詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北条裕子「時の庭」、森文子「根っこ」

2016-01-21 08:39:49 | 詩(雑誌・同人誌)
北条裕子「時の庭」、森文子「根っこ」(「木立ち」123 、2015年12月20日発行)

 北条裕子「時の庭」は時間の経過とともに姿を変えていく庭の様子を描いたもの。その三連目。

百合を眺めながら
あなたが見ているかもしれない
夢の底を
私も見ている。

 あ、いいなあ。何度も何度も読み返してしまった。
 「あなたが見ているかもしれない」は「仮定」。確かなことではない。だが、「私も見ている」と書いた瞬間に、「仮定」は「事実」に変わる。
 私「は」見ている、なら仮定のまま。
 私「も」見ている、だから、もう仮定ではない。
 「も」が仮定を事実に変えてしまう。
 あなた「は」見ている、そして私「も」見ている。
 それは、「あなたが見ていてほしい」という願い、祈りから生まれている。この願い、祈りは北条にとって「ほんとう」、つまり事実である。願い、祈りの「ほんとう」の気持ちが、仮定を「事実」にかえてしまう。

この頃では
息を吸う量も少なくなった。
夢の底には人も住まないが
いつかは終わるこの世が
ずっとつづいていくことを願って。

 ここに、静かに「願う」ということばが出てくる。
 「あなた」はもう「この世」にはいないひとかもしれない。それでも「この世」はつづいている。その「この世」が、さらにつづいていくことを「願う」。
 それは、「あなた」が「この世」をずっと「見ている」ことを願うことでもある。「この世」がつづいていかなければ、「あなたがこの世/夢の底」を見つづけるということが不可能になる。
 事実と願いが、一種の逆転を起こしている。
 願う、祈ると、そこに事実が生まれてくる。
 美しいなあ。

あなたの気がつかないうちに
立ち去っていくものがいくつもあって。
夏が終わる日
百合たちもまた全員いなくなって。
無人になった庭
茫々と荒れ果てて。

鎖骨に受ける 光を避けて
風を束ね
その行く末を整える。

 そうか、願うこと、祈ることは、何かを「整える」ことなのだ。
 「行く末」は、人間が生きているあいだだけあるのではない。ずっとつづいていく。だれも「行く末」のことはわからない。だから、願い、祈り、整える。「いま」を「現実」を、「事実」に。



 森文子「根っこ」は始末しても始末してもはびこるドクダミについて書いている。

地上で 茎が刈られると
地中の根っこに安らんでいた芽 目覚め
いきおい萌芽するのだ という
滅びを拒む いのちへの強い鼓舞

 四行目は三行目の言い直し。ドクダミの姿を描写するだけではなく、それを「意味」として語り直している。「滅びを拒む」と言い直して、さらに「いのちへの強い鼓舞」と言い直している。聞いたこと(「……という」)を言い直すことで、自分の感情/思想にしている。
 だから、それは森自身への呼びかけである。「強い」という強調のことばもある。自分に向けて「強いことば」を投げつけ、励ましている。
 「意味」は他人に向けてではなく、自分に向けて語られるとき、願い、祈りになる。

痛みつけられて うなだれるしかない
 この身の底の根っこの 芽よ
あきらめず どうか目を覚ましておくれ

 ここから、森は書き出しの一行に戻るのだ。

これから わたし ドクダミになる



花眼
北条 裕子
思潮社
コメント
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