監督 カアン・ミュジデジ 出演 ドアン・イスジ、犬
「シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語」という長い日本語のタイトルがついている。原題は「シーヴァス」。犬の名前である。
手持ちのカメラの映像が激しく揺れる。揺れながら少年の目だけはしっかりととらえる。これは実際にそういう映像なのか、私がどうしても少年の目を見るから、目がしっかりとらえられていると思ってしまうのか、はっきりとはわからない。その揺れで、少年の見ている世界の「不安定さ」を語っているのかもしれないが、目の悪い私にはかなり苦痛。少年の肉体そのものが激しく動いているときの映像(たとえば「仁義なき戦い」のように走っているときの映像)なら、それでもいいかもしれないが学校からの帰り道、ただ歩いているだけのシーンでも画像が揺れるのはつらい。
そのつらさを我慢すると。
少年と、少年の暮らしているトルコの寒村(?)の拮抗具合が、まず、とても印象に残る。牛の世話をし、老いた馬の面倒もみている。その大きな動物たちと少年の肉体が拮抗している。少年が「弱く」ない。対等である。いっしょに生きている。馬の、じっと何かをみつめるときの目の純粋さ(純粋な不安)は、そのまま少年の目である。
少年は犬と出合う前に老いた馬を原野へ捨てにゆく。その少年の前に広がる原野と少年も拮抗している。荒寥とした原野を前にしても、少年が幼い、弱い、という感じがまったくしない。荒寥をそのまま受け入れている。少年は、荒寥に対して何の不安も感じていない。
これは、少年が犬と出合ったときに、もう一度繰り返される。
少年は傷ついたシーヴァスのそばにいる。周りがどんどん暗くなる。寒くなる。けれども少年は平気である。ただ傷ついた犬のことを気づかっている。その少年を年の離れた兄が探しに来るのだが、このときも兄が迎えにきてくれたという「安心」、こどもらしい表情とは無縁。平然と「自己主張」する。何と言えばいいのか……対等なのである。あらゆる存在に対して、対等に生きている。
この不思議な「対等」感覚のまま、少年は大人たちの「闘犬」の世界へ、シーヴァスとともに巻き込まれていく。「大人」としてあつかわれるというのとは違うのだが、うーん、これがトルコの「男の子(少年)」に対する向き合い方なのかなあ。こどものときから、こういう感覚をトルコの少年は身につけさせられるのだろうか。
この「対等」が崩れるシーンが二回ある。これが、なかなかおもしろい。
一回目は、母親が少年を風呂に入れるシーン。少年は「入ってくるな」と拒絶するが、押し切られてしまう。少年は「男」のつもりだから、母親に体をあらわれるなんて、いやだ、と主張する。しかし、押し切られる。母親にとって、こどもはこども。「対等」という感覚がないのだろう。
もう一回も「女」がからんでいる。闘犬で儲けた大人たち(男)は帰り道に女を買う。少年はシーヴァスとふたり(?)で男たちが娼館から出てくるのを待っている。あたりまえといえばあたりまえなのだろうが、ここでも少年は「対等」からはじき出されている。
このあと、少年は、「もう、シーヴァスを闘わせたくない」と主張する。ここには、シーヴァスと闘ってけがした犬への思い、さらに勝ったけれどやはりけがをしているシーヴァスへの思い(やさしさ)があると見るべきなのかもしれないが、私には、女を買うという行為から自分がはじき出されたこと、結局「対等」ではないと知ったことが影響しているように思えてならない。
飼い主である少年を尊重して、闘犬の試合のときは少年を連れて行く。少年に、シーヴァスが勝つように声をかけろと言うことで、少年を「共犯者(対等の人間)」として扱っているようだが、そうではなく、犬が少年のために闘っているということを利用しているだけである。少年がいないとシーヴァスは真剣にならない。少年の声に真剣にこたえる犬なのである。少年は利用されていることに気づいたとも言える。
「対等」なんて、ないのだ。
少年自身はシーヴァスと「対等」というか、「親友」感覚でいる。大事な宝物である。そのシーヴァスは少年がなれなかった「王子(白雪姫の王子)」のかわりに闘犬の王者になる。シーヴァスが「王者」になることで、少年も「王子」になる、という「夢」をみている。シーヴァスが少年の「代弁者」であると感じている。
でも、大人は「犬」を「対等」とはみない。犬は闘犬の試合に出て、人間のために金を稼ぐものである。「奴隷」である。(「奴隷」ということばは、少年が学校でブロックを積む作業をしているときに、出てくる。一方で「白雪姫」のけいこをしているこどもがいる。一方でブロック積みをしている「奴隷」のような少年たちがいる、と少年は感じている。だれだって「奴隷」よりも「王子」がいい。)
「対等」にまつりあげられ、「対等」から突き落とされる。このとき、少年は「おとな」になる。いっしょに車で帰るシーヴァスは首から血を流している。傷ついている。それは、少年のこころのようにも思える。また、少年のさびしさ、絶望を知ったシーヴァスの「共感」の涙のようにも見える。
映画はシーヴァスの、血を流しぼんやりと中空をみつめるさびしい目を映しておわるが、それは少年がはじめてみせているであろうさびしい目に違いないと感じさせる。
と、書いてしまうと、なんだがストーリーに流されている感じがしないでもない。この映画の魅力は、実は、そのストーリーと拮抗する「映像」の厳しい美しさである。手持ちカメラの「揺れ」について「苦情」を書いたが、揺れながらも寒村の空気をしっかりとつたえている。自然だけではなく、暮らしのシーンも虚飾がない。事実を、フレームでとらえるというよりも、フレームを壊して一歩カメラが対象に近づく、カメラのレンズが裸になって「肉眼」で世界をとらえるという緊迫感がある。カメラが「肉眼」になる。すべてが生々しい。ドキュメンタリーを突き抜けて、自分がその世界にいるような感じになる。最後には、犬の気持ちにさえなってしまう。
愛犬家としては、犬が苦しむシーンは見たくないのだが、この映画の映像はすばらしく力がある。必見の一本。
(KBCシネマ2、2016年01月17日)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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「シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語」という長い日本語のタイトルがついている。原題は「シーヴァス」。犬の名前である。
手持ちのカメラの映像が激しく揺れる。揺れながら少年の目だけはしっかりととらえる。これは実際にそういう映像なのか、私がどうしても少年の目を見るから、目がしっかりとらえられていると思ってしまうのか、はっきりとはわからない。その揺れで、少年の見ている世界の「不安定さ」を語っているのかもしれないが、目の悪い私にはかなり苦痛。少年の肉体そのものが激しく動いているときの映像(たとえば「仁義なき戦い」のように走っているときの映像)なら、それでもいいかもしれないが学校からの帰り道、ただ歩いているだけのシーンでも画像が揺れるのはつらい。
そのつらさを我慢すると。
少年と、少年の暮らしているトルコの寒村(?)の拮抗具合が、まず、とても印象に残る。牛の世話をし、老いた馬の面倒もみている。その大きな動物たちと少年の肉体が拮抗している。少年が「弱く」ない。対等である。いっしょに生きている。馬の、じっと何かをみつめるときの目の純粋さ(純粋な不安)は、そのまま少年の目である。
少年は犬と出合う前に老いた馬を原野へ捨てにゆく。その少年の前に広がる原野と少年も拮抗している。荒寥とした原野を前にしても、少年が幼い、弱い、という感じがまったくしない。荒寥をそのまま受け入れている。少年は、荒寥に対して何の不安も感じていない。
これは、少年が犬と出合ったときに、もう一度繰り返される。
少年は傷ついたシーヴァスのそばにいる。周りがどんどん暗くなる。寒くなる。けれども少年は平気である。ただ傷ついた犬のことを気づかっている。その少年を年の離れた兄が探しに来るのだが、このときも兄が迎えにきてくれたという「安心」、こどもらしい表情とは無縁。平然と「自己主張」する。何と言えばいいのか……対等なのである。あらゆる存在に対して、対等に生きている。
この不思議な「対等」感覚のまま、少年は大人たちの「闘犬」の世界へ、シーヴァスとともに巻き込まれていく。「大人」としてあつかわれるというのとは違うのだが、うーん、これがトルコの「男の子(少年)」に対する向き合い方なのかなあ。こどものときから、こういう感覚をトルコの少年は身につけさせられるのだろうか。
この「対等」が崩れるシーンが二回ある。これが、なかなかおもしろい。
一回目は、母親が少年を風呂に入れるシーン。少年は「入ってくるな」と拒絶するが、押し切られてしまう。少年は「男」のつもりだから、母親に体をあらわれるなんて、いやだ、と主張する。しかし、押し切られる。母親にとって、こどもはこども。「対等」という感覚がないのだろう。
もう一回も「女」がからんでいる。闘犬で儲けた大人たち(男)は帰り道に女を買う。少年はシーヴァスとふたり(?)で男たちが娼館から出てくるのを待っている。あたりまえといえばあたりまえなのだろうが、ここでも少年は「対等」からはじき出されている。
このあと、少年は、「もう、シーヴァスを闘わせたくない」と主張する。ここには、シーヴァスと闘ってけがした犬への思い、さらに勝ったけれどやはりけがをしているシーヴァスへの思い(やさしさ)があると見るべきなのかもしれないが、私には、女を買うという行為から自分がはじき出されたこと、結局「対等」ではないと知ったことが影響しているように思えてならない。
飼い主である少年を尊重して、闘犬の試合のときは少年を連れて行く。少年に、シーヴァスが勝つように声をかけろと言うことで、少年を「共犯者(対等の人間)」として扱っているようだが、そうではなく、犬が少年のために闘っているということを利用しているだけである。少年がいないとシーヴァスは真剣にならない。少年の声に真剣にこたえる犬なのである。少年は利用されていることに気づいたとも言える。
「対等」なんて、ないのだ。
少年自身はシーヴァスと「対等」というか、「親友」感覚でいる。大事な宝物である。そのシーヴァスは少年がなれなかった「王子(白雪姫の王子)」のかわりに闘犬の王者になる。シーヴァスが「王者」になることで、少年も「王子」になる、という「夢」をみている。シーヴァスが少年の「代弁者」であると感じている。
でも、大人は「犬」を「対等」とはみない。犬は闘犬の試合に出て、人間のために金を稼ぐものである。「奴隷」である。(「奴隷」ということばは、少年が学校でブロックを積む作業をしているときに、出てくる。一方で「白雪姫」のけいこをしているこどもがいる。一方でブロック積みをしている「奴隷」のような少年たちがいる、と少年は感じている。だれだって「奴隷」よりも「王子」がいい。)
「対等」にまつりあげられ、「対等」から突き落とされる。このとき、少年は「おとな」になる。いっしょに車で帰るシーヴァスは首から血を流している。傷ついている。それは、少年のこころのようにも思える。また、少年のさびしさ、絶望を知ったシーヴァスの「共感」の涙のようにも見える。
映画はシーヴァスの、血を流しぼんやりと中空をみつめるさびしい目を映しておわるが、それは少年がはじめてみせているであろうさびしい目に違いないと感じさせる。
と、書いてしまうと、なんだがストーリーに流されている感じがしないでもない。この映画の魅力は、実は、そのストーリーと拮抗する「映像」の厳しい美しさである。手持ちカメラの「揺れ」について「苦情」を書いたが、揺れながらも寒村の空気をしっかりとつたえている。自然だけではなく、暮らしのシーンも虚飾がない。事実を、フレームでとらえるというよりも、フレームを壊して一歩カメラが対象に近づく、カメラのレンズが裸になって「肉眼」で世界をとらえるという緊迫感がある。カメラが「肉眼」になる。すべてが生々しい。ドキュメンタリーを突き抜けて、自分がその世界にいるような感じになる。最後には、犬の気持ちにさえなってしまう。
愛犬家としては、犬が苦しむシーンは見たくないのだが、この映画の映像はすばらしく力がある。必見の一本。
(KBCシネマ2、2016年01月17日)
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