高柳誠『高柳誠詩集成 Ⅰ』(2)(書肆山田、2016年01月10日発行)
きょうは『卵宇宙』の感想。きょうも「巻頭」の作品に触れる。感想は「第一印象」からはじまり、それを修正していくものだと私は考えている。どこへたどりつくかわからない。私はいつも「結論」というものを想定しないで書きはじめる。書けるところまで書いて、そこでおしまい。
何が書いてある? 「論理」だけが動いている。「卵宇宙」については何も書かれていない。「説明(する)」「形容(する)」「語る」「表現(する)」ということばが出てくる。この「動詞」(名詞も、動詞派生の名詞と考えることができるので、動詞として扱う)の「主語(主役)」は「ことば」である。「ことばで説明する」「ことばで形容する」「ことばで語る」「ことばで表現する」と書くと「ことば」は「手段」だが、これはすべて「ことばが説明する」「ことばが形容する」「ことばが語る」「ことばが表現する」と言い換えることができる。ここでは「主語」はかわらず、「動詞」だけが変化していく。
この「主語としてのことば」と「動詞」の関係を、逆に考えてみる。「動詞」を「名詞」に言い換えてみる。「説明」「形容」「語り」「表現」。そのとき、「動詞」はどうなるだろう。
「説明」は、「説明が可能であろうか」という形でつかわれている。「説明は可能である/可能ではない(不可能である)」という二つの「動詞(厳密には、動詞とは言わないだろうが)」で動かすことができる。これは「形容」「語り」「表現」のすべてにあてはまる。「形容は可能である/可能ではない」「語りは可能である/可能ではない」「表現は可能である/可能ではない」。
この「可能である/可能ではない」という「動詞」は、相反する動きである。詩のなかにつかわれていることばで言えば「矛盾」する動詞である。
高柳は、この「矛盾」というあり方を、意識的につくりだしている。そして、その矛盾するものは「対等」である。対等の存在にしている。どちらかを優先(特定)しない。特定/断定しないことで、断定するという行為を無意味にしている。この無意味さの中に「詩」があるのだが、きょうはそこまでは書かない。もう少し、「矛盾」について書く。
ふつう、ひとは「矛盾」すのものに出合ったとき、どちらか一方を選び取る。二者択一を迫られたら、どちらかを選び取る。しかし、高柳は一方を選び取らない。共存させる。何によって共存させるかというと、「ことば」によってである。「ことば」はあらゆることについて「可能である」ということができると同時に、「可能ではない」と言うことができる。人間に(肉体)には実際には不可能なことでも、ことばでなら「可能である」と書くことができる。ひと(ひとの肉体)は道具(機械)をつかわずに空を飛ぶことはできない。これは「事実」である。しかし、ことばでなら、「ひとの肉体は空を飛ぶことができる」と書いてしまえる。「ひとの肉体は空を飛ぶことができる」は「嘘/虚偽」だが、「ことば」は虚偽を書くことができる。虚偽を存在させることができる。ことばは、書かれた瞬間、そこに「存在」してしまう。
それは「卵宇宙」に似ている。
「卵宇宙」は「ことば」を言い換えたものである。
と、書き直してみる(読み直してみる)と、「対象としてのことば」と「手段としてのことば」がごちゃ混ぜになり、融合して、区別するのがわずらわしくなる。
二段落目。
これは、同じように、
と書き直すこと(読み直すこと)ができる。そして、この段落の最後の一文に「できる/可能である」という「動詞」を補うと、高柳の世界がわかる。
その前のことば(文)とつづけると、「その本質には触れえないことを証明するためにのみ、わたしたちはことばを使うことができる」だが、これは「その本質には触れえることを証明するためにのみ、わたしたちはことばを使うことができる」でもあるし、また「その本質には触れえない(触れえること)ことの証明を否定するためにのみ、わたしたちはことばを使うことができる」でもありうる。
どんな形(内容)でも、ことばは「論理」になりうる。「論理」にしうる。「論理」を偽装することができる。「論理」というのは「現実/科学の世界」では「実践/実証」によって裏付けられてこそ「論理」になるのだが、「文学(詩)」は科学ではないから「実践/実証」は必要がない。「文学」では、「実践/実証」は「肉体」がすることではなく、「想像力」がすることだからである。そして、「想像」というのは夢と同じように「ことば」によって存在し、動くものだから、ことばは書いた瞬間から、存在が「証明されてしまう」。そのとき「証明されていない」という「論理」さえ、同時に存在し、証明することができる。
だから、と言っていいのかどうかわからないが、三段落目、
と、「逆に言えば」という、それまでとは別の「論理」(矛盾した論理)を促すことばで、世界をもう一度はじめなおすことができる途中に出てくる「拡大」は「縮小」と言い直すことで、もう一度「逆に言えば」を繰り返すこともできる。末尾は二段落の末尾と同じく「わたしたちは言語を使用することができる」である。ことばには、どんな「論理」も展開することが「できる」。
このことばの運動は「止めることができない」。『アリスランド』に「水は自らの循環を止めることはできない」ということばがあったが、「論理」は「循環」を止めることができない。「可能である」といったあと、即座に「可能ではない」ということも「論理」として提出できる。想像力にとって、「可能である/可能ではない」という「判断基準」は存在しない。(存在しないが、存在するとも書くことはできる。)
ああ、めんどうくさい。どっちなんだ!
そう叫びたいひとのために、次の段落がある。「4」の第一段落。
「循環」は「交換」と言い直されている。
で、ここで、もうひとつおもしろいのは、その直前にある「空間論的に」の「論」である。「論」は「論理」の「論」。「論理」はいつでも循環し、ことばはいつでも「交換」可能である。高柳は、この「循環/交換」を暴走させることで、詩を生み出している。そしてさらにつけくわえるなら、この「循環/交換」を可能にするのは、「二つの表現」の「二つ」であり、その「二つ」が「矛盾するがゆえに二つ」でありながら、「同じこと」と呼ばれている点に目を止めなければならない。なぜ「矛盾するがゆえに二つ」なのに「同じこと」、「矛盾」なのに「同じこと」なのか。そこに存在しているのは、「同じことば/ことばという同じもの」だからである。
高柳は対象(卵宇宙)について書いているのではなく、ことばを書くという行為について書いている。書くことを「詩」にしている。
*
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きょうは『卵宇宙』の感想。きょうも「巻頭」の作品に触れる。感想は「第一印象」からはじまり、それを修正していくものだと私は考えている。どこへたどりつくかわからない。私はいつも「結論」というものを想定しないで書きはじめる。書けるところまで書いて、そこでおしまい。
卵宇宙については、どういう説明が可能であろうか。卵宇宙を形
容することばを、わたしたちは本質的に持ちえない。ことばが無効
となる時間・空間に卵宇宙が存在するからだ。従って、卵宇宙につ
いて語るものは、ことばでは触れえぬものをことばによって表現す
ることの矛盾、もどかしさに耐え抜かなくてはならない。
何が書いてある? 「論理」だけが動いている。「卵宇宙」については何も書かれていない。「説明(する)」「形容(する)」「語る」「表現(する)」ということばが出てくる。この「動詞」(名詞も、動詞派生の名詞と考えることができるので、動詞として扱う)の「主語(主役)」は「ことば」である。「ことばで説明する」「ことばで形容する」「ことばで語る」「ことばで表現する」と書くと「ことば」は「手段」だが、これはすべて「ことばが説明する」「ことばが形容する」「ことばが語る」「ことばが表現する」と言い換えることができる。ここでは「主語」はかわらず、「動詞」だけが変化していく。
この「主語としてのことば」と「動詞」の関係を、逆に考えてみる。「動詞」を「名詞」に言い換えてみる。「説明」「形容」「語り」「表現」。そのとき、「動詞」はどうなるだろう。
「説明」は、「説明が可能であろうか」という形でつかわれている。「説明は可能である/可能ではない(不可能である)」という二つの「動詞(厳密には、動詞とは言わないだろうが)」で動かすことができる。これは「形容」「語り」「表現」のすべてにあてはまる。「形容は可能である/可能ではない」「語りは可能である/可能ではない」「表現は可能である/可能ではない」。
この「可能である/可能ではない」という「動詞」は、相反する動きである。詩のなかにつかわれていることばで言えば「矛盾」する動詞である。
高柳は、この「矛盾」というあり方を、意識的につくりだしている。そして、その矛盾するものは「対等」である。対等の存在にしている。どちらかを優先(特定)しない。特定/断定しないことで、断定するという行為を無意味にしている。この無意味さの中に「詩」があるのだが、きょうはそこまでは書かない。もう少し、「矛盾」について書く。
ふつう、ひとは「矛盾」すのものに出合ったとき、どちらか一方を選び取る。二者択一を迫られたら、どちらかを選び取る。しかし、高柳は一方を選び取らない。共存させる。何によって共存させるかというと、「ことば」によってである。「ことば」はあらゆることについて「可能である」ということができると同時に、「可能ではない」と言うことができる。人間に(肉体)には実際には不可能なことでも、ことばでなら「可能である」と書くことができる。ひと(ひとの肉体)は道具(機械)をつかわずに空を飛ぶことはできない。これは「事実」である。しかし、ことばでなら、「ひとの肉体は空を飛ぶことができる」と書いてしまえる。「ひとの肉体は空を飛ぶことができる」は「嘘/虚偽」だが、「ことば」は虚偽を書くことができる。虚偽を存在させることができる。ことばは、書かれた瞬間、そこに「存在」してしまう。
それは「卵宇宙」に似ている。
「卵宇宙」は「ことば」を言い換えたものである。
ことばについては、どういう説明が可能であろうか。ことばを形
容することばを、わたしたちは本質的に持ちえない。ことばが無効
となる時間・空間にことばが存在するからだ。従って、ことばにつ
いて語るものは、ことばでは触れえぬものをことばによって表現す
ることの矛盾、もどかしさに耐え抜かなくてはならない。
と、書き直してみる(読み直してみる)と、「対象としてのことば」と「手段としてのことば」がごちゃ混ぜになり、融合して、区別するのがわずらわしくなる。
二段落目。
わたしたちが一生をかけて何万語を費したとしても、卵宇宙につ
いては究極的にひとことも言ったことにはならない。最も有効なこ
とばでさえも、その本質には触れえないことを証明するためにのみ、
わたしたちはことばを使う。
これは、同じように、
わたしたちが一生をかけて何万語を費したとしても、ことばにつ
いては究極的にひとことも言ったことにはならない。最も有効なこ
とばでさえも、その本質には触れえないことを証明するためにのみ、
わたしたちはことばを使う。
と書き直すこと(読み直すこと)ができる。そして、この段落の最後の一文に「できる/可能である」という「動詞」を補うと、高柳の世界がわかる。
わたしたちはことばを使うことができる。
その前のことば(文)とつづけると、「その本質には触れえないことを証明するためにのみ、わたしたちはことばを使うことができる」だが、これは「その本質には触れえることを証明するためにのみ、わたしたちはことばを使うことができる」でもあるし、また「その本質には触れえない(触れえること)ことの証明を否定するためにのみ、わたしたちはことばを使うことができる」でもありうる。
どんな形(内容)でも、ことばは「論理」になりうる。「論理」にしうる。「論理」を偽装することができる。「論理」というのは「現実/科学の世界」では「実践/実証」によって裏付けられてこそ「論理」になるのだが、「文学(詩)」は科学ではないから「実践/実証」は必要がない。「文学」では、「実践/実証」は「肉体」がすることではなく、「想像力」がすることだからである。そして、「想像」というのは夢と同じように「ことば」によって存在し、動くものだから、ことばは書いた瞬間から、存在が「証明されてしまう」。そのとき「証明されていない」という「論理」さえ、同時に存在し、証明することができる。
だから、と言っていいのかどうかわからないが、三段落目、
逆に言えば、ことばで形容できる時間・空間を極限まで拡大して
ゆき、なお残る時空こそが卵宇宙なのだ。かくして、言語を越えた
地平に卵宇宙が出現することを証明するために、わたしたちは言語
を使用する。
と、「逆に言えば」という、それまでとは別の「論理」(矛盾した論理)を促すことばで、世界をもう一度はじめなおすことができる途中に出てくる「拡大」は「縮小」と言い直すことで、もう一度「逆に言えば」を繰り返すこともできる。末尾は二段落の末尾と同じく「わたしたちは言語を使用することができる」である。ことばには、どんな「論理」も展開することが「できる」。
このことばの運動は「止めることができない」。『アリスランド』に「水は自らの循環を止めることはできない」ということばがあったが、「論理」は「循環」を止めることができない。「可能である」といったあと、即座に「可能ではない」ということも「論理」として提出できる。想像力にとって、「可能である/可能ではない」という「判断基準」は存在しない。(存在しないが、存在するとも書くことはできる。)
ああ、めんどうくさい。どっちなんだ!
そう叫びたいひとのために、次の段落がある。「4」の第一段落。
卵宇宙は、卵の中に存在する宇宙だと言っても、宇宙に発生しう
る卵だと言うにしても、メビウスの輪に表と裏がないように(表が
いつのまにか裏になり、裏が知らぬまに表になってしまうように)、
空間論的には結局同じことの二つの表現にすぎない。つまり卵宇宙
は、内部と外部が交換可能な世界なのだ。
「循環」は「交換」と言い直されている。
で、ここで、もうひとつおもしろいのは、その直前にある「空間論的に」の「論」である。「論」は「論理」の「論」。「論理」はいつでも循環し、ことばはいつでも「交換」可能である。高柳は、この「循環/交換」を暴走させることで、詩を生み出している。そしてさらにつけくわえるなら、この「循環/交換」を可能にするのは、「二つの表現」の「二つ」であり、その「二つ」が「矛盾するがゆえに二つ」でありながら、「同じこと」と呼ばれている点に目を止めなければならない。なぜ「矛盾するがゆえに二つ」なのに「同じこと」、「矛盾」なのに「同じこと」なのか。そこに存在しているのは、「同じことば/ことばという同じもの」だからである。
高柳は対象(卵宇宙)について書いているのではなく、ことばを書くという行為について書いている。書くことを「詩」にしている。
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
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