詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

関根由美子『水の記憶』

2016-01-14 08:53:45 | 詩集
関根由美子『水の記憶』(詩的現代叢書15)(書肆山住、2016年01月10日発行)

 関根由美子『水の記憶』。「千代子のこと」がともいい。

ちよ ちよ ちよ と呼んでいる
あの鳥は
千代子の母かもしれない
どんな鳥なのだろう
--ちよこのこと たのむね
  ゆみちゃん--
千代子の母が死の床で言ったことばをおもいだす

ちよ ちよ ちよ と呼んでいる
冬の林にやってきて
姿をみせない小鳥
その啼き声が
わたしを呼ぶ

 「千代子」というのは誰か。たぶん幼友達だろう。とても親しい。それを知っているからこそ、「千代子の母」は関根に「ちよこのこと たのむね」と言ったのだろう。
 で。
 おもしろいのが、二連目の「その啼き声が/わたしを呼ぶ」。関根は「ゆみ」という名前であった「ちよ」ではない。鳥は「ちよ ちよ ちよ」と鳴いている。「ゆみ ゆみ ゆみ」ではない。それなのに「わたしを呼ぶ」。
 これは、どういうことだろう。
 「呼ぶ」は「名前を呼ぶ」という具合につかう動詞だが、「わたし」は「名前」を呼ばれているわけではない。
 一連目の「ちよ ちよ ちよ と呼んでいる」というときの「呼ぶ」はまさに「名前」。千代子の母が鳥になって千代子を呼んでいる。これは、ふつうの「呼ぶ」という動詞のつかい方。
 二連目に「ちよ ちよ ちよ と呼んでいる」が繰り返される。ここでも、それは「千代子」を「呼ぶ」。それなのに「わたし」を「呼ぶ」と感じる。「わたし」は「千代子」になったのか。
 そうではない。
 その声を聞きながら、関根は、「千代子の母」に「ちよこのこと たのむね」と言われたことを思い出した。過去を「思い出させる」、「過去のわたし」が「いま」に「呼び出される」。それを「呼ぶ」と言っているのである。
 「おもいだす」は一連目でもつかわれている「動詞」。これを二連目で「思い出させる」ではなく「呼ぶ」と言い換えていることになる。
 そのとき、何が起きているのか。
 「おもいだす」では、あくまで「わたし」が「わたしの過去/過去のわたし」を「思い出す」。そこには「わたし」しかいない。けれど「呼ぶ」という「動詞」をつかうと、そこに「わたし」以外の人間が入ってくる。
 この他人の働きかけが、「あ、忘れていた/思い出した」という印象を強くする。
 こういう「強さ」の印象が詩なのだと思う。「強さの印象」を「衝撃」と言い換えることができるだろう。

ちよ ちよ ちよ としきりに啼く
千代子のこと
半世紀もまえに頼まれたままになっている

 この「強さ」が「半世紀」ということばを引き出す。「半世紀」まえが「いま」となって動く。
 もしかすると、関根と千代子は、半世紀たったいま、音信がないかもしれない。関係が途絶えているかもしれない。けれど、その関係が鳥の鳴き声で、突然「呼び出された」。そして、気づく。ああ、何もしなかった。--そういう「さびしさ」が、とても静かな声で書かれている。

 「呼ぶ」はまた違う動詞で読み直すこともできる。「呼ぶ」は「声をかける」。「声をかける」には「励ます」もあれば「叱る」もある。一連目に書かれているように「頼む」もある。感情が高ぶれば「叫ぶ」にもなる。「叫ぶ」には「啼く/泣く」もまじってくる。「頼む」以外には、そうしたことは具体的には(明確に動詞としては)書かれていないが、いろいろな「声」が「呼ぶ」といっしょに動いている。声のあり方が詩の奥底を支え、詩に深みを生み出している。
 「動詞」もまた「比喩」なのだと思う。「比喩」というと「名詞の置き換え(言い直し)」のように考えがちだが(イメージの置き換えと考えがちだが)、動詞もまた名詞と同じようにさまざまに言い直すことができる。そこに書かれている動詞が、他の動詞を代弁していることがある。あるいはほんとうに言いたい動詞をあえて隠していることもある。そういう動詞を「肉体」でつかみとると、詩は一気に「身に迫ってくる」。
 他人の書いたことばなのに、自分の「肉体」の動きになって、「肉体」を揺さぶる。

 「芋虫」という作品は、芋虫がオリーブの葉っぱを食べているのを見たときのことを書いている。「雨が降ってきたので/わたしは芋虫に傘を差しだした/葉の端から/ていねいに右に左に喰っている」と、それこそ「ていねい」な描写があって、

胴体がうすい紫の色にそまると
黒い斑点は縞模様に映える
出かけることもわすれて
一匹の芋虫をみている

すると
わたしの
目も口も芋虫のようにうごいている

 最終連がいい。「みている」わたしが芋虫に「なっている」。「のように」は「なって」である。つまり

わたしの/目も口も芋虫の「目と口になって」ようにうごいている

 あるいは、

わたしは/芋虫「になって」目と口をうごかしている

 である。「わたし」が「対象」に「なる」。その入れ替わりが、とても自然だ。
 この「入れ替わり」から「千代子のこと」を読み返すと、関根はいま、小鳥になって千代子のことを「ちよ ちよ ちよ」と呼んでいるのかもしれない。わたしは「「ちよ ちよ ちよ」と千代子を呼ぶが、千代子はやってこない。近くにはいない。声を張り上げて叫んでも、その声は届かない。関根の肉体のなかだけで、こだまする。とりかえしのつかない「かなしさ」が、そこにある。

*

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