詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

カアン・ミュジデジ監督「シーヴァス」(★★★★★)

2016-01-17 22:29:07 | 映画
監督 カアン・ミュジデジ 出演 ドアン・イスジ、犬

 「シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語」という長い日本語のタイトルがついている。原題は「シーヴァス」。犬の名前である。
 手持ちのカメラの映像が激しく揺れる。揺れながら少年の目だけはしっかりととらえる。これは実際にそういう映像なのか、私がどうしても少年の目を見るから、目がしっかりとらえられていると思ってしまうのか、はっきりとはわからない。その揺れで、少年の見ている世界の「不安定さ」を語っているのかもしれないが、目の悪い私にはかなり苦痛。少年の肉体そのものが激しく動いているときの映像(たとえば「仁義なき戦い」のように走っているときの映像)なら、それでもいいかもしれないが学校からの帰り道、ただ歩いているだけのシーンでも画像が揺れるのはつらい。
 そのつらさを我慢すると。
 少年と、少年の暮らしているトルコの寒村(?)の拮抗具合が、まず、とても印象に残る。牛の世話をし、老いた馬の面倒もみている。その大きな動物たちと少年の肉体が拮抗している。少年が「弱く」ない。対等である。いっしょに生きている。馬の、じっと何かをみつめるときの目の純粋さ(純粋な不安)は、そのまま少年の目である。
 少年は犬と出合う前に老いた馬を原野へ捨てにゆく。その少年の前に広がる原野と少年も拮抗している。荒寥とした原野を前にしても、少年が幼い、弱い、という感じがまったくしない。荒寥をそのまま受け入れている。少年は、荒寥に対して何の不安も感じていない。
 これは、少年が犬と出合ったときに、もう一度繰り返される。
 少年は傷ついたシーヴァスのそばにいる。周りがどんどん暗くなる。寒くなる。けれども少年は平気である。ただ傷ついた犬のことを気づかっている。その少年を年の離れた兄が探しに来るのだが、このときも兄が迎えにきてくれたという「安心」、こどもらしい表情とは無縁。平然と「自己主張」する。何と言えばいいのか……対等なのである。あらゆる存在に対して、対等に生きている。
 この不思議な「対等」感覚のまま、少年は大人たちの「闘犬」の世界へ、シーヴァスとともに巻き込まれていく。「大人」としてあつかわれるというのとは違うのだが、うーん、これがトルコの「男の子(少年)」に対する向き合い方なのかなあ。こどものときから、こういう感覚をトルコの少年は身につけさせられるのだろうか。
 この「対等」が崩れるシーンが二回ある。これが、なかなかおもしろい。
 一回目は、母親が少年を風呂に入れるシーン。少年は「入ってくるな」と拒絶するが、押し切られてしまう。少年は「男」のつもりだから、母親に体をあらわれるなんて、いやだ、と主張する。しかし、押し切られる。母親にとって、こどもはこども。「対等」という感覚がないのだろう。
 もう一回も「女」がからんでいる。闘犬で儲けた大人たち(男)は帰り道に女を買う。少年はシーヴァスとふたり(?)で男たちが娼館から出てくるのを待っている。あたりまえといえばあたりまえなのだろうが、ここでも少年は「対等」からはじき出されている。
 このあと、少年は、「もう、シーヴァスを闘わせたくない」と主張する。ここには、シーヴァスと闘ってけがした犬への思い、さらに勝ったけれどやはりけがをしているシーヴァスへの思い(やさしさ)があると見るべきなのかもしれないが、私には、女を買うという行為から自分がはじき出されたこと、結局「対等」ではないと知ったことが影響しているように思えてならない。
 飼い主である少年を尊重して、闘犬の試合のときは少年を連れて行く。少年に、シーヴァスが勝つように声をかけろと言うことで、少年を「共犯者(対等の人間)」として扱っているようだが、そうではなく、犬が少年のために闘っているということを利用しているだけである。少年がいないとシーヴァスは真剣にならない。少年の声に真剣にこたえる犬なのである。少年は利用されていることに気づいたとも言える。
 「対等」なんて、ないのだ。
 少年自身はシーヴァスと「対等」というか、「親友」感覚でいる。大事な宝物である。そのシーヴァスは少年がなれなかった「王子(白雪姫の王子)」のかわりに闘犬の王者になる。シーヴァスが「王者」になることで、少年も「王子」になる、という「夢」をみている。シーヴァスが少年の「代弁者」であると感じている。
 でも、大人は「犬」を「対等」とはみない。犬は闘犬の試合に出て、人間のために金を稼ぐものである。「奴隷」である。(「奴隷」ということばは、少年が学校でブロックを積む作業をしているときに、出てくる。一方で「白雪姫」のけいこをしているこどもがいる。一方でブロック積みをしている「奴隷」のような少年たちがいる、と少年は感じている。だれだって「奴隷」よりも「王子」がいい。)
 「対等」にまつりあげられ、「対等」から突き落とされる。このとき、少年は「おとな」になる。いっしょに車で帰るシーヴァスは首から血を流している。傷ついている。それは、少年のこころのようにも思える。また、少年のさびしさ、絶望を知ったシーヴァスの「共感」の涙のようにも見える。
 映画はシーヴァスの、血を流しぼんやりと中空をみつめるさびしい目を映しておわるが、それは少年がはじめてみせているであろうさびしい目に違いないと感じさせる。
 と、書いてしまうと、なんだがストーリーに流されている感じがしないでもない。この映画の魅力は、実は、そのストーリーと拮抗する「映像」の厳しい美しさである。手持ちカメラの「揺れ」について「苦情」を書いたが、揺れながらも寒村の空気をしっかりとつたえている。自然だけではなく、暮らしのシーンも虚飾がない。事実を、フレームでとらえるというよりも、フレームを壊して一歩カメラが対象に近づく、カメラのレンズが裸になって「肉眼」で世界をとらえるという緊迫感がある。カメラが「肉眼」になる。すべてが生々しい。ドキュメンタリーを突き抜けて、自分がその世界にいるような感じになる。最後には、犬の気持ちにさえなってしまう。
 愛犬家としては、犬が苦しむシーンは見たくないのだが、この映画の映像はすばらしく力がある。必見の一本。
                     (KBCシネマ2、2016年01月17日)






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陶山エリ「小春日和に」、山田由紀乃「並んでいる」

2016-01-17 14:11:46 | 現代詩講座
陶山エリ「小春日和に」、山田由紀乃「並んでいる」(現代詩講座@リードカフェ、2016年01月13日)

小春日和に   陶山エリ

でぃあぼろかしすの赤いが浅い鎖骨に溜まるそれは夢にあたしまみれてしまいそうなのだから二度と戻ることはできないなのだろうから

小春日和に土の匂いを
ブルーシートが隠す
恥ずかしいくらい大きな翼で隠す
青空より真面目に青さが染み込んだ輝く青の内側
掘り起こしたり埋め直したり
動きが男の影だとわかってしまうそれはあたし精液にまみれてしまいそうなのだから
おさえつけても噴き出してくる情けないぬるさをいちどもおいしいわけないあんなもん

小春日和の影なのだから長い男の黒い足が赤い鎖骨を
そこにそれ
これあっち
いじったことくらいわかるブルーシートの中の小春日和に招かれ青いに曝され声を脱がされ

小春日和があたし拾った小春日和があたし鳴いてる小春日和があたし見飽きる

忘れそうなのだから招いて指をおく
ほんとうは数えるのもめんどう
ほんとめんどうなんだってめんどうなんだってめんどうなんだって
指から指へ伝えている
ほんと鳥が近いところで飛ぶ
小春日和にゆびはだれに連れて帰ってもらうことでしょう

ディアボロカシスの赤いがあたしをすすぐ土の匂いがあたしを血の匂いを忘れたい
うごかないひと血が赤いに戻ろうとして戻れない


<受講者1>鍋山さんの色とは違った色だが、色が美しい。
      「青空より真面目に青さが染み込んだ輝く青の内側」という表現がいい。
      死体を隠しているんじゃないかと思う怖さ、グロさもある。
      対比がきいていてゾクゾク感をあたえる。
<受講者2>なまぐさいところもある。ブルーシートから廃棄物を連想した。
<受講者3>小春日和は秋。でもシートのなかにはうごめきがある。
      土の中の生きもの、土の生命を感じる。有機物の感じ。
<受講者4>性的な匂いがする。映画のような感じも。
      性的な欲望が半分あからさまになり、半分隠されている。
      欲望をごまかしている自分が出ている。
      これを小春日和とくっつけるところがおもしろい。
<受講者5>「おさえつけても噴き出してくる情けないぬるさ」に性的欲望を感じる。
<受講者1>ことばがことばをつないでゆく。それにあわせてイメージもつながる。
      「ほんとめんどうなんだってめんどうなんだってめんどうなんだって」は
      「めんどう」を読者に感じさせる。
<受講者2>気候は秋なのだけれど、啓蟄とつながっている。
      最終行の「うごかないひと」は死体かなあ。「赤いに戻る」が生々しい。

 鍋山の詩の色について、「色は動詞」という見方があったが、「青空より真面目に青さが染み込んだ輝く青の内側」は、その「実践」といえる。色が色のなかで変化しながら、ものと結びつくことで明確になっていく動きが感じられておもしろい。
 その色の動きに「掘り起こしたり埋め直したり」という矛盾した(相反する)動詞の繰り返しが重なる。繰り返される動きが「性」を連想させる。相反する動きなのに、それが繰り返されることで「ひとつ」の動きになる。それが性を感じさせる。
 繰り返しと変化、「掘り起こす」と「埋め戻す」の繰り返しの中にある絶対的な違いと、絶対的に違うのに組み合わさり、繰り返すと、その繰り返しそのものが「ひとつ」になるということが、「おさえつけても噴き出してくる情けないぬるさ」に反映していると思う。「噴き出してくる」という激しさと、その激しさに相反する「ぬるさ」というものが強烈に結びつき、離れない。その強烈な結合に対して、「いちどもおいしいわけないあんなもん」という否定のことばが炸裂するように出てくる。このリズムがおもしろい。
 五連目の「指をおく」が「小春日和にゆびはだれに連れて帰ってもらうことでしょう」と変化していくところも、いろいろなことを考えてしまう。「数える」は「指で数える」(指を折って数える)」という「具体」だけが持つ「めんどう」をあからさまにしている。抽象的なことは、意外とめんどうではない。簡略化が抽象だからである。そのめんどうな「具体」を「指から指へつたえている」、その「動いた指」の記憶、肉体の動かし方を、どこかに「置く」。「そこにそれ/これあっち」ということばと一緒に動いたかもしれない指。それを誰が思い出すだろうか。「あたし(陶山)」だろうか、もうひとりの指の相手だろうか。
 性的な匂いがするという感想が出たが、私は、この五連目の「指」へのこだわりと、三連目の「声を脱がされ」に、性を強く感じた。声を脱がされ、いままで見えなかった(聞こえなかった)声を聞かれてしまう。
 「声」は「鳴いている」、「鳴いている」は「鳥」へと変化して行く。それは「あたし」から「飛ぶ」(あたしから出て行く、エクスタシー)の瞬間かもしれない。それが「近いところ」にある。「指」は置いておかれたまま、その「近い」という距離を強調することになるかもしれない。
 エクスタシー(自分から出て行く)から、たとえば「でぃあぼろかしす」とひらがなで書かれていた「音(声)」は「ディアボロカシス」というカタカナの「音(声)」へと変化している、とも読むことができる。
 その「声」を「音」と言い換えてみると。(というのは、強引な言い方だが)
 書き出しの「でぃあぼろかしすの赤いが浅い鎖骨に溜まる」の「赤い」と「浅い」の音の交錯が私にはとても美しく聞こえた。

<陶  山>「が」+「あ」の音は強くて美しい。それを詩に書いてみたかった。
      「あたし」ということばも、それにあせて書いてみた。

 おもしろいことばの交錯がいろいろあって、どの行もさまざまに読むことができる。陶山の「意図」(陶山が書こうとした「意味」)は「意図」として……。
 たとえば、

小春日和があたし拾った小春日和があたし鳴いてる小春日和があたし見飽きる

 これをどう読むか。

<受講者2>読点をつけてみた。
      小春日和が、あたしの拾った小春日和が、あたしに鳴いてる小春日和が、
      あたしを見飽きる
<受講者4>助詞をかえてみた。
      小春日和にあたし拾った、小春日和にあたし鳴いてる、
      小春日和にあたし見飽きる

 陶山のことばの結びつきは、「学校文法」とは違っている。それをどう読むかは読者に任されている。
 <受講者2>の読み方は「小春日和」が「主語」になる。<受講者4>は「あたし」が「主語」。しかし、それだけではないかもしれない。たとえば「小春日和にあたし拾った」というとき「小春日和に」の「に」は何をあらわしているのだろう。「小春日和」という「時間のなかで」か、あるいは「小春日和のひかりのなかで」、つまり「場所」か。
 ことばを追いながら、どんどん「わけがわからなくなる」のが楽しい。
 ことばを動かすとき、ことばの動きと一緒に「詩」が動いている。それは作者が意図した詩ではないないかもしれない。しかし、そんなことは気にしなくていいだろう。



並んでいる   山田由紀乃

並んでいる
黒塗りの仕出し弁当がずらり
新年会と名を借りて
大いに飲みたい男や女が

まあ一献
ビールにお酒に焼酎に
さあ一献
林檎酒だそうです

お隣さんと仲良く酌み合って
なみなみのお猪口を含む
おや果実酒も過ぎれば酸っぱい味になる
ああそれはリンゴドレッシングです

蝋梅の匂いが玄関から届く
宅配と一緒に外の明るみも

錆びた鉄柵にすずめも並んでいる
一羽が二羽に三羽に五羽に
まるまるとふくらんでふくらすずめ

震えている満たされている
張り巡らされた緊張

一羽が離れた
つづいてぱらぱらと
礫の放物線のように

家の中はいつしか潮騒に水鳥が並ぶ
さざめき 饒舌 笑い波
あっ一羽が飛び立つ 空へ


<受講者1>明るい。リズミカル。
      四連目が好き。ただ、全体からは浮いている。
<受講者2>情景が浮かぶ。並んでいるものが、もの(料理/酒)からひとにかわる。
      さらにひとから雀にかわる。その雀のようにひとも旅だってゆく。
      四連目が好き。前半と後半をわける区切りになっている。
<受講者3>前半、音が聞こえにぎやか。後半はさびしい。
      でもさびしいだけでもなく、楽しい感じもする。
<受講者4>四連目が好き。人間の動きではないが、肉体を感じる。
<受講者5>「おや果実酒も」からの二行がユニークで好き。落語のオチみたい。
      宴会が終わり、やがてさびしくなる。
      でも、水鳥は楽しいのか、さびしいのか、読みきれない。
<受講者2>楽しいとは思わない。少しずつ去っていく感じ。
<受講者4>並んでいる「なごやかさ」が、いずれおわる。楽しいだけではない。
<受講者1>楽しさまでもいかないが、さびしいとも感じない。
      「言ってきなさい」「元気でね」と愛しいひとを見送る感じ。

 四連目は、とても印象的だ。「匂い」そのものが「明るい」感じ。嗅覚と視覚が融合して、世界が広がる。「明るみ」は単なる「明るい」ではない。蝋梅の匂いと重なって、清らかなものの象徴のように感じられる。家のなかでは宴会。それは楽しいが、どこか空気の「濁り/澱み」のようなものもある。「匂い」をつかっていえば「こもった匂い」が家の中にある。その「こもった匂い」を洗い流す清らかさ。
 小さな出来事(動き)だが、世界を変える強さがある。

<山 田>前半の家の中と、家の外の雀をつづけたいと思って書いた。

 その、外の描写なのだが、私は、不満を感じる。
 六連目の二行は雀の描写とわかるけれど、あまりにも抽象的すぎる。「意味」が強すぎる。

<山  田>雀って、すごく緊張している。人間の動きに敏感。
      少しのことでぱっと逃げてしまう。
<受講者2>私は「礫の放物線」の「礫の」ということばがいらないと思う。
      「放物線」だけでいいのでは?

 「礫」も「意味」が強すぎるのかもしれない。山田は「意味」を強調したいのだと思うが、読者は「意味」ではないものの方を読みたいのだと思う。
 たとえば、

おや果実酒も過ぎれば酸っぱい味になる
ああそれはリンゴドレッシングです

 山田が朗読したとき、聞いていた受講者が思わず声を上げて笑ったが、こういう「具体的」な行の方が、きっと「意味」がある。「酸っぱい味」には深い物語のはじまりがある。あるいは予感させる。想像させる。それを笑いが吹き飛ばす。その瞬間に、生きていることの不思議な「意味」がある。そういうものを、読者は詩を読みながら探すのだと私は考えている。

*

次回は、2月17日(水曜日)午後6時から。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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