詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

冬の帰り路/異聞

2016-01-20 22:17:58 | 
冬の帰り路/異聞

空が冷たくなると街灯がともり、きめの細かい白い光が上空の冷気を地上へひきおろすようだった。(白い光が上空の冷気を地上へひきおろし、きめの細かい輝きとなってちらばった。)靴音が歩道から跳ね上がり、ウインドーにぶつかり、さらに細い音になるのを耳の奥に聞いたのは、その路地に入る前のことだった。

街灯の下を通りすぎると、影が突然方向を変えるのがわかった。男は、これから自分の影が長くなる方へと足を運ぶのだが、頭の中で「この影はさっきまで自分の後ろにあったのだ」とことばにしてみると、後ろへ、過去へと歩いているという錯覚がやってきた。(背中が剥がされ、その平べったいものが、背後から前方になげつけられたように感じた。だれか、私否定したいものが背後にいるのだ。)

おかしいな、右に石垣の奇妙なふくらみ。左の上に蝋梅のにおい。前に角度のわからない坂。(見知らぬ傾斜がアスファルトになって、迫ってくる。)おかしいなあ。手はどこに。鞄はどこに。影は薄くなって、闇と区別がつかない。(そんなはずはないのだが)、一点透視のなかせ男は吸い込まれてゆき、あとに冬の帰り路だけが残されるのだった。(一点透視のなかから、帰り路ということばが長く長く、永遠に長くのびてくるのだった。)

*

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四元康祐「日本国憲法・前文」

2016-01-20 12:37:03 | 詩(雑誌・同人誌)
四元康祐「日本国憲法・前文」(「現代詩手帖」2016年01月号)

 四元康祐「日本国憲法・前文」は三つのことばから構成されている。「日本国憲法」を詩に書き直したもの。英語の「日本国憲法」。それに「訳注」。「訳注」がついているから、メインのことばは「日本国憲法」を詩に書き直したもの、というよりも、「英文」を翻訳したものといった方がいいのかなあ……。

俺は決めたんだ
殺し合いはこりごりだと
命あっての物種、笑顔絶やさず
自由気儘に生きていこうと
俺は決めた
誰にも指図されず
自分のことは自分で決めると
誰にも頼らず自分自身の足で立って
誰のためでもなく自分自身のためにこそ
生きてゆくと

 気持ちのいいことばだ。憲法前文の「意味(客観的内容)」は四元のことばとは違うかもしれないが、「気持ち(主観的内容?)」は、まさにこんな感じ。「自由気儘」「誰にも指図されず」は、とてもうれしい。初めて憲法を習ったとき(読んだとき)の明るい気持ちを思い出した。

あたしは決めたの
ひとの心の優しさを信ずることを
この世を動かす
物の道理に従うことを
あたしは決めた
人間はひとりきりでは生きていけないから
他人を信じることに賭けてみよう
自分が幸せになりたいのなら
他のみんなが飢えや苦しみから救われるように
手を差し伸べようと

 この二連目で、私は少しつまずいた。「他人を信じることに賭けてみよう」は戦争放棄(九条)につながる美しいことばだ。これは、とてもいいのだが、私はこんろふうに他人を思いやること、世界を思いやることは、中学時代にはできなかったなあ。
 さらに、どうして「主語」を「俺」から「あたし」に変えたのだろう。「俺」のままでは、不都合があるのかな? もし四元が男ではなく女だったら、やはり一連目を「俺」と書き出し、二連目で「あたし」に変えるかな? とても、気になる。
 三、四連目は、えっ、こんなこと憲法に書いてあった?と思うことば。でも、新鮮で、とても気持ちがいい。詩全体では「起承転結」の「転」にあたるのかも。

それにしても、ある朝不意に
俺は立っていた
雲一つない夏空の下に
自分でも聞いたことのない声で語りはじめていた
至極当たり前の、でも凄く新しいことを
俺とは誰なのだろう?
どこからやってきたのだろう?

なにひとつ忘れてはいない
小さな石が大きな石となって苔に包まれるまでの
過去の全てがあたしの裸に刺青されている
あたしの血で、あの人たちの血で--
どんな心の誓いも手の行いを消し去ることはできない
たとえ朝陽の下ではなにもかもが眩しく見えても
あたしの瞳はあの夜の黒を宿し続ける

 四連目は、第二次大戦の深い反省と読むことはできるけれど。三連目の「俺とは誰なのだろう?/どこからやってきたのだろう?」を言い直したのか。あるいは「どんな心の誓いも手の行いを消し去ることはできない」が遡る形で「俺とは誰なのだろう?/どこからやってきたのだろう?」と言い直されているのだろうか。
 二連のことばがからみあって、憲法でありながら、憲法を超えていく。しかし、この超えていくは、逆により深いところでことばを統一するという感じでもある。この融合ともぶつかりあいとも言える不思議な組み合わせを読むと、「俺」「あたし」と使い分けてきた理由がここにあるかも、と思うのだが……。
 しかし、中学生の私は「戦争はいやだな、戦争をしなくてすむのはいいなあ」くらいのことしか思えなかった。(いまでも。)反省というよりも、二度と戦争がないのはいいことだ、としか思えなかった。「どんな心の誓いも手の行いを消し去ることはできない」は反省が「立派すぎる」。ついていけない。中学生の私には。

 あれやこれや考えながら五連目。私は、ここで完全につまずいた。いや、倒れてしまった。これは何だろう。

私達でも我々でもない
<We>という語の不思議な響き
この国の言葉にはない一人称複数に籠められた
約束と自由

 憲法前文の「意味(内容)」に対する「ことば」ではなく、「英語」に対する感想。しかし、「この国の言葉にはない一人称複数」とはどういうことだろう。日本語には一人称複数はない? 「私達」「我々」、あるいは「われら」というのは「私+達(複数を意味することば)」「我+々(繰り返し、反復をあらわすことば)」「われ+ら(複数を意味することば)」であって、英語のように「一語」として存在しないということ? 日本の「一人称」は単数が原則であって、集合しても「ひとつのことば」にはならないということ? 「集合して、その集合がひとつ」という考え方がないということ?
 うーん。
 どうなのだろう。太平洋戦争の「歴史」を振り返ると、逆に見える。「一人称」をつらぬけなかった国民が見える。「集団」が「ひとり」であることを奪い去ったように見える。
 一連目の「自由気儘」が不可能だったような気がする。「自由」は「単数の一人称」につながっていなかった。憲法は、それを取り戻した。私には、そう思えた。それ以外のことは考えられなかった。
 四元は、あるいは「集団」を「ひとつ」のことばであらわすことができなかったから、逆に「集団」「個人」という区別ができなかったといいたいのかな?
 日本語は英語と違って、一人称がいくつもある。「俺」「あたし」「わたし」「ぼく」。ばらばらにらちらばって、<We>のように、ひとつになれないから、「権力の暴走」に対抗できなかった?
 四元は何を思っているのだろう。
 さっぱりわからない。
 英語の日本国憲法は<We>で書きはじめられている。もし<We>がほんとうに問題点を含んでいるのだとしたら、なぜ、一連目を「俺」と書きはじめたんだろうという疑問もわいてくる。そんなに<We>に感動したのなら……。

俺たち一人一人の寄せ集めでありながら
あたしたちを越えたひとつの人格
その<We>がいつか
まだ見ぬあなたに出会えますように
その<We>が太古初めて二本足で立ち上がった
霊長類の歓びを忘れぬように

 「まだ見ぬあなた」とは誰だろう。日本人以外のひと? それとも「俺たち/あたしたち」の子孫? 子孫が、「俺たち/あたしたち」を、さらには「俺たち/あたしたち」の祖先、つまり第二次大戦を経験し、その反省から日本国憲法つくった人、その「理想/願い」に出会えますようにと祈っているのだろうか。

俺たちは持てる力の限りを賭して
あたしたちは持てるすべての優しさをこめて
今日この星の上で歌う
ウルトラのいるM78星雲に向かって
人間の声を放つ

 この最終連でも「俺たち=力」「あたしたち=やさしさ」という「固定化」が気になる。この「無意識の固定化」を生きながら<We>に驚くのか。あるいはそういう固定化を生きているからこそ<We>が見えるのか。
 ぜんぜん、わからない。
 私はウルトラマンを見たことがないので、「ウルトラのいるM78星雲に向かって/人間の声を放つ」が何をあらわそうとしているのかも、わからない。
 「註釈」に書いてあることも、よくわからない。四元は中学の「倫理」の授業で、憲法前文を日本語と英語で読んだ、暗誦したと書いている。

自分の国の憲法に、英訳があって、元を糺せばGHQ草案という英文が下敷きになっていたということを、その時初めて知った。(略)「日本国憲法・前文」は、私が教科書以外で初めて読んだ「生きた英語」だったのかもしれない。

 うーん。体験が違いすぎて、ついていけない。
 一連目はとても好きで、感想を書きたいと思ったのだが、全体を読み通すと何を書いていいか、わけがわからなくなる。で、長い間そのままにしていたのだが、わからないことはわからないまま、わからないと書いておく。
 四元は憲法の前文の「意味(内容)」に感動したのかな?
 それとも<We>という英語の単語、その単語がもっている力に感動したのかな?
 日本語と英語が違うと感じたことが、憲法を読む上で、どう影響したのだろう。
 憲法が「初めて読んだ「生きた英語」と定義されるとき、それを「日本語」を中心にして言い直すとどうなるのだろう。「生きた日本語」? 「死んだ日本語」?
 「生きた」の指し示す具体的な意味は?
 疑問だけが増えつづける。
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四元 康祐
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