詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

後藤大祐『誰もいない闘技場にベルが鳴る』

2016-01-18 08:43:31 | 詩集
後藤大祐『誰もいない闘技場にベルが鳴る』(土曜美術出版販売、2015年11月30日発行)

 後藤大祐『誰もいない闘技場にベルが鳴る』の「死体をタクシーに乗せて」の書き出しがおもしろい。

死体をタクシーに乗せて
祭りのようにすすむ
はずむ街を
ネオン輝く黒いセダンが走る

 「死体」をタクシーに乗せることができるか。できない。タクシーは「死体」を乗せてくれるか。乗せてくれない。だから、ここに書かれていることは嘘である。
 いや、「死体」は実際の「死体」ではなく、「比喩」だ。「象徴」だ、という見方があるかもしれない。でも、そういうかぎりは何の「比喩」、何の「象徴」か、補足が必要だ。これだけではわからない。
 だから、私は「死体」は嘘であると断定する。何の「比喩」でも「象徴」でもない。単なる嘘。
 そして、嘘ということは、そこに書かれている「死体」が「死体」以外の何物でもないということを意味する。つまり、「死体」はほんとうの「死体」。それ以外のことは語らない。偽物の「死体」なら嘘にならない。ほんものだから「嘘」になる。
 矛盾している?
 まあ、見方によっては「矛盾」。でも、「矛盾」していない。後藤は「ほんとうの死体」を「タクシーに乗せて」と書くことで、それを「嘘」にしている。
 ここで、「死体」がほんものならば、「タクシー」が嘘。「タクシー」は「霊柩車」の「比喩」(言い換え)である、などと論理的になってはいけない。
 「嘘」は「嘘」。「嘘」とわかって、そのうえで「嘘」を楽しむ。
 漫才、落語と思ってみるのもいいかもしれない。漫才、落語は「嘘」ではないという意見もあるだろうけれど、そういうことは気にしない。
 「嘘」である漫才、落語が楽しいのはなぜか。そこに「語りのリズム」があるからだ。漫才、落語に「ほんとう」があるとしたら、「語りのリズム」「声の調子」という「ほんとう」がある。「内容(ストーリー)」だけが問題なら、漫才、落語は「台本」だけで十分。そうではなく、ひとが漫才、落語を聞くのは、しかも同じ話を何度も聞くのは、そこにある「ほんもの」が「内容」ではなく「口語(語りのリズム)」「声の調子」だからである。
 で、この「書き出し」にあるのも「語りのリズム」という「ほんもの」がある。

 では。
 その「語りのリズム」って、何?

 これは、説明がむずかしいねえ。詩の場合、漫才や落語のように、必ずしも「実演」をともなわない。漫才や落語では、「語りのリズム」をとおして、それを演じているひとの「人間性」という「ほんもの」を実感できる。詩は、朗読されるとはかぎらない。だいたい、私は「朗読」を聞いて「語りのリズム」と言っているわけではない。活字を「読んで」、「語りのリズム」と言ってしまった。
 どこに「語りのリズム」を感じたか。「ほんもの」を感じたか。
 まず一行目の「乗せて」である。「死体」は嘘。「タクシー」は「霊柩車」の言い換えだとしたら「死体」はほんもので、「タクシー」は「比喩」。でも、そんなことでは、ぜんぜんおもしろくない。「死体」と「タクシー」の組み合わせがおもしろい。その組み合わせを可能にしている「動詞」、「乗せる」こそが「ほんもの」なのだ。「乗せる」という「動詞」が実際に「ある」ことを知っている。「乗せる」ときの「肉体」の動きがどういうものか、私はわかっている。「わかっている」ことを、私は「ほんもの」と呼ぶ。
 何かを何かに「乗せる」、何かを車というものに「乗せる」。ふつうは「載せる」と書くのかもしれないが、いっしょに語り手が「乗っている」ので「乗せる」という「動詞」になるのだろう。
 この「乗せる/乗る」という「動詞」が、次の行の「すすむ」、さらに「はずむ」「通る」という「動詞」と響き合って、加速する。疾走する。ここに「リズム」が生まれてくる。

祭りのようにすすむ
はずむ街を

 という二行は、具体的にというか、学校文法に即して読むと、ちょっと混乱するね。「すすむ」の主語は何か。「タクシー」かもしれないが、「祭り」そのものかもしれない。「祭り」には「行列」(山車や踊りの行列)がつきもの。それが「すすむ」のかもしれない。そういう様子を「祭り」が「はずむ」とも言える。「街」そのものは「はずむ」ということはない。「雰囲気」が「はずむ」のである。こういうことも「頭」ではなく「肉体」で私は「わかっている」。「肉体」が、そういうことを「おぼえている」。「ほんもの」がそこに動いている。
 この二行は、「街」の描写と言える。
 「街」の描写なのだけれど、それは「死体を乗せたタクシー」と切り離せない。タクシーはその「描写」の中心にある。「死体を乗せたタクシー」が「街」と「祭り」を盛り上げている。はずませている。「タクシー」が走るとき、動いているのは「タクシー」ではなく「街」と「祭り」のように見える。行列のため「タクシー」は走ることができず、そのそばを「祭り」が動いていくということもあるかもしれない。
 それぞれを区別することができない。全部が渾然一体となっている。「肉体」が「手」とか「足」とか便宜上区別できるが、切り離すと「肉体」は生きていけない。「一体」のとき生きている。その「一体」のリズム。
 この渾然一体となった「はずむ」感じ、にぎやかな感じが、四行目の「ネオン輝く」ということばを呼び覚ます。「黒いセダン」は「タクシー」を言い直したものだが、この言い直しが「タクシー」をその修飾語どおり「輝く」ものにする。
 「乗せる/乗る」「すすむ」「はずむ」「通る」が「輝く」という「動詞」のなかで「一体」になる。この「一体」になるときのスピードが心地よく、それがおもしろいのだと思う。
 二連目も快調だ。

キミがいい気分だから
ボクもまじ最高
肩に手をまわせば、ほら
口蓋骨から、ピューと笛がこぼれる

 今度は「動詞」ではなく、「名詞」に目を向けてみよう。
 「いい気分」「まじ最高」「笛」。そこには、「ピュー」という「音」があり、「ほら」という掛け声のようなものもある。「輝く」に昇華した「動詞」が「輝き」になって、それが二連目の「名詞」を呼んでいるといえるかもしれない。
 「いい気分」「まじ最高」は「肩に手をまわす」という「動き(動詞)」になって、「肩」「手」という「肉体」そのものを動かす。「肉体」が動くことで、「語りのリズム」が「肉体全体」に広がっていく。
 それが「死体」を刺戟し、「死体の肉体(?)」の「骨」を動かす。「口蓋骨」を、じつに自然な感じに動かす。「口蓋骨」にまでなってしまった「死体」はきっと「骸骨」、つまり「肉」がない。「舌」がない。だから「話す」ことはできない。で、「口笛」になる。「ピューと笛がこぼれる」。あ、「骸骨(死体)」まで「いい気分」。
 あ、「キミ」は「骸骨(死体)」だったのか。

死ぬほど楽しい、キミもそう?
何があっても、ふたりなら平気
キミのむきだしの鎖骨をつつく、木製バットの感触
キミはほんとうにかわいい、ほんとだよ
ほんとだって 笑

 「死体(骸骨)」だから死んでいる。それでも「死ぬほど楽しい」という慣用句が動く。「死体」に、そんなことを聞いてどうなる。笑うしかない。でも、自分が楽しいとき、そばにいるひとにも同じ気持ちかどうかききたくなる。この呼吸(間合い)のリズムがいい。「ほんとう」のリズム。
 「骸骨」だから「むきだしの鎖骨」は、あたりまえ。こんなとこに、変に「ほんとう」を出して、「木製のバットの感触」と「嘘」の積み重ね。「嘘」の骨は「ほんとう」をまじえること、という鉄則が絶妙な感じで組み込まれている。
 そのあとに、「ほんとう」の戯れ言(だれもが言ったり聞いたりする会話)が「笑」といっしょに書かれているのもいいなあ。「嘘」のなかに「ほんとう」の「地」を出している。

 さあて、さて。
 この「語りのリズム」、詩の全体ではどうなるのかな? 詩集全体ではどうなるのかな? それは詩集で確かめてください。

誰もいない闘技場にベルが鳴る
後藤大祐
土曜美術社出版販売
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