詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岬多可子『色を熾す』

2016-01-30 10:08:48 | 詩集
岬多可子『色を熾す』(私家版、2016年01月01日)

 岬多可子『色を熾す』は月ごとの12篇。「 潮ひかり」が美しい。

海草をもどすと
海がほどける。
ちいさな器は潮のたまり、
波打つ 際(きわ)にも 春は立ち、
つまさきで 仄暗さをさぐるように
日脚は そろそろと伸びていく。
光の やあらかく
水と硝子をくぐりぬけて
ゆるむ ゆれる ゆがむ、
つぷつぷとつぶやく 息の泡。

 「海がほどける」が印象的だ。かたまっていたものが、「ほどける」。そして「ひろがる」。書いてある「動詞」はひとつなのだが、「ふたつ」の「動き」がある。「広がる」の方は、書いていないから、読者が勝手に「誤読」するのだが、その「誤読する」瞬間に、詩に参加している気持ちになる。言い換えると、自分で詩を書いている気持ちになる。岬が書いた詩なのに、「広がる」と誤読するとき、自分が書いた作品になってしまう。それが、とてもうれしい。
 あとは、もう、岬が見ている「世界」ではなく、私(谷内/読者)が見ている世界。
 春先の波打ち際に立っているのは岬ではなく、私。冷たいかな? おそるおそるのばすつまさきは、岬のつまさきではなく、私のつまさき。つまさきを海にひたしたことを「肉体」が思い出す。その肉体は、まぎれもなく私の肉体。
 そのときの「おそるおそる」を岬は「仄暗さをさぐる」と言っている。「仄暗い」のは波か、波が冷たいかもしれないと思う肉体か。かすかな不安が、こころをかすかに暗くする。それが「仄暗さ」と呼ばれるものかもしれない。もちろん、それは「海の色」そのものでもあると思う。「肉体の内部」と「海の内部(波の内部)」がかさなりあう。「さぐる」という動詞は「さぐられる」という形でかえってくるのかもしれない。そして、この「肉体」と「海」の「内部」のかさなりあい、交流に、二行目の「ほどける」が満ち潮のようにしずかに押し寄せてくる。
 「ほどける」。外部がほどかれ、内部がほどかれる。内部が、外へ広がっていく。ほどかれ、ふたつの「内部」がまじりあう。
 この「ほどける/ほどかれる/ひろがる」は、さらに「伸びていく(伸びる)」という動詞で言い直される。「主語」はこのとき「海」でも「私のつまさき(肉体)」でもなく、「日脚」なのだが、「主語」にこだわっていては、世界がばらばらになる。「動詞」が世界をしずかにととのえているのである。
 どんな動詞でも、私たちはきっと「自分の肉体」で確かめている。反芻している。そして、「動詞」を共有することで、私たちは「海の水」にも「日脚」にもなる。言い換えると、そのとき「海」も「日脚」も「私の肉体」なのである。
 この「日脚」は次の行で「光」と言い換えられているから、「光」もまた「私の肉体」である。
 で、そのあと

光の やあらかく

 ほおおおっ。
 「やわらかく」ではなく「やあらかく」。ことばが、崩れている。崩れているけれど、それを「肉体」は「わかる」。わかってしまう。「やあらかく」なんてことばはない、というのは「頭」が言うこと。「肉体」は「やわらかく」よりももっと「やわらかい」のが「やあらかく」だとわかる。「子音」がひとつ減る。声に出すときの肉体の動きがひとつ減る。「あ」の音がつながっていく。明るく動いていく。「仄暗い」ものが「ほどかれ」て、あかるく「伸びていく」。

 この「動詞」の変化は、「硝子(器)」という「日常(現実)」を「くぐりぬけ」ることで、「もどる」ことで、もう一度変化する。

ゆるむ ゆれる ゆがむ、

 「ゆるむ」は「ほどける/ほどく/ほどかれる」につながる動詞である。「ゆれる」は「伸びる(広がる)」につながるだろう。「ゆがむ」はなんだろう。「仄暗さ/陰り/影」とかさなるかな? ほんとうの春か、春と感じるだけで、まだ冬なのか。光は春だが、水は冬。あいまいな、しかし予感が動く二月。そのなかで「ゆれる」岬。
 何か、料理のために乾燥した海草を水でもどしている、その海草をや水を見るというよりも、そこにいる「岬の肉体」そのものを感じる。これは、そこに書かれている「動詞」をとおして、私が岬になってしまうからだろう。

 でも、

つぷつぷ

 というオノマトペのなかに、ふいに岬があらわされてきて、私は突き放される。海草を水につけたときにできる気泡。それがゆっくりと水になじみ、とけていく様子なのかもしれない。「息の泡」の「息」には岬の呼吸もふくまれているのかもしれない。
 短い詩なのに、ここで一気に複雑になる。「光の やあらかく」で感じた解放感が、「水と硝子を……」からだんだん消えてきて「息」の苦しさになる。そこに岬の「現実」があるのかもしれないが、明るいままで終わってもよかったのでは、と思う。「正月」に読む詩なのだから。



桜病院周辺
岬 多可子
書肆山田
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