詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺めぐみ「贈りもの」

2016-01-29 11:12:22 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺めぐみ「贈りもの」(「北奥気圏」11、2015年12月10日発行)

 渡辺めぐみ「贈りもの」には「ルネ・マグリット作「心臓の代わりに薔薇を持つ女」に寄せて」という副題がついている。

本当に素敵なものは何かしら
統計学的数字の上を 世界の学者が歩いている日にも
彼女のうつむく視線の下に あるのではないかしら

 私は「心臓の代わりに薔薇を持つ女」を見ていない。ルネ・マグリットといえば、鳩(鳥?)の輪郭のなかに空が描かれている絵や布をかぶった恋人のキスの絵を思い出すが、実際に見たことがあるのは何点か。思い出すこともできない。ほとんど何も知らない。
 だから、これから書く感想は、とてもいいかげんなものなのだが……。
 二行目が、ルネ・マグリットに似ている。一行目の世界を突然、破る。「素敵」といういわばセンチメンタル(?)な感情と「統計学的数字」ということばの出合いは、日常的にはおこらない。そのどちらもまったく聞き慣れないとことばというよりは、どちらかといえば「日常的」であるにもかかわらず、まあ、出合うことはない。その出合うはずのない「ことば」がひとつの作品のなかで出合っている。
 そして、こういうとき、不思議なことが起きる。「素敵」と「統計学的数字」とでは、「統計学的数字」の方が「抽象的」である。「頭」を刺戟してくる。そうすると、「素敵」というセンチメンタルが少し「知的」になる。「感情的」な何かが洗い流され、「抽象的」になる。
 「日常」なのに、「抽象」。何か、変。
 たとえば、顔に布をかぶったままの接吻の絵のよう。キスはありふれている。布もありふれている。ともに「日常」である。それが組み合わさり、布をかぶったままキスをしている男女になってしまうと、何か変。何かが「抽象」され、そこに「意味」があるように思ってしまう。「抽象」とは何かを省略し、つまり何かを隠し、隠すことで別な何かを浮かび上がらせる。見逃していた「意味」を浮かび上がらせる。考えさせる。
 その「意味」って何?
 わからないけれど、その「わからない」ものをめぐって、「頭」が動く。そういう「頭」の動きが「意味」かもしれない。
 「感情」がそこにあるはずなのに、その「感情」を「感情」ではなく、別な何か、たとえば「理性/知性」で描き直そうとする「頭の動き」が「意味」。そういう運動を引き起こす力。その力のなかに、引き込まれていく。
 ルネ・マグリットのこうした絵の印象と、書き出しの二行のことばの衝突、出合い方が、なんとなく似ている。「何かしら」「ないかしら」という「疑問」が思考を動かしていく。感情で動くというよりも、思考でことばを動かしていく渡辺の特徴がうかがえる。
 ここから渡辺のことばは、さらにどう動いていくか。
 二連目。

蘇鉄の味のする 夏の柩との和音
疾走する魂を突然カーブさせて
この世の梁を抜け あっちへ行ってしまった彼女の女友達を
鳥の飛行が捜しに行った日があった
「笑ってよ ベイズリー模様のスカートをなびかせて
愉悦が熱射で燃えていた日のように」
とは彼女も誰も言えなかった夜の和音
それは彼女の胸にきっと今も畳み込まれている

 「蘇鉄の味のする」と「味」という「肉体(味覚)」の方へ動きはじめる。さらに「 夏の柩との和音」と耳(聴覚)を動かす。「蘇鉄の味のする 夏の柩との和音」という行には、味覚と聴覚の出合いというもののほかに、何か「不吉」なものがある。不吉は「柩」がもたらすものだが、「蘇鉄の味」の「鉄」ということばが血の「鉄分」を思い起こさせることも影響している。血の味。けれど、その「味」は「和音」ということばと衝突して、一気に「抽象的」になる。鳩のなかに描かれた空のように、どっちがどっちかわからなくなる。「味(味覚)」なのに、それが「和音(聴覚)」ととらえなおされて、「味は音」であるかのような「錯乱」が起きる。あるいはこの「錯乱」は「頭(思考)」と「肉体(味覚/聴覚)」のせめぎあいと言い直すこともできるかもしれない。しかし、こういうことは「区別」してはいけないのだろう。
 鳩の輪郭の中の空。それは鳩が隠しているのか、それとも鳩の「肉体」のなかにある空をあらわしているのか。そういう区別は無意味。それは、そのまま、そうしてある。そのまま「両方」をつかみ取るとき、鳩は空を飛ぶ。
 そういう感じで「味/聴覚」「和音/味覚」のように、「肉体」のなかで何かが錯乱しながら、ことばにならないものを探していると読んだ方がいいのだろう。
 その「錯乱」を渡辺は次の行で「疾走する」「カーブ(する)」と言い直しているのかもしれない。まっすぐではなく、曲がる(カーブする)、つまり「逸脱する」。「この世」から「あの世」へ逸脱する。
 「あの世」は「死」であるけれど、それは必ずしも「肉体」の「死」とはかぎらない。「愉悦」「熱射」「夜」ということばのなかへとカーブし、疾走していくなら、その「死」は「自己の死=エクスタシー(セックスがもたらす意識の死)」かもしれない。
 ここにもう一度「夜の和音」と「和音」が繰り返されている。次の行の「胸」と「(和)音」を組み合わせるなら、そこに鼓動(心臓の音)が浮かび上がる。胸の奥で、エクスタシーのときの鼓動がまだ生きている。
 渡辺の詩で旅しているルネ・マグリットの絵を私は知らないが、きっとヌードの女だと思う。セックスを始める前の女ではなく、セックスし終わったあとの女だと思う。セックスそのものを描かずに、その後の鼓動の記憶を薔薇に象徴させている。象徴は「抽象」でもある。「抽象」とは「現実」というよりも「現実」を整理した「過去」の持続かもしれないなあ。
 「時間」という抽象を描いているのかもしれない。
 三連目を省略して、四連目。

本当に素敵なものは何かしら
彼女が大切な人に贈ろうとしている薔薇の花は
幸福の余熱 地熱 錯覚
いいえ
どれでもない ただ彼女の心臓の音
どくどくと
彼女が肘をつく テーブルクロスに覆われたテーブルの下の
空っぽの秘密に落ちてゆく渇きの音

 薔薇が心臓であることが、語りなおされている。ただし、それは「愉悦が熱射で燃えていた」と二連目で「過去形」であったように、「幸福の余熱」とやはり「過去」なのである。「いま」ここに存在するのではなく、「いま」あるかのように感じてしまう一種の「錯覚」である。ほんとうは「空っぽ」へ落ちてゆく。「空っぽの秘密」をさびしく思う「渇き」である。
 幸福な記憶が渇きを誘うのか。渇きが幸福を記憶を思い出させるのか。鳩と空のように、二つは合体することで「ひとつ」になっている。そういう「ひとつ」を渡辺は探し、ことばにしようとしている。それが「和音」ということばに集約されている。

 抽象的でさびしい色と形を見て、ルネ・マグリットの絵を見て、渡辺は描かれた女の心臓の音を聞いた。それはルネ・マグリットの心臓の音でもあり、また渡辺の心臓の音でもある。三つの音が「和音」になって響いている詩だ--と書いてしまえばいいのかもしれないけれど、書いている内に少しずつずれてしまった。

ルオーのキリストの涙まで
渡辺 めぐみ
思潮社
コメント
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