詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

久谷雉『影法師』

2016-01-28 09:59:05 | 詩集
久谷雉『影法師』(ミッドナイト・プレス、2016年12月11日発行)

 久谷雉『影法師』は「旧かなづかい」で書かれている。

鏡の中の惑星を
一日かけてみがくやうに、                (「骨よりもながく」)

 どうしてかな? 「口語」の感覚(におい)を消したいのかな? ことばをことばとして独立させたいのかな? ことばには、ことば独自の運動がある、ということだろうか。たしかに、この二行は、そういうことを語っているかもしれない。
 「鏡の中の惑星」とは鏡に映っている惑星だろう。私は水に映った月は見たことがあるが、星が水に映るかどうか、知らない。水に星が映っていると気づいたことがない。だから鏡に星が映るかどうかも、よくわからないのだが……。それが鏡に映っているとしても、星そのものを磨くというわけではない。あくまで磨くのは鏡である。だから、もし「正確」に言おうとするなら、「鏡の中の惑星を磨く」ではなく、「惑星の映っている鏡を磨く」ということになる。
 しかし、こういう「散文的」な言い方では、磨いているひとの「事実」は違ってきてしまう。磨いているひとの思いは鏡そのものにあるのではなく、星の方にある。鏡ではなく、星そのものを磨いて、星をもっと輝かせたい。
 ことばは、ことばそのものの「正確な意味」ではなく、ことばの奥にある「欲望」のようなものを伝えたい。「意味=日常の生活をととのえているもの」を、ただわかりやすく伝える。ふつうに話しているように書くのではおもしろくない。「ふつうのことばではない」のが「詩」である。
 「旧かな」は、そういう「ふつうではない」という感じを静かに目覚めさせる効果があるかもしれない。

 しかし、久谷が、そういうことを意識して「旧かな」をつかっているかどうかわからない。ちょっと「異質」という感じを私は受けるけれど、「異質」を明確にするためにつかっているのではないかもしれない。
 また、私は「ふつうではないことば」という具合に書いたけれど、久谷のことばが「旧かな」ではなく、いま私たちがふつうにつかっている「かなづかい」で書かれていたとしても、やはり同じように読んでしまうだろう。
 私がほんとうに刺戟を受けているのは、かなづかいとは違うところに動いてるものである。
 私がいちばんおもしろいと思ったのは、「天の近所」。ここにも「鏡」が登場する。

いくつかの鏡が
近所と近所をつないでゐる

 どの家にも「鏡」がある。その「鏡」の存在によって、近所(家?)はつながっている。「鏡」がどんな役割をしているかわからないが、ひとは鏡の前でたぶん似たような動きをする。顔を見る。顔を確かめる。姿を確かめる。「家」と「家」をつなぐというよりも、人間と人間をつなぐ。自分をみつめ、ととのえる、という人間の行動が、人間にひとつの「形」をあたえる。その、ことばにはしない「形」が、どこかで「近所」全体をつないでいる。「ばらばら」なはずのもの、個別の名前で呼ばれるものを「人間の形」でつなぐ。その役割を「鏡」がしているということだろう。
 こういう別個の名前で呼ばれるはずのものが、何かを媒介につながっている、ということはほかにはないだろうか。

荷台の
木箱からこぼれる
鶏のはらわたの匂ひ、
光よりもはげしく
わたくしの眼玉にやすりをかけやうとする--

 ここに、私は、「鏡」に通じるものを感じる。
 「匂ひ」(嗅覚)と「光(視覚)」は別なものである。「匂ひ」が「眼玉」に働きかけることはない。「眼玉」が「匂ひ」を感じるわけではない。けれど強い「匂ひ」が「肉体」の内部を刺戟し、攪乱し、嗅覚以外のものにも影響をあたえるということはあるだろう。「嗅覚」「視覚」と、ことばでは別々のもので呼んでいるものも、「ひとつ」の「肉体」のなかに存在するものだからである。どこかで、何かが、つながっている。
 その「匂ひ」の刺戟は、「視覚(眼玉)」に及ぶのだが、そのときそこで動いているのは「やすりをかける」感じ、「触覚」である。
 嗅覚、視覚、触覚が、「肉体」の奥でつながり、本来の「感覚」の場所とは違うところで動く。それまでのことばではとらえられないものとして動く。
 私がおもしろいと思うのは、そういう部分なのだが……。そして、これは「旧かな」ではなく、私たちが日常的につかっているかなづかいであっても、同じように感じるものだと思うのだが……。

 思いながらも、「旧かな」へと引き返してみる。

鶏のはらわたの匂ひ

 「匂ひ」の「ひ」は「火」でもある。何かが燃えている。「火」はあたたかい。「はらわた=内臓」の「あたたかさ」が「匂ひ」の「ひ=火」のなかにある。
 その「火」はしずかに燃えるだけではない。ときに、はげしく燃える。はげしく燃える火ほど、その輝きは強い。「火」は「光」でもある。「火」は「光」を発し、目をいぬく。「ひかり」のなかには「ひ」が存在する。
 こういうことばのつながりは、現代かなづかいでは見えにくい。いや、見えてこない。現代かなづかいがふるい落としてきた何か、「未分節」状態の何かを照らし出すために、久谷は「旧かな」をつかっているのかもしれない。



昼も夜も (midnight press Original Poems)
久谷 雉
ミッドナイトプレス
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