詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ピーター・ボグダノビッチ監督「マイ・ファニー・レディ」(★★★★★)

2016-01-07 09:52:00 | 映画
監督 ピーター・ボグダノビッチ 出演 オーウェン・ウィルソン、イモージェン・プーツ、キャスリン・ハーン、クエンティン・タランティーノ

 懐かしいなあ、という感じがあふれてくる。ピーター・ボグダノビッチが懐かしいという意味だけではなく、何だろう、映像、テンポ、その他もろもろがなつかしい。映画って、昔はこうだったなあ。
 で、その「こうだった」の「こう」って何かというと。
 映画というのは(芝居というものもそうだけれど)、私はストーリーは見ていない。出てくる役者を見ている。その役者が好き、嫌い。ミーハーなのだ。出ている役者が好きになれば、その映画はいい映画。昔の映画は、まず役者を見せていた。
 どういうことか、を、この映画に沿って書くと……。
 冒頭、若い女優がインタビューを受けている。成功物語を語る。その話がそのまま「映画」として再現されるのだけれど、こう、他人の話を聞いているとわかることというのは、「ストーリー」以上に、その人の「人柄」がわかる。その人の過去がわかるというよりも、そのひとそのものがわかる。伝わってくる。「人柄」がわかるというのは、あ、このひとはこういうことを「する」ひと、というわかること。その「する」ことというのは「大切にする」ということ。何を大切にするかが「人柄」だね。自分にできないすごいことをやったり、ばかなことをやったりする。そういう「事件」に感動するよりも、こいうことを「大切にする」とこういうことをしてしまうのか、とわかって感動することって多くない? これを私は「人柄」に感動すると言うのだけれど。
 ここでこんな例を出すのは変かもしれないけれど、昨年ノーベル賞を取った大村さん。「実績」そのものに対する「客観的評価」は知識のない私にはできないから、ただノーベル賞受賞はすごいと思うだけだけれど、そのあと新聞などで紹介された「人柄」には感嘆してしまう。稼いだ金でふるさとに美術館をつくって絵を寄贈したり、となりに蕎麦屋をつくったり、アフリカへ行って子どもたち交流し、子どもたちが失明せずにすんでいるのを確かめ喜んでいる姿を見ると、あ、素晴らしい人だなあと「わかる」。自分にできることで、他人と幸せを分かち合いたいと思い、それを実践していることがわかる。人柄がわかり、感動してしまう。むずかしいことはわからなくても、「人柄」というのは、その人を見れば「わかる」。「人柄」への感動というのは、何か「直接的」なものだ。「客観的評価」とは別なものだ。
 で、映画。
 インタビューって、「人柄」がそのまま、わかる。(映画だから、わかるように工夫して撮っているのだけれど。)女優の方は、自分をさらけだすタイプ。他人を批判しない。(女優は映画のなかで、一度も他人を批判していない、ジャッジしていない、と思う。)こうやって生きている。それで幸せ、という感じが、なんら構えるところなく出ている。他人がどう見るかは気にしない。だから、少し「バカ」にも見える。これに対し、インタビューをするひとは冷徹な感じ。こういうふたりを比べると、どうしたって女優の方が「人柄」がいい。他人を尊敬している、他人に感謝しているという生き方がとてもやわらかな感じで出ている。そう感じる。
 この「他人を尊敬する、批判しない人柄」がいろいろな男をひきつけ、そこから「どたばた」がはじまる。その「どたばた」をいちいち書いてもしようがないので書かないが。おもしろいのが、映画のなかの「芝居」。女優の生活そっくりの女が主役の「芝居」なのだが。
 そのオーディションとけいこのシーンがおもしろい。「実生活」そっくりの状況なので、そこでは「芝居」というよりも「現実」が出てしまう。なまの「人柄」そのものが舞台のうえで展開する。「役」であることを忘れて、その人を見てしまう。逆に言えば、真に迫る演技になる。「役」のなかにそのひとがいる、とはっきりわかる。「役」なのに、この人はこういう人なんだ、こう感じるんだという具合に、錯覚する。
 極端な話、「ローマの休日」を見て、そこにある国の王女の姿が描かれているなんて、誰も思わない。あ、オードリー・ヘップバーンはかわいい。清らかだ。いいなあと、心底思う。それがオードリーのほんとうの「人柄」かどうかはわからないけれど、それがオードリーの「人柄」だと思い、観客はオードリーが好きになる。
 これは、「役者」が美人とか美男子、あるいは「役」が善人であるとかということとはあまり関係がない。美人じゃなくても、悪人でも、ひかれてしまう。悪人(殺人者)であっても、味方し、はらはらしてしまう。「人柄」を「納得」してしまうんだなあ。
 こういう「人柄」は「どたばた」の方が、なんといえばいいのか、笑いながら近づけるので気持ちがいい。安心して「人柄」を好きになれる。
 現実の生活(といっても「映画」だけれど)と舞台のうえでの、男と女の「浮気/嫉妬/よりを戻す」の関係がからみあうことで、それは「ストーリー」ではなく、「人柄(なまの感情)」のぶつかりあいになる。「演技(役)」のはずなのに、登場人物の「実生活/実感」になってしまう。「役」を見るのではなく「役者」の存在そのものを見てしまう。「人間そのもの」を見ている感じになる。「ストーリー」を瞬間的に忘れる。
 これが、くすぐったいくらい、なつかしい。
 観客は(ミーハーな私は)、いつでも「ストーリー」ではなく、役者の「実生活」を映画や芝居で見てしまう。ほんとうは違う「実生活/感情」かもしれないけれど、この役者は「こう感じるんだ」と思い込んで、その役者を「好き」になる。
 いまの映画は、役者は「ストーリー」の操り人形。役者の「人柄」なんて関係がなく、CGの映像があるだけ。
 だから、もしかすると、その反動で「おもしろい」と感じすぎているのかもしれないけれど、いやあ、うれしい映画だなあ。ニューヨークの街並み、ブロードウェイも、映画とは思えないくらいあったかい。手触り感がある。アメリカ映画の緑は私は好きになれないが、この映画ではきらきらと美しかったなあ。音楽も、古いジャズという感じで、そこにやっぱり「人柄」が出ている。
 ピーター・ボグダノビッチは「ラストショー」「ペーパームーン」以来だと思うけれど、まだ生きていたんだね。映画をつくっていたんだね。うれしいなあ。なつかしいなあ。
 クエンティン・タランティーノが最後にちょっと出てきて、そういうのもうれしい。タランティーノってボグダノビッチが好きだったのか、知らなかった、なんて思ったりした。
 あ、映画に何度も出てくる「リスに胡桃(ナッツ)をやる人がいる。ナッツにリスをやるのもいい」という台詞。後半の「ナッツ」は「バカ(頭が軽い?)な人」という意味? 実際、リスの縫いぐるみをやるシーンが出てくるけれど、あれって、「あなたってバカね、でも大好きよ」って意味かなあ。私もほしいなあ、あのリス、なんてことも思ったりした。「人間はみんなバカ。でも、バカと非難するのをやめれば、みんな大好きになれる」。それが「ハッピーエンディング」ということだね。
                      (KBCシネマ2、2016年01月06日)




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