谷川俊太郎「テラス」(「現代詩手帖」2016年01月号)
谷川俊太郎「テラス」について、もう少し書いておく。
この二連目のことばの動きが、私はとても好きである。特に「鳩が一羽足元まで来た」が好きでたまらない。
きのう感想を書いた直後、なぜそこが好きなのか、もう一度考えられないか、もう一度ことばを動かせないか、と思った。でも、そうするためには一度完全にこの詩を忘れないといけない。
で、一晩置いた。
きのうと同じことを書いてしまうのか、それともまったく違う感想になるのか、わからないが、なぜ好きなのか、そのことをもう一度書いてみようと思う。
これは谷川の「願望/欲望」である。一連目の「物語の流れに身を任せたくない/むしろ曼陀羅の片隅に身を隠したい」と同じ「……したい」という形の動詞で終わっている。(「任せたくない」は「任せたい」の否定形である。)「……したい」は「欲する」という動詞に置き換えることができる。言い直すことができる。
「知りたい」というのは、しかし、また別の「動詞」で言い直すことができる。「知ることを欲する」よりも、もっと簡単ないい方がある。
疑問である。一連目で「……したい」という表現をつかったために、二連目でも「……たい」という形をとることで、「起承転結」の「承」の感じをととのえているのだが、「疑問」をあらわしているととらえることができる。
「疑問」に対しては「答え」が必要である。一般的に。
だから「答え」を「鳩が一羽足元まで来た」に見出そうとすると、「魂」は「鳩」になって谷川の「足元」にきた、という「意味」になる。「意味」といっても、これは「象徴/暗示/啓示」のようなもの。
でも、私は、そういうふうには読みたくない。何か、違うと感じる。鳩はほんものの鳩にしか感じられない。「意味」をもっているとは感じられない。
「質問(疑問)」には、「答え」がないものがあるのではないのか。「疑問」そのものが「答え」であるようなことがらがあるのではないだろうか。
焼身自殺した僧侶の魂はどこへ行ったのか。
疑問の形でしか、魂の存在はつかめない。疑問に思ったとき、その疑問のなかに魂がある。「どこかにある」のであって、「どこかにある」以外のほかのどこにも魂は存在しない。特定/限定できない。「どこにあるか/どこかにある」は一つになっているので、それはそういうものなのだと言うしかない。
では、そのあとの
これは何なのか。「答え」ではないとしたら何なのか。
「疑問」からの「解放」である。「どこにあるか/どこかにある」を、そのままほうり出して、その「疑問/答え」から「自由」になる。束縛されない。
「自由」というのは「ほんらいの存在の形(あり方)」かもしれない。すべての存在は「限定されない/特定されない」という「自由」をもって生きているはずである。
この「自由」を一連目にもどって、一連目のことばを動かすと、つまり「自由」ということばを補って動かしてみると……。
は
ということかもしれない。
三連目の「信用」は「自由」とは「正反対」のものなのかもしれない。「信用」のためには「自由(好き勝手)」は許されない。
繰り返される「信用しているのか」という「疑問」。
では、この「疑問」は「焼身自殺した僧侶の魂はどこへ行ったのか」という「疑問」とどう違うのだろう。
たぶん「答え」があるのだ。「信用しているのか」の方には。
つまり、「答え」を出すことができるのだ。あるいは、「答え」を必要としていると言えるかもしれない。
「信用する」というのは「人間」と「人間」の関係、社会的な関係である。社会であるかぎり、そこに一定の「基準」がある。「ルール」がある。
「魂」なら「鳩になった」と言っても、「木になった」と言っても、「空になった」「星になった」と言っても、「間違い」ではない。「間違い」であると証明できない。私のように「魂なんて存在しない」と言っても「間違い」であると証明できない。何と言っても「自由」である。
「社会(人間の信用が動いている場)」では、「信用」を裏切ることはできない。「自由」は制限される。どんな疑問にも一定の「答え」がある。
赤信号のときも道路を横断していいか、だめ。ひとを殺してもいいか、だめ。
それは他人の「信用」を裏切るから、だめなのだ。
四連目の最後に出てくる「よちよち歩きの子」は、そういう「ルール」から、まだ「自由」な存在である。まだ「限定」を踏み外して歩き回ることが許されている。
足元にやってきた鳩。これは何? なぜ、逃げる? なぜ、飛ぶ? 逃げたのに、また、なぜ近くにやってくる? 鳩は、なぜ、そんな行動をする? もし「答え」があるとするならば、「そうするのが鳩」という答えしかないだろう。
同様に。
「よちよち歩きの子」が足元の鳩を追いかけるのはなぜ? そうするのが「よちよち歩きの子」なのだ、という答えしかないだろう。
それは「答え」のふりをしているが、「答え」ではなく、そういう「答え」を引き出す「疑問」が「そこにある」としか言えない。
あ、何か、書きたいこととずれてしまったかなあ。
強引に言ってしまえば、私は、谷川の書いている「疑問」と「答え」の関係、「無意味」の浮かび上がらせ方が「好き」なのだ。
「好き」かどうかでは、詩の「批評」にならない。詩を「評価」したことにはならない、という考え方があると思う。
まあ、そうなんだろうなあ。
ただ、私の考えを言えば、私にとって「詩」とは「対象」ではない。
ある詩を「好き」になるとき、その「詩」、ことばを「対象」として「好き」と言っているのではない。
「好きになる」というのは「対象そのものになる」ということだ。
これは「好き」の「対象」を「人間」で考えるとわかりやすい。誰かを「好き」になる。そのとき、私は「そのひと」になってしまっている。「そのひと」は「私」である。だから、「私であるはずのそのひと」が「私」の思いとは違ったことをすると、なぜなんだ、という気持ちに襲われる。そこから何かを見つけ出し、さらに「好き」になることもあれば、「大嫌い」になることもある。
「好き」は「対象になる」ことだけれど、「対象に縛られることはない」。わがままで、矛盾している。
私の「日記」は詩への「批評」を書いたものではない。詩を対象として「評価」(採点)しているものではない。私は、出合って「好き」になった詩そのものに「なりたい」。
この「なりたい」は詩だと欲望がつたわりにくいかもしれないが、音楽を例にとるとわかってもらえると思う。(私は音痴なので、自分にはできないことなのだが……。)
たとえばモーツァルトの曲がある。それは演奏の「対象」である。しかし、それを演奏するとき、たぶん演奏者は「対象」として曲を認識しない。そうではなく、モーツァルトの書いている「音楽」そのものに「なる」ために演奏する。演奏することでモーツァルトの「音楽」に「なる」。そしてモーツァルトそのものに「なる」。そんなふうにして、私は「詩」に「なりたい」。
谷川が「焼身自殺した僧侶の魂の行方を知りたい(魂はどこへ行ったのだ)」と書いたあと、足元まで来た「鳩」を書いている。その「鳩」のことを谷川は「好き」だと思う。「好き」だから鳩を書いたのだと思う。そして、そのとき谷川は鳩に「なっている」と感じる。私がその「鳩」に意味を感じないのは、谷川は「意味」になったのではなく「鳩」に「なっている」からである。谷川が「鳩になった」ように、私は、「好きな詩になりたい」。そのために、わがまま放題にことばを動かして、感想を書く。
いままでもわがままな感想を書いてきたが、ことしはもっともっとわがままな感想を書きたいので、前もって「わがまま宣言」をしておくことにする。
*
谷内修三詩集「注釈」発売中
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支払方法は、発送の際お知らせします。
谷川俊太郎「テラス」について、もう少し書いておく。
焼身自殺という方法で
この世から出て行く僧侶の
魂の行方を知りたい
鳩が一羽足元まで来た
この二連目のことばの動きが、私はとても好きである。特に「鳩が一羽足元まで来た」が好きでたまらない。
きのう感想を書いた直後、なぜそこが好きなのか、もう一度考えられないか、もう一度ことばを動かせないか、と思った。でも、そうするためには一度完全にこの詩を忘れないといけない。
で、一晩置いた。
きのうと同じことを書いてしまうのか、それともまったく違う感想になるのか、わからないが、なぜ好きなのか、そのことをもう一度書いてみようと思う。
魂の行方を知りたい
これは谷川の「願望/欲望」である。一連目の「物語の流れに身を任せたくない/むしろ曼陀羅の片隅に身を隠したい」と同じ「……したい」という形の動詞で終わっている。(「任せたくない」は「任せたい」の否定形である。)「……したい」は「欲する」という動詞に置き換えることができる。言い直すことができる。
「知りたい」というのは、しかし、また別の「動詞」で言い直すことができる。「知ることを欲する」よりも、もっと簡単ないい方がある。
魂はどこへ行ったのか
疑問である。一連目で「……したい」という表現をつかったために、二連目でも「……たい」という形をとることで、「起承転結」の「承」の感じをととのえているのだが、「疑問」をあらわしているととらえることができる。
「疑問」に対しては「答え」が必要である。一般的に。
だから「答え」を「鳩が一羽足元まで来た」に見出そうとすると、「魂」は「鳩」になって谷川の「足元」にきた、という「意味」になる。「意味」といっても、これは「象徴/暗示/啓示」のようなもの。
でも、私は、そういうふうには読みたくない。何か、違うと感じる。鳩はほんものの鳩にしか感じられない。「意味」をもっているとは感じられない。
「質問(疑問)」には、「答え」がないものがあるのではないのか。「疑問」そのものが「答え」であるようなことがらがあるのではないだろうか。
焼身自殺した僧侶の魂はどこへ行ったのか。
疑問の形でしか、魂の存在はつかめない。疑問に思ったとき、その疑問のなかに魂がある。「どこかにある」のであって、「どこかにある」以外のほかのどこにも魂は存在しない。特定/限定できない。「どこにあるか/どこかにある」は一つになっているので、それはそういうものなのだと言うしかない。
では、そのあとの
鳩が一羽足元まで来た
これは何なのか。「答え」ではないとしたら何なのか。
「疑問」からの「解放」である。「どこにあるか/どこかにある」を、そのままほうり出して、その「疑問/答え」から「自由」になる。束縛されない。
「自由」というのは「ほんらいの存在の形(あり方)」かもしれない。すべての存在は「限定されない/特定されない」という「自由」をもって生きているはずである。
この「自由」を一連目にもどって、一連目のことばを動かすと、つまり「自由」ということばを補って動かしてみると……。
物語の流れに身を任せたくない
むしろ曼陀羅の片隅に身を隠したい
は
物語の流れに身をしばられず、自由にいたい
むしろ曼陀羅の片隅に身を隠したい、自由にいたい
ということかもしれない。
三連目の「信用」は「自由」とは「正反対」のものなのかもしれない。「信用」のためには「自由(好き勝手)」は許されない。
繰り返される「信用しているのか」という「疑問」。
では、この「疑問」は「焼身自殺した僧侶の魂はどこへ行ったのか」という「疑問」とどう違うのだろう。
たぶん「答え」があるのだ。「信用しているのか」の方には。
つまり、「答え」を出すことができるのだ。あるいは、「答え」を必要としていると言えるかもしれない。
「信用する」というのは「人間」と「人間」の関係、社会的な関係である。社会であるかぎり、そこに一定の「基準」がある。「ルール」がある。
「魂」なら「鳩になった」と言っても、「木になった」と言っても、「空になった」「星になった」と言っても、「間違い」ではない。「間違い」であると証明できない。私のように「魂なんて存在しない」と言っても「間違い」であると証明できない。何と言っても「自由」である。
「社会(人間の信用が動いている場)」では、「信用」を裏切ることはできない。「自由」は制限される。どんな疑問にも一定の「答え」がある。
赤信号のときも道路を横断していいか、だめ。ひとを殺してもいいか、だめ。
それは他人の「信用」を裏切るから、だめなのだ。
四連目の最後に出てくる「よちよち歩きの子」は、そういう「ルール」から、まだ「自由」な存在である。まだ「限定」を踏み外して歩き回ることが許されている。
足元にやってきた鳩。これは何? なぜ、逃げる? なぜ、飛ぶ? 逃げたのに、また、なぜ近くにやってくる? 鳩は、なぜ、そんな行動をする? もし「答え」があるとするならば、「そうするのが鳩」という答えしかないだろう。
同様に。
「よちよち歩きの子」が足元の鳩を追いかけるのはなぜ? そうするのが「よちよち歩きの子」なのだ、という答えしかないだろう。
それは「答え」のふりをしているが、「答え」ではなく、そういう「答え」を引き出す「疑問」が「そこにある」としか言えない。
あ、何か、書きたいこととずれてしまったかなあ。
強引に言ってしまえば、私は、谷川の書いている「疑問」と「答え」の関係、「無意味」の浮かび上がらせ方が「好き」なのだ。
「好き」かどうかでは、詩の「批評」にならない。詩を「評価」したことにはならない、という考え方があると思う。
まあ、そうなんだろうなあ。
ただ、私の考えを言えば、私にとって「詩」とは「対象」ではない。
ある詩を「好き」になるとき、その「詩」、ことばを「対象」として「好き」と言っているのではない。
「好きになる」というのは「対象そのものになる」ということだ。
これは「好き」の「対象」を「人間」で考えるとわかりやすい。誰かを「好き」になる。そのとき、私は「そのひと」になってしまっている。「そのひと」は「私」である。だから、「私であるはずのそのひと」が「私」の思いとは違ったことをすると、なぜなんだ、という気持ちに襲われる。そこから何かを見つけ出し、さらに「好き」になることもあれば、「大嫌い」になることもある。
「好き」は「対象になる」ことだけれど、「対象に縛られることはない」。わがままで、矛盾している。
私の「日記」は詩への「批評」を書いたものではない。詩を対象として「評価」(採点)しているものではない。私は、出合って「好き」になった詩そのものに「なりたい」。
この「なりたい」は詩だと欲望がつたわりにくいかもしれないが、音楽を例にとるとわかってもらえると思う。(私は音痴なので、自分にはできないことなのだが……。)
たとえばモーツァルトの曲がある。それは演奏の「対象」である。しかし、それを演奏するとき、たぶん演奏者は「対象」として曲を認識しない。そうではなく、モーツァルトの書いている「音楽」そのものに「なる」ために演奏する。演奏することでモーツァルトの「音楽」に「なる」。そしてモーツァルトそのものに「なる」。そんなふうにして、私は「詩」に「なりたい」。
谷川が「焼身自殺した僧侶の魂の行方を知りたい(魂はどこへ行ったのだ)」と書いたあと、足元まで来た「鳩」を書いている。その「鳩」のことを谷川は「好き」だと思う。「好き」だから鳩を書いたのだと思う。そして、そのとき谷川は鳩に「なっている」と感じる。私がその「鳩」に意味を感じないのは、谷川は「意味」になったのではなく「鳩」に「なっている」からである。谷川が「鳩になった」ように、私は、「好きな詩になりたい」。そのために、わがまま放題にことばを動かして、感想を書く。
いままでもわがままな感想を書いてきたが、ことしはもっともっとわがままな感想を書きたいので、前もって「わがまま宣言」をしておくことにする。
現代詩手帖 2016年 01 月号 [雑誌] | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |
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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
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