筏丸けいこ『モリネズミ』(フラミンゴ社、2016年01月15日発行)
筏丸けいこ『モリネズミ』のなかから一篇を取り上げるなら、「いしだたみ」。
この二行がとても印象的だ。「私は あたらしい 坂となった」の「あたらしい」は何を言おうとしているのか。坂ではない「平面」が「肉体」のなかでのぼってきた「坂」を甦らせ、それを「あたらしい」と感じているのか。「肉体」のなかに坂という「あたらしい」記憶(感覚)をつくり出しているのか。あるいは、まだのぼりたりなくて、そこには存在しない「あたらしい」坂を「肉体」が欲しているのか。「あたらしい」坂をつくりだし、その坂をのぼるという「肉体」になっているのか。どちらの場合も、「なった」は「つくった」ということになる。
私は直感的に「なる」を「つくる」と読んでいた。しかし、この「つくる」は私が勝手に考えたことであって、筏丸は「つくる」とは言わずに、別のことばで「なる」を言い直している。
「つくろう」。これは「造ろう/創ろう」ではなく「繕う」だろう。
「望郷」や「東京ドドンパ娘(古い歌)」といことばが、そういうことを思い起こさせる。「肉体」のなかにのこっている古いもの、おぼえているもの(生理感覚)を甦らせて、そのおぼえていることの奥にある「統一感」へ向けて全体を「繕う」。つまり、「ととのえる」。そうすると、その「全体」の感じと「坂」がどこかで似かよってくる。「望郷(過去をさそうもの)」の象徴として、「肉体」がおぼえてる「坂」が甦ってくる。いまのぼってきた坂ではなく、過去に坂を上ったときの感じが「あたらしい坂」になってよみがえってくる。そこに「あたらしく」坂を「つくる/生み出す」。
「私は あたらしい 坂となった」は
あるいは
「坂」と「生理感覚」、さらに「なる」と「つくろう/つくる」は入れ替え可能なものだと思う。
そして、その「生理感覚」を言い直したものが、「寝そべって」という肉体の動かし方につながる。坂を上る。つかれる。「肉体」がなんとなく「だらしない」感じを求める。それが「寝そべる」という動詞のなかで動いているように感じられる。
あるいは、「寝そべっている生理感覚」は「坂を上る」ときのように、「肉体」の一種の「停滞感覚」なのかもしれない。「坂を上る」というのは、筏丸にとっては、「熱湯をそそ」いだあとラーメンができあがるまで待っているような感じ、「肉体」になじんでしまっている感覚なのかなあ。
この「古い感覚/なじみきった感覚」を筏丸は「あたらしい」と呼んでいる。ここが、この詩のいちばんおもしろいところだと思う。
「生理感覚」には「古い/あたらしい」の区別はないのだ。いつでも、その生理感覚が動いたときが「いま」。言い換えると、「東京ドドンパ娘」を実際に聞き、歌ったのは「過去」だが、それを思い出すとき、その「過去」は「いま」のなかにある。「いま」としてしか動かない。「あたらしく」生まれてきて、「あたらしく」動いている。あたらしく「なっている/なった」ということ。
このあたらしく「なった」と「坂になった」の「なった」が重なる。
そのあと、二連目は「寝そべる生理感覚」を言い直しているのだろうか。
ラーメンができあがるまで待っている感覚/食べる感覚から、食べ物の「連想」が暴走するのか。
この部分は、筏丸の特徴をあらわしていると思う。「東京ドドンパ娘」にも通じるのだが、ここには「個人的な論理」しか動いていない。
「新しい」「坂になった」。それは「生理感覚」を「つくろう(繕う)」ことによる「肉体」のよみがえりである、という具合に、何かをつくっていく、生み出していく「運動」ではない。
そこでは、ただあるときの「いま」が「いま」として独立して存在する。筏丸の「肉体」が「肉体」のまま「いま」存在し、そしてその「いま存在する」という実感のなかに読者を誘い込む。沖縄のラッキョウをどんなふうにして食べるかということは、ただ筏丸だけの問題である。しかし、それが筏丸だけの「肉体」の行為であるからこそ、あ、それを「いま」私もしてみたい、おいしそう、と思う。
この恍惚感、愉悦感というのは、一瞬、筏丸が「あたらしい 坂となった」ということを忘れさせる。だから、それは「逸脱」とも「脱線」とも「解体」とも呼ぶことができるのだが。あるいは、逸脱、断線しているからこそ、坂を解体し、言い直したものということができる。
そのあと、突然、
あ、「あたらしい 坂となった」と同じ「構文」が出てくる。
そうか、ラッキョウは筏丸の「生理感覚」をととのえていた(繕っていた)部分なのだと、ここでわかる。「生理感覚」のととのえ方(繕い方)次第で、筏丸は「坂」になったり「木」になったりする。「木にもなった」の「にも」は「坂にも」と言い換えることができるし、ほかの別なもの「にも」と言い換えることができる。
この「にも」は考えようによっては、いいかげんであるが、
うーん。「そういうふうに」か。「そういうふう」としか言いようのないことなのだ。「直立」と「よろめく」は何か「矛盾」した感じがする。「よろめく」と「確実」も「矛盾」した感じ。一方「直立」と「確実」は何かが共通している。「直立→よろめく→確実」「確実=直立(=確実)」がまじりあい、「直立(確実)→よろめく→確実(直立)」、あるいは「直立(確実)=よろめく=確実(直立)」と動いていく。
それは論理的(客観的)に、これはこういうことであると「区別」してはいけないことなのだろう。「区別(論理)」にこだわってはいけないことなのだろう。
ただ「そういうふうに」としか言いようがない。この「そういうふうに」は「そういうふうにも食べる」にも出てきているが、それは「そういうふうに」としか言いようがないのである。
ここから「そういうふうに」こそが筏丸の「キーワード」であるととらえ直し……。
「意味(論理)」に「分節」してしまうのではなく、「未分節」のまま「ある」、その状態としてつかみとるしかないのだろう。この「未分節」の「ある」から、「あたらしい 坂になる」「木にもなる」の「なる」ということが「生まれる」。「生まれる」から「あたらしい」のである--と、「分節/未分節」などと書きつづけると、「我田引水」が強くなってしまうので、ここでやめておく。
筏丸けいこ『モリネズミ』のなかから一篇を取り上げるなら、「いしだたみ」。
のぼってみた坂のうえは 平面で
私は あたらしい 坂となった
この二行がとても印象的だ。「私は あたらしい 坂となった」の「あたらしい」は何を言おうとしているのか。坂ではない「平面」が「肉体」のなかでのぼってきた「坂」を甦らせ、それを「あたらしい」と感じているのか。「肉体」のなかに坂という「あたらしい」記憶(感覚)をつくり出しているのか。あるいは、まだのぼりたりなくて、そこには存在しない「あたらしい」坂を「肉体」が欲しているのか。「あたらしい」坂をつくりだし、その坂をのぼるという「肉体」になっているのか。どちらの場合も、「なった」は「つくった」ということになる。
私は直感的に「なる」を「つくる」と読んでいた。しかし、この「つくる」は私が勝手に考えたことであって、筏丸は「つくる」とは言わずに、別のことばで「なる」を言い直している。
意気揚揚と全身が燃え上がる
望郷のはじまりは
地図の波線を つくろうということもなく
「東京ドドンパ娘」を歌いたかった 私だ
坂という生理感覚と
果てにあるものと
寝そべって 熱湯をそそぐ 現在なのか
「つくろう」。これは「造ろう/創ろう」ではなく「繕う」だろう。
「望郷」や「東京ドドンパ娘(古い歌)」といことばが、そういうことを思い起こさせる。「肉体」のなかにのこっている古いもの、おぼえているもの(生理感覚)を甦らせて、そのおぼえていることの奥にある「統一感」へ向けて全体を「繕う」。つまり、「ととのえる」。そうすると、その「全体」の感じと「坂」がどこかで似かよってくる。「望郷(過去をさそうもの)」の象徴として、「肉体」がおぼえてる「坂」が甦ってくる。いまのぼってきた坂ではなく、過去に坂を上ったときの感じが「あたらしい坂」になってよみがえってくる。そこに「あたらしく」坂を「つくる/生み出す」。
「私は あたらしい 坂となった」は
私は あたらしい生理感覚の 坂となった
あるいは
私は あたらしい 坂という生理感覚となった
「坂」と「生理感覚」、さらに「なる」と「つくろう/つくる」は入れ替え可能なものだと思う。
そして、その「生理感覚」を言い直したものが、「寝そべって」という肉体の動かし方につながる。坂を上る。つかれる。「肉体」がなんとなく「だらしない」感じを求める。それが「寝そべる」という動詞のなかで動いているように感じられる。
あるいは、「寝そべっている生理感覚」は「坂を上る」ときのように、「肉体」の一種の「停滞感覚」なのかもしれない。「坂を上る」というのは、筏丸にとっては、「熱湯をそそ」いだあとラーメンができあがるまで待っているような感じ、「肉体」になじんでしまっている感覚なのかなあ。
この「古い感覚/なじみきった感覚」を筏丸は「あたらしい」と呼んでいる。ここが、この詩のいちばんおもしろいところだと思う。
「生理感覚」には「古い/あたらしい」の区別はないのだ。いつでも、その生理感覚が動いたときが「いま」。言い換えると、「東京ドドンパ娘」を実際に聞き、歌ったのは「過去」だが、それを思い出すとき、その「過去」は「いま」のなかにある。「いま」としてしか動かない。「あたらしく」生まれてきて、「あたらしく」動いている。あたらしく「なっている/なった」ということ。
このあたらしく「なった」と「坂になった」の「なった」が重なる。
そのあと、二連目は「寝そべる生理感覚」を言い直しているのだろうか。
ラーメンができあがるまで待っている感覚/食べる感覚から、食べ物の「連想」が暴走するのか。
たっぷりのおかかをかけて醤油を一滴
沖縄のラッキョウは炒めて食べる
浅漬けのように塩でもんで
そういうふうにも食べる
この部分は、筏丸の特徴をあらわしていると思う。「東京ドドンパ娘」にも通じるのだが、ここには「個人的な論理」しか動いていない。
「新しい」「坂になった」。それは「生理感覚」を「つくろう(繕う)」ことによる「肉体」のよみがえりである、という具合に、何かをつくっていく、生み出していく「運動」ではない。
そこでは、ただあるときの「いま」が「いま」として独立して存在する。筏丸の「肉体」が「肉体」のまま「いま」存在し、そしてその「いま存在する」という実感のなかに読者を誘い込む。沖縄のラッキョウをどんなふうにして食べるかということは、ただ筏丸だけの問題である。しかし、それが筏丸だけの「肉体」の行為であるからこそ、あ、それを「いま」私もしてみたい、おいしそう、と思う。
この恍惚感、愉悦感というのは、一瞬、筏丸が「あたらしい 坂となった」ということを忘れさせる。だから、それは「逸脱」とも「脱線」とも「解体」とも呼ぶことができるのだが。あるいは、逸脱、断線しているからこそ、坂を解体し、言い直したものということができる。
そのあと、突然、
おもわぬなぐさめをあたえられると
私は 平然と 木にもなる
あ、「あたらしい 坂となった」と同じ「構文」が出てくる。
そうか、ラッキョウは筏丸の「生理感覚」をととのえていた(繕っていた)部分なのだと、ここでわかる。「生理感覚」のととのえ方(繕い方)次第で、筏丸は「坂」になったり「木」になったりする。「木にもなった」の「にも」は「坂にも」と言い換えることができるし、ほかの別なもの「にも」と言い換えることができる。
この「にも」は考えようによっては、いいかげんであるが、
坂という道と 木の思想と
私は直立したまま よろめく
執拗によろめいたまま 確実に そういうふうにもある
うーん。「そういうふうに」か。「そういうふう」としか言いようのないことなのだ。「直立」と「よろめく」は何か「矛盾」した感じがする。「よろめく」と「確実」も「矛盾」した感じ。一方「直立」と「確実」は何かが共通している。「直立→よろめく→確実」「確実=直立(=確実)」がまじりあい、「直立(確実)→よろめく→確実(直立)」、あるいは「直立(確実)=よろめく=確実(直立)」と動いていく。
それは論理的(客観的)に、これはこういうことであると「区別」してはいけないことなのだろう。「区別(論理)」にこだわってはいけないことなのだろう。
ただ「そういうふうに」としか言いようがない。この「そういうふうに」は「そういうふうにも食べる」にも出てきているが、それは「そういうふうに」としか言いようがないのである。
ここから「そういうふうに」こそが筏丸の「キーワード」であるととらえ直し……。
「意味(論理)」に「分節」してしまうのではなく、「未分節」のまま「ある」、その状態としてつかみとるしかないのだろう。この「未分節」の「ある」から、「あたらしい 坂になる」「木にもなる」の「なる」ということが「生まれる」。「生まれる」から「あたらしい」のである--と、「分節/未分節」などと書きつづけると、「我田引水」が強くなってしまうので、ここでやめておく。
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