言い直している。好きなんだから、他人の批判なんか関係ない。感傷に溺れて何が悪い! 「好きで好きで」の繰り返しがいい。一回言うだけでは満足できない。言った気持ちになれない。
これを四連目で、また言い直している。
寝ても覚めてもおれたちは
詩という毒に衿首をつかまれたのだ
「好き」は「好きになる」という「自発的」な行動ではない。「好き」にさせられるのだ。そして「好きにさせられた」のに、そこに「強制的」なものを感じない。「好きになる/好きにさせられる」は区別がない。
それは、冒頭の大岡信の「詩を書くぞ/なにがなんでも 詩を書くぞ」のことばについても言える。そう言ったのは大岡信だが、そのことばを引用したとき、それは平林のことばにもなる。厳密な「区別」は意味がない。
では、私は、私の「好きな詩」について「感想」を書きつづけよう。
「好き」になってしまえば、もうそれは誰が書いた詩であっても、関係がない。「私のことば」として「好きなように」読む。「誤読」する。「そんな意味じゃない」と言われたって知ったことじゃない。間違って好きになって何が悪い。
そこにことばがある。それを読む。誰が書いたものかで区別してもはじまらない。「私が読んだ」ということだけがある。「読んで好きになった」という事実だけがある。だから、私は今年もわがまま放題を書く。
*
谷川俊太郎「テラス」の全行。
物語の流れに身を任せたくない
むしろ曼陀羅の片隅に身を隠したい
と思いながら午後のテラスに座って
老若男女が行き交うのを見ている
焼身自殺という方法で
この世から出て行く僧侶の
魂の行方を知りたい
鳩が一羽足元まで来た
みな人類の一員なのだ
どこまで自分を信用しているのか
人類を信用しているのか
知らず知らずのうちに
強面の口調になっている私の内心
よちよち歩きの子がいるとほっとする
最終連も印象的だが、私は二連目の「鳩が一羽足元まで来た」が好きだ。
「魂」というものが存在すると私は考えたことがないので、「意味」をとろうとすると、そこでつまずいてしまうのだが。書いていることがかなりいいかげんになるのだが……。
「鳩」は何だろう。焼身自殺した僧の「魂」と読むと「意味」になる。ただの「鳩」、寺や駅のホームにもいる誰のものでもない「鳩」そのものと読むと「無意味/ナンセンス」になる。
「意味」に読むこともできるが「無意味/ナンセンス」としても読むことができる。どっちでもいい。その感じが私は好きだ。そして、どっちでもいいと思うからこそ「無意味/ナンセンス」の方に力点を置いて、「ここが好き」と言う。
でも、そう言ったあとで、困る。三連目に困る。
ここには「意味」しか書いてない。「意味」というのは、別なことばで言うと「論理」。抽象的で、「もの」が動いていかない。「ことば」が「考え」として動いている。「考え」だから、それこそ、どうとでも考えることができる。「ありえないこと」さえ人間は「考える」ことができ、その「ありえない」ことを「ことば」として存在させ、あたかも「ある」かのようにみせかけることができる。いや、実際、そうやって動いた「ことば」がそこに存在してしまう。
三連目の一行目の「みな」ということばが、そういう「論理」の無責任さ(?)に拍車をかけている。「みな」って誰? 私は読んだ瞬間、二連目の「鳩」と思って、そうか、「鳩」も人類か、うれしいなあ、と感じたのだが、これは私がそう読みたいだけで違うだろうなあ。
一連目に「老若男女」ということばがある。二連目に「僧侶」が出てくる。「鳩」は「無意味/ナンセンス」そのものであり、「みな」の「意味(内容)」は「老若男女」「僧」を引き継いでいるんだろうなあ。行き交う人々や僧は「自分を信用しているのか」「人類を信用しているのか」。
こういうことを「考える」のはなんだか、めんどうくさい。
こういうめんどうくさいことを考えてしまうことばの動きを、谷川は四連目で、ふたつのおもしろいことばであらわしている。
知らず知らず
「意味(論理)」というのは意識的に追いかけるときもあるが、ときには知らず知らず、無意識に動いてしまうことがある。「意味(論理)」だけを勝手に追いかけて、ことばがことばのなかを暴走する。ことばの暴力である。ことばの肉体は、暴走するものなのだ。自分自身が何ができるかは問題ではなくなる。三連目に即して言えば、そこで問われているのは「みな」であり、谷川は自分は「何を信用している」とは書いていない。書かずに、他人に問いかける。そこに、ことばの暴力がひそんでいる。
もうひとつ、
強面の口調
「強面」という表現のなかに「暴力」がなんとなく隠れている。「強面の口調」とは「意味」をおいつづける口調のことだ。「意味」をおいつづける、「意味」にしばられると、「口調」が「強面」になる。あ、避けたい。近付きたくない、と思うときの「口調」だね。
で、そのあと、「口調」はそんなふうに「論理」を無意識に、抽象的に追っているのだが、ここで谷川は突然立ち止まる。「内心」ではどうか。自分自身に「自分を信用しているか/人類を信用しているか」と問いかける。そして、違うものを発見する。
よちよち歩きの子がいるとほっとする
「よちよち歩きの子」は「意味/論理」を追いかけない。たとえば「足元に来た鳩」をただそこに「鳩がいる」というだけのことで「鳩」を追いかける。追いかけると逃げる。逃げるだけではなく、飛ぶ。つかまえられない。つかまえられないのに、そのことが楽しい。「無意味」が楽しい。
そこでは「意味」はまだ生まれていない。「未生」である。「意味」は「未生」でも「肉体」はすでにある。その「意味にしばられる前の肉体」を思い出せる、思い出すということが楽しいなあ。
そして、こから三連目へ引き返してみる。「信用している(信用する)」ということばが二度出てきている。谷川は何を「信用している」のか。「強面の口調」ではないな。むしろ、「よちよち歩きの子」を「信用している」。
四連目の最終行の「ほっとする」は「信用している(信用する)」に通じる。それは「信用できる」「安心できる」という具合に言い直すことができる。「強面」は「安心できる」こともあるかもしれないが、なんとなく「警戒心」を誘う。
「知らず知らず」無意識のうちに意味ということばの暴力へと突き進んでしまったが、そこで立ち止まり、谷川は「よちよち歩きの子」にもどることができる。「意味」を捨てて、「無意味」に生きることができる。その、瞬間的にぱっとあらわれた谷川の姿に、私はそれこそ「ほっと」する。「はっと」して引き込まれる。
谷川は「無意味」を「信用している」。「無意味」のなかにある、不思議な力をを信用している。それは「強面」ではない何かだ。「やわらか」な何かだ。
で、ここからさらに一連目へ引き返すことができる。
物語の流れに身を任せたくない
書き出しの「物語の流れ」とは何か。きっと「意味」の流れ、「意味の形」なのだろう。「流れ」というからには、ある「方向」がある。「意味」とは「方向」のことである。「方向」にあっているものが「意味」として尊重される。「流れ/方向」から逸脱していくものは「無意味/ナンセンス」として否定される。
だから、ここでは谷川は「意味になること」に「身を任せたくない」と言っているのだと思う。
「曼陀羅」にももちろん「意味」はあるだろうけれど、それは「物語」のように「流れ」をつくっていない。どこまでも広がっている。
あ、こんなふうに書いてしまうと、それはそれで「意味」になってしまうなあ。
やっぱり最初にもどろう。
二連目の「鳩が一羽足元まで来た」がいいなあ。その「鳩」に「意味」などなくて、意味がないからこそ、むじゃきに追いかける「よちよち歩きの子」になることができる。「意味」(物語)の「流れ」とは無関係に存在している「肉体」、「肉体」で「鳩」と向き合う瞬間がいいなあ。二連目で「鳩」に気がつくとき、谷川は「よちよち歩きの子」になっている。「焼身自殺」「僧侶」「魂」というようなことばのすぐあとでも、谷川は「よちよち歩きの子」に「なる」ことができる。そこが好きだなあ。
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平林 敏彦 | |
思潮社 |
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谷川 俊太郎 | |
ナナロク社 |
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2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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