松浦寿輝「冬の猫」(「現代詩手帖」2016年01月号)
松浦寿輝「冬の猫」は、
と書きはじめられる。「おぼえていない」から思い出そうとする。さまざまな「場(絵の展示場所)」と、その「場/時」での肉体感覚のようなものが繰り返し描かれる。
という具合。
ことばが対象を丁寧に描き、目だけではなく肉体全体で「場」がとらえれられる。ことばの動きがあまりに丁寧でゆっくりしているので、「場」を描いているのか、それとも肉体の記憶を書いているのか、区別がつかないような感じになるが、こういう何を書いているのか「対象/意味/内容」をつかみやすい描写は、「現代詩」ではめずらしいかもしれないなあ。「現代詩」というよりも、「小説」の描写に近いかもしれない。どこにも動いていかないような描写の形式、そのくせその描写の内部で何かが動いている感じは松浦の小説につながるものだ。
これが、作品が半分をすぎたりあたり、(起承転結の「転」あたり?)、描写(ことばの動き、対象への向き合い方)ががらりとかわる。
「冬の猫」という題なので「猫」が描かれた絵と思いながら松浦のことばを追っていたのだが、
えっ、と驚くのだが。
その絵が、では何を描いているのか、という「説明」の部分に、私はさらに驚く。
「猫の瞳」ではなく「猫の瞳が見ているものの色」という「切り返し」は、「場」の描写が、いつのまにか肉体(精神状態)の描写とも読むことができる前半の構造に似ている。それは、きのう読んだ北川の詩について書いたときのことばをつかっていえば、「入れ換え可能」なものだと思う。
そのことをきょうまた書いてしまうと同じことの繰り返しになる。だから、書かない。それに、私がこの詩で「好き」になったのは、そういうことばの動きではない。「好き」というより、思わず棒線を引いてしまった、あ、これがこの作品のキーワードがと思ったことばがあり、それについて書きたい。(すごく長い前置きだ。)
この行の「考え」ということば。
これが、この作品を統一している。支配している。そのことが、とてもおもしろいと思ったのだ。
「考え」というのは基本的に「個人の意識(精神)」の動きだと思うが、不思議なことに「個人」であることにとどまらない。「個人」の「領域(?)」にとどまらない。「考え」を「思考」と言い換えるとわかりやすくなると思うが、「思考」は「個人的真実」ではなく、「真理(一般的真実?)」や「意味」へ向かって動くものだ。「真理/真実/意味」へたどりついた「思考」が「正しい思考」というふうに動く。
前半に書かれている「冬の猫」の絵を見た「場」、あるいはそのときの肉体の記憶というのは「わたし(松浦)」の「個人的事実」であるけれど、「思考」というのは、そういう「個人的事実(真実)」を指向するのではなく、何か「人間全体」を「対象」にするといえばいいのか、「人間全体」に「共通する/共有される真実」として動いているように思う。
作品に即して言えば、それを「どこ」で見たか、それを見たとき「肉体」にどういう変化が起きたかではなく、その作品が「何を描いているか/どういう意味を持つか」と「考える」のが「思考」である。「どこ」で見た、「肉体」がどう変化したかは、そのとき、そのひとによって「変わる」。「変わる」ものは「真実/真理」ではない。でも、「何が描いてあるか」というのは「変わらない」。つまり、そこには「事実/真実」というものがある。「考え」はその「真実/真理/事実」をめざして動いている。
で、その「真実/真理」をめざすという動きは「訂正」によって強調される。「確定」されるといってもいい。
それが、
という二行。「……ではなく(否定)/……ではないか(訂正)」。
この否定/訂正は、「わたし」という個人のなかで起きることなのだが、訂正され「真実」になった瞬間から、人間に「共有」されるもの(真理)になる。
さらにここから、つまり「共有される真実/真理」から、松浦は「わたし」の「記憶」を「修正」する。見つめなおす。どこで見たのか、なぜ、おぼえていないか。その「原因」という名の「真実」を探しはじめる。思考する。考える。「思考の真実/真理」を求める。
この部分には、ふたつ、重要なことばがある。
ひとつめは、「わたしからは決定的にへだたった異形の他者」という行の「わたし」。これは「冬の猫」を見た「わたし(つまり、松浦)」か。それとも描いた「画家」か。「松浦(わたし)」から決定的に隔たっているのはわかるが、それを描いたのは「画家」なのだから、その「画家」からも決定的に隔たっているのではないのか。そして、「隔たる」という「動詞」のなかで、「松浦(わたし)」と「画家」は、交錯し、融合していないか。「松浦/わたし/画家」は、常に入れ替わりながら、入れ替わることで「ひとり」のように動いている。
という「認識(断定)」は「松浦(わたし)」の認識であり、同時に「(わたし)画家」の認識である。「画家」にそういう「認識」がなければ、「画家」は、そういう絵を描かない。描けない。「松浦(わたし)」は「画家(わたし)」になって、そのとき、絵を描いている。
もうひとつの重要なことばは「ずっと以前から直感的に理解しながら」の「直感的」である。
「考え(思考)」というのは「直感的」なものではなく、「論理的/後天的」なものである。あとからつくるものである。そういう意味からは「直感的」の直前に書かれている「ずっと前から」も重要なことばである。「考える(思考する)」前から、わかっている。このときの「直感的」は、「ずっと前から」ということばを手がかりに「潜在的」と言い換えることもできるかもしれない。「潜在的な本能」のようなもの(本能とはもともと潜在的だと思うけれど)を「直感」と言っているように思える。
ずっと前からわかっていた(理解していた)/見た瞬間から潜在的にわかっていた。
そして、それは「潜在的」であるがゆえに、「個人的」という「領域」を超える力をもっている。誰の「思考」のなかにも「潜在的」にそういうものが存在している。
この「潜在的」を「起承転結」の「結」で「未生以前」と言い直している。(谷川俊太郎のよくつか「未生」を思い出す。)
「未生以前」とは、「わたし」が「わたし」として「生まれる前」であるが、それははやりのことばで言い直せば「分節される前」になる。「分節される前」は「わたし」は「わたし」ではない可能性がある。「わたし」はほかのものになって(分節されて)、生まれる可能性があるということ。何になってか。「猫」だ。
だから、
ということになる。「わたし/猫」の区別はなくなる。「未分節」の状態にいる。それは「すでにわたしのなかにあり/いまもわたしのなかにある」。「すでに(過去)」も「いま」も区別がなくなる。
「思考(考える)」は、「事実」を組み立てて「真実/真理」に到達するのではなく、逆に「事実」を解体し、それを「未生以前」に戻しながら、何にでも変化する「自在さ」をつかみとるとき、「真理になる」という「動詞」として動く。分節する。生み出される。その「真理」というのは「固定化」されている(定まっている)というよりも「流動的」であり、流動し、あふれ出すものである。何かの弾みで結晶化し、生み出されるという形で、混沌(未分節)のなかから生み出される。
この先、「考え(思考)」はどう動いていくか。
書きたいことがたくさんある。「答えのない問い」、「問いと答えの緊密な結びつき」については「答え/問い」「問い/答え」は入れ替え可能である。入れ替えて読むべきものである、と私は考えている。それは「覗きこむ/覗きかえされる」という形で言い直されている。それに類似したことは、谷川の作品や北川の作品で触れてきたのでここでは省略。
最後に、
という一行について端折って書いておこう。この一行は、「転」のところで触れた、
とそっくりである。「主語」は「わたし」「画家」と違っている。違っていることによって「ひとり」になる。それは、繰り返しになるが、相互に入れ替え可能である。「わたし/画家」「画家/わたし」は違った人間だが「同じ」動きをしている。それは「猫を抱く」という動きだけではなく、「猫の瞳」を見ながら「猫の瞳が見ているものを見る」という運動(動詞)のなかで「ひとり」になる。そして、そのとき当然のことだが「わたし/画家/猫」もまた入れ替え可能な「ひとり」になる。
その「入れ替え」は「潜在的」な「場」でおこなわれる。「未生」の「場」でおこなわれる。
そんなふうに「考え(思考)」が動いていくとき、それは「個人的な思考(考え)」ではなく、「個人」を超越する。「考え」ということばが、この詩を、そういうところまで引っぱっていく。
なんだか行ったり来たりの感想になってしまうが……。
この詩で「考え/考える」ということばに引きつけられたのは、「考える/思考する」という動詞が、まるで肉体の動きのようにひととひとを結び、融合させる動詞として働いているからである。「考える/思考する」がセックスをするような感じで、欲望/本能を刺戟してくるからである。
わたしはもっぱら肉体を直接動かす具体的な動詞に注目しながら詩を読んでいるが、松浦のこの作品では(後半では)肉体はありま動かず、純粋に「考える/思考する」という動詞を動かしている。それが、とてもおもしろいと思う。「考える/思考する」も、やはり動詞なので、肉体を直接動かす動詞と同じように人間を動かし、その運動のなかに読者を引き込み、融合させる力をもっていることに気付かされる。
松浦は「ことばの肉体」を動かす詩人なのだ。
*
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松浦寿輝「冬の猫」は、
「冬の猫」と題された小さな絵を
どこで見たのかおぼえていない
と書きはじめられる。「おぼえていない」から思い出そうとする。さまざまな「場(絵の展示場所)」と、その「場/時」での肉体感覚のようなものが繰り返し描かれる。
床下にながれる運河の汚れた水面から
はいあがってくるつめたい湿気に
背筋がちりちりとそそけ立ち
ごつごつした粗い石壁をなでると
てのひらに血がにじむかとおもわれた
という具合。
ことばが対象を丁寧に描き、目だけではなく肉体全体で「場」がとらえれられる。ことばの動きがあまりに丁寧でゆっくりしているので、「場」を描いているのか、それとも肉体の記憶を書いているのか、区別がつかないような感じになるが、こういう何を書いているのか「対象/意味/内容」をつかみやすい描写は、「現代詩」ではめずらしいかもしれないなあ。「現代詩」というよりも、「小説」の描写に近いかもしれない。どこにも動いていかないような描写の形式、そのくせその描写の内部で何かが動いている感じは松浦の小説につながるものだ。
これが、作品が半分をすぎたりあたり、(起承転結の「転」あたり?)、描写(ことばの動き、対象への向き合い方)ががらりとかわる。
「冬の猫」という題なので「猫」が描かれた絵と思いながら松浦のことばを追っていたのだが、
そこには猫など一匹も描かれておらず
ただ 内側からほのかに輝きだすような
真っ青な闇が広がっているばかり
えっ、と驚くのだが。
その絵が、では何を描いているのか、という「説明」の部分に、私はさらに驚く。
画家は膝に抱いた猫の瞳を覗きこみ
そこにしずまりかえっている
人間の共感をきっぱりと拒絶した青を
その深さと暗さと輝きを
描きだそうとしたのだろう
若い頃はそう考えて納得していたいたものだ
だが そうではなかったのではないか
あれは猫の瞳の色ではなく
猫の瞳が見ているものの色だったのではないか
「猫の瞳」ではなく「猫の瞳が見ているものの色」という「切り返し」は、「場」の描写が、いつのまにか肉体(精神状態)の描写とも読むことができる前半の構造に似ている。それは、きのう読んだ北川の詩について書いたときのことばをつかっていえば、「入れ換え可能」なものだと思う。
そのことをきょうまた書いてしまうと同じことの繰り返しになる。だから、書かない。それに、私がこの詩で「好き」になったのは、そういうことばの動きではない。「好き」というより、思わず棒線を引いてしまった、あ、これがこの作品のキーワードがと思ったことばがあり、それについて書きたい。(すごく長い前置きだ。)
若い頃はそう考えて納得していたいたものだ
この行の「考え」ということば。
これが、この作品を統一している。支配している。そのことが、とてもおもしろいと思ったのだ。
「考え」というのは基本的に「個人の意識(精神)」の動きだと思うが、不思議なことに「個人」であることにとどまらない。「個人」の「領域(?)」にとどまらない。「考え」を「思考」と言い換えるとわかりやすくなると思うが、「思考」は「個人的真実」ではなく、「真理(一般的真実?)」や「意味」へ向かって動くものだ。「真理/真実/意味」へたどりついた「思考」が「正しい思考」というふうに動く。
前半に書かれている「冬の猫」の絵を見た「場」、あるいはそのときの肉体の記憶というのは「わたし(松浦)」の「個人的事実」であるけれど、「思考」というのは、そういう「個人的事実(真実)」を指向するのではなく、何か「人間全体」を「対象」にするといえばいいのか、「人間全体」に「共通する/共有される真実」として動いているように思う。
作品に即して言えば、それを「どこ」で見たか、それを見たとき「肉体」にどういう変化が起きたかではなく、その作品が「何を描いているか/どういう意味を持つか」と「考える」のが「思考」である。「どこ」で見た、「肉体」がどう変化したかは、そのとき、そのひとによって「変わる」。「変わる」ものは「真実/真理」ではない。でも、「何が描いてあるか」というのは「変わらない」。つまり、そこには「事実/真実」というものがある。「考え」はその「真実/真理/事実」をめざして動いている。
で、その「真実/真理」をめざすという動きは「訂正」によって強調される。「確定」されるといってもいい。
それが、
あれは猫の瞳の色ではなく
猫の瞳が見ているものの色だったのではないか
という二行。「……ではなく(否定)/……ではないか(訂正)」。
この否定/訂正は、「わたし」という個人のなかで起きることなのだが、訂正され「真実」になった瞬間から、人間に「共有」されるもの(真理)になる。
さらにここから、つまり「共有される真実/真理」から、松浦は「わたし」の「記憶」を「修正」する。見つめなおす。どこで見たのか、なぜ、おぼえていないか。その「原因」という名の「真実」を探しはじめる。思考する。考える。「思考の真実/真理」を求める。
必ずしも猫でなくてもよい異種の生きもの
わたしからは決定的にへだたった異形の他者
その目に世界はこう映っている
「冬の猫」は世界そのものであり
「冬の猫」のなかには世界のすべてがある
そういうことだったのではないか
そのことをわたしは本当は
ずっと以前から直感的に理解しながら
理解しているということじたいを
忘れようとしてきたのではないか
だからわたしはおぼえていないのだ
この部分には、ふたつ、重要なことばがある。
ひとつめは、「わたしからは決定的にへだたった異形の他者」という行の「わたし」。これは「冬の猫」を見た「わたし(つまり、松浦)」か。それとも描いた「画家」か。「松浦(わたし)」から決定的に隔たっているのはわかるが、それを描いたのは「画家」なのだから、その「画家」からも決定的に隔たっているのではないのか。そして、「隔たる」という「動詞」のなかで、「松浦(わたし)」と「画家」は、交錯し、融合していないか。「松浦/わたし/画家」は、常に入れ替わりながら、入れ替わることで「ひとり」のように動いている。
その目に世界はこう映っている
という「認識(断定)」は「松浦(わたし)」の認識であり、同時に「(わたし)画家」の認識である。「画家」にそういう「認識」がなければ、「画家」は、そういう絵を描かない。描けない。「松浦(わたし)」は「画家(わたし)」になって、そのとき、絵を描いている。
もうひとつの重要なことばは「ずっと以前から直感的に理解しながら」の「直感的」である。
「考え(思考)」というのは「直感的」なものではなく、「論理的/後天的」なものである。あとからつくるものである。そういう意味からは「直感的」の直前に書かれている「ずっと前から」も重要なことばである。「考える(思考する)」前から、わかっている。このときの「直感的」は、「ずっと前から」ということばを手がかりに「潜在的」と言い換えることもできるかもしれない。「潜在的な本能」のようなもの(本能とはもともと潜在的だと思うけれど)を「直感」と言っているように思える。
ずっと前からわかっていた(理解していた)/見た瞬間から潜在的にわかっていた。
そして、それは「潜在的」であるがゆえに、「個人的」という「領域」を超える力をもっている。誰の「思考」のなかにも「潜在的」にそういうものが存在している。
この「潜在的」を「起承転結」の「結」で「未生以前」と言い直している。(谷川俊太郎のよくつか「未生」を思い出す。)
だからわたしはおぼえていないのだ
「冬の猫」をいつどこで見たのかを
それは幼年期から いや未生以前から
すでにわたしのなかにあり
いまもわたしのなかにある
「未生以前」とは、「わたし」が「わたし」として「生まれる前」であるが、それははやりのことばで言い直せば「分節される前」になる。「分節される前」は「わたし」は「わたし」ではない可能性がある。「わたし」はほかのものになって(分節されて)、生まれる可能性があるということ。何になってか。「猫」だ。
だから、
わたしのなかにある「冬の猫」のなかには
しかし もちろんそのわたし自身もいて
ということになる。「わたし/猫」の区別はなくなる。「未分節」の状態にいる。それは「すでにわたしのなかにあり/いまもわたしのなかにある」。「すでに(過去)」も「いま」も区別がなくなる。
「思考(考える)」は、「事実」を組み立てて「真実/真理」に到達するのではなく、逆に「事実」を解体し、それを「未生以前」に戻しながら、何にでも変化する「自在さ」をつかみとるとき、「真理になる」という「動詞」として動く。分節する。生み出される。その「真理」というのは「固定化」されている(定まっている)というよりも「流動的」であり、流動し、あふれ出すものである。何かの弾みで結晶化し、生み出されるという形で、混沌(未分節)のなかから生み出される。
この先、「考え(思考)」はどう動いていくか。
小暗い青の沈鬱な輝きを見透かし
この生の時間とは何だったかという
答えのない問いの過酷と恍惚を前に
途方に暮れて立ち尽くしている
六十歳を過ぎたわたしはいまそうおもう
外に雪が降っているこの真夜中
膝に抱いた猫の瞳を覗きこみながら
その瞳から覗きかえされながら
書きたいことがたくさんある。「答えのない問い」、「問いと答えの緊密な結びつき」については「答え/問い」「問い/答え」は入れ替え可能である。入れ替えて読むべきものである、と私は考えている。それは「覗きこむ/覗きかえされる」という形で言い直されている。それに類似したことは、谷川の作品や北川の作品で触れてきたのでここでは省略。
最後に、
膝に抱いた猫の目を覗きこみながら
という一行について端折って書いておこう。この一行は、「転」のところで触れた、
画家は膝に抱いた猫の瞳を覗きこみ
とそっくりである。「主語」は「わたし」「画家」と違っている。違っていることによって「ひとり」になる。それは、繰り返しになるが、相互に入れ替え可能である。「わたし/画家」「画家/わたし」は違った人間だが「同じ」動きをしている。それは「猫を抱く」という動きだけではなく、「猫の瞳」を見ながら「猫の瞳が見ているものを見る」という運動(動詞)のなかで「ひとり」になる。そして、そのとき当然のことだが「わたし/画家/猫」もまた入れ替え可能な「ひとり」になる。
その「入れ替え」は「潜在的」な「場」でおこなわれる。「未生」の「場」でおこなわれる。
そんなふうに「考え(思考)」が動いていくとき、それは「個人的な思考(考え)」ではなく、「個人」を超越する。「考え」ということばが、この詩を、そういうところまで引っぱっていく。
なんだか行ったり来たりの感想になってしまうが……。
この詩で「考え/考える」ということばに引きつけられたのは、「考える/思考する」という動詞が、まるで肉体の動きのようにひととひとを結び、融合させる動詞として働いているからである。「考える/思考する」がセックスをするような感じで、欲望/本能を刺戟してくるからである。
わたしはもっぱら肉体を直接動かす具体的な動詞に注目しながら詩を読んでいるが、松浦のこの作品では(後半では)肉体はありま動かず、純粋に「考える/思考する」という動詞を動かしている。それが、とてもおもしろいと思う。「考える/思考する」も、やはり動詞なので、肉体を直接動かす動詞と同じように人間を動かし、その運動のなかに読者を引き込み、融合させる力をもっていることに気付かされる。
松浦は「ことばの肉体」を動かす詩人なのだ。
松浦寿輝詩集 (現代詩文庫) | |
松浦 寿輝 | |
思潮社 |
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
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