詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透「距離」

2016-01-03 10:10:27 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「距離」(「現代詩手帖」2016年01月号)

 北川透「距離」は「距離・錯乱・傾き」というタイトルのうちの一篇。「一篇」ではなく「一部」かもしれないが、私は気にしないで、「一篇」として読む。
 その一連目。

チェ・ゼモックは言った
わたしという形式は傷だ と
わたしはわたしにたどりつけない
わたしは距離だから
距離は傷だ
あなたとわたしを隔てる海は傷だ

 これを読んだとき、起きたこと。
 二行目「わたしという形式は傷だ」と言ったのは「チェ・ゼモック」。しかし、三行目からは? 誰が言った? チェ・ゼモックが言った?
 それとも北川が考えた?
 つまり、三行目の「わたし」はチェ・ゼモックなのか、北川なのか。
 「文法的」には、どちらの読み方も成り立つと思う。
 で、そのとき、私に起きたことというのは、実は、いま書いたこととはまったく逆のこと。私は三行目以下を読むとき、それがチェ・ゼモックのことばか、北川のことばか、ということを完全に忘れていた。チェ・ゼモックが消え、北川も消えていた。
 「わたしという形式は傷だ」と断定するそのことばそのもの、ことばの運動に巻き込まれて、それが誰のことばであるか、考えなくなった。

わたしという形式は傷だ

 えっ、これって、どういうこと?
 その「疑問」が、それを言ったのがチェ・ゼモックであることを忘れさせる。だから、そのあと、三行目から登場する「わたし」が「誰」であるかを忘れてしまう。
 そのことばが、いったい何を表現しようとしているのか、そのことだけが気になる。
 「傷」というのは「比喩」である。
 チェ・ゼモックは「比喩」でしか言えない何かを言おうとしている。北川は「比喩」でしか言えない何かについて考えようとしている。「ふたり」は「共犯者」のように、そのことばのまわりで動いている。
 三行目以下は、誰が言ったことば(誰が考えたことば)であるにしろ、「わたしという形式は傷だ」ということの「言い直し」である。「わたしという形式は傷だ」では言い切れないことを、何とか言おう(考えよう)としている。
 で、

わたしはわたしにたどりつけない

 ここに「わたし」が「ふたり」登場する。「わたし」と「わたしではないわたし」。あるいは「わたしではないわたし」と「わたし」。最初に書かれている「わたし」はどっちなのか。わからない。たぶん、特定できない。どっちも「わたし」であり、また「わたしではないわたし」なのだ。
 この「矛盾」のようなあり方(形式)が「傷」。それは「傷」と、とりあえず呼んでつかみとるしかない何か。
 そして、「わたし」が「ふたり」いるということは、その「ふたり」は「分離している」のだから、そこには「隔たり/距離」がある。「ふたり」を「チェ・ゼモック」と北川と考えると「隔たり/距離」が「物理的」に見えてくるが、私はそうではなく、あくまで「わたし」「わたしではないわたし」と読む。
 この「ふたり」の関係が、「わたしは距離だ」と言い直す。
 言い直された「距離」は、「傷」を言い直したものでもある。
 ここには「三段論法」がある。「論理」の「算数」がある。
 「わたしという(形式)は傷だ」、「私は距離だ」、だから「距離は傷だ」。
 私は「三段論法」が「好き」なわけではないが、この「三段論法」の有無を言わさないスピード、暴力的なリズムというのは「好き」だなあ。「論理」というのは私の考えでは、どこかにかならず「間違い(誤り)」があるのだけれど、その「間違い(誤り)」を考えさせてくれないスピードが、なんとも言えず快感なのである。錯乱できる喜びが、そこにひそんでいる。それに酔ってしまう。
 というようなことは「脱線」?
 詩にもどると、その「三段論法」のあと、突然「あなた」が出てくる。
 誰? この「あなた」は誰? 「あなた」は詩を書いている北川ではない人間、「チェ・ゼモック」と考えると「関係」がわかったような錯覚に陥ってしまうが、何か、違うなあと私は感じる。やっぱり「わたし」と「わたしではないわたし」としか言いようのない関係なのだ。(「あなた」ということば、異質なことばが、「海」というちょっと抒情的なことばに結晶している、とも一瞬感じたが、これは書くと長くなるので省略。)
 「わたし」と「わたし」、「わたし」と「わたしではないわたし」、あるいは「わたしではないわたし」と「わたし」の間には「距離」があった。つまり「隔てられていた」。それがここでは「あなた」と「わたし」と言い換えられて、さらに「距離」という名詞は「隔てる」という「動詞」で言い直されている。
 うーん。
 「たどりつく/たどりつけない」という「動詞」、「隔てる」という「動詞」が「距離」を明確にしようとしている。
 で、その「距離」が「海」と言い換えられ、「傷」と呼ばれる。「海」と「傷」は同じものを、別なことばで言ったものである。
 えっ?
 同じものを別なことばで言うことがある?
 あ、「比喩」は、そういう表現行為だなあ。
 でも、どっちが「比喩」?
 「海=隔てる(距離)=傷」。このイコール(=)は、ほんとうにイコールなのか。違うんじゃないのか。
 「違う名詞」なのにイコールなのは、「名詞」ではなく、ほかのものがイコールなのではないだろうか。
 ほかのものって?
 私は、ここで「動詞」を考える。

 「たどりつけない」という動詞がこの詩のキーワードではないだろうか。
 「たどりつけない」というのは、しかし、「動詞」ではない。「動詞」としては「たどりつく」という形、「たどる」と「つく」という「動詞」があるだけである。「たどりつけない」は「状態」、「たどりつこうとしている」途中の「状態」。この「状態」をチェ・ゼモックは「形式」と呼んだのではないだろうか。
 「たどりつく/たどりつけない」という「動詞」の「間=隔たり/距離」に結びつく形で「わたし/わたしではないわたし」が結びついている。「肯定/否定」の強い結びつき、はやりのことばで言えば「分節されない状態」が、ここでは「比喩」として書かれていることになる。
 この「分節されない状態/状況/事故存在のあり方」が、あまりにも鮮烈に書かれているので、それを言った(考えた)のがチェ・ゼモックなのか北川なのか「区別できない」。つまり「分節」させてとらえることができない。
 この「未分節」に、私は強く引きつけられた。
 この私の感情(心理?/精神?)を「好き」ということばで言っていいのかどうか、よくわからないが、あ、いいなあ、このことばの強い結びつき、「好きだなあ」と感じたのである。強い結びつきを何とか揺り動かし、解体し、整理し直して、もう一度自分自身のものとして組み立てなおそうとする暴力的な(力業的な)ことばがカッコいいと思ったのである。

 二連目以降は「傷」が「海」と言い換えられている。「海は傷だ」というのが一連目の最後の「断定」だが、二連目以降は「傷は海だ」と言い換えられた上で、ことばが動いている。「海は傷だ」を「傷は海だ」と入れ換えて言い直されている。あるいは「身体(わたし)は海だ/海は身体だ」と入れ替わりながら動く。
 「わたし/わたしではないわたし」が入れ替え可能なように「海/傷」も入れ替えが可能なのだ。「わたし/あなた」「あなた/わたし」も、そのとき入れ替わるのだ。

永遠は地平線で腐乱している
身体は流れ波立ち
時に沖まで干上がるかと思うと
激しく打ち返す打楽器となる
身体は深い振動数の秘密だ
身体は利己的で貪欲で素晴らしい豚だ

 この二連目では「傷」は「腐乱している」と言い直されている。傷ついている肉体は「腐乱する」。「腐乱/腐乱する」には汚いイメージ、否定的なイメージがつきまとう。そういう汚れをはねのけるようにして突き進むことばの強さ、暴力的な輝きもいいなあ。そして、その「腐乱する」という否定的な動詞、変化しつづける流動性から見つめなおすと「形式(定まったもの)」は「永遠(定まったも/不動のものの)」と言い直されていることになる。「地平線」は「距離」を言い直したものだろう。
 これは、別々のことばで書き分けられているが、方便である。「永遠」を「傷」と読みかえ、「形式」を「腐乱している」という「動詞」で読み替えることもできるはずである。いや、そうしなければ、詩を読んだことにはならないだろう。「分節」されている「とば」を「未分節」に戻しながら、そこに動いているものをつかみとらないといけない。
 二行目に出てくる「身体」は「わたし」を言い直したものと読むことができる。「わたし」は「わたし/わたしではないわたし」という存在(形式)であったから、それは「安定」していない。つまり「流れ/波立つ」。とまることを知らず、不安定である。それが「海」の「あり方」と重なる。
 この「波」から「打ち返す」という「動詞」が呼び出され、「打ち返す」から「打楽器」が呼び出され、「打楽器」から「振動(数)」が呼び出される。それは、とりあえずそう呼ばれているだけであって、やはり「入れ換え可能」な存在であり、入れ換えながら読まないといけないのだと思う。「貪欲」と「豚」も「貪欲=豚」であると同時に「豚=貪欲」と読み替えることで「身体」がいっそう「動く」。肉体に存在が密着し、豚や貪欲になった気持ちになる。「形式」は「状態」であると同時に「動詞」としてそこに動いていることがわかる。
 このあと、三連目、さらに「波」から「波動」「突き崩す」「犯す」というような「動詞」の展開があるのだが、長くなるので端折って、四連目。

距離は定まることのない運動だ
錯綜する波線を描くわたしの位置が
おだやかな円を形成する時
身体の死が訪れる
おごりたかぶる傷はドブに落ち
痛みを看板に書く手は溺死する

 「距離は定まることのない運動だ」は一連目に戻って言えば、「わたし/わたしではないわたし」の分節できない(さだまらない)「形式」が、「たどりつけない」という「距離」を呼び覚ますということだろう。
 「わたし(身体)」とは「運動」である。つまり「動詞」である、と読むのは、まあ、私の強引な「誤読/我田引水」なのだろうけれど、この「我田引水/誤読」が「好き」ということなのだから、仕方がない。
 激しい運動(動詞)こそが「生きる/生」であり、運動が終わって「円」という「形式」になってしまっては、それは「死」にすぎない。「死」にたどりついてしまえば「傷」は単なる「痛み」の表象である。
 うーん……。
 でも、こう読んでしまっては、何かおもしろくない。
 「意味」になりすぎる。
 で。
 私は、実は、この四連目が「嫌い」である。
 私は北川のことばの過激なスピード、暴力/暴走が「好き」なのだ。暴力/暴走は「乱れる」ものだが、北川の暴力には鍛えられた強さ、文体の美しさがある。それがカッコいい。そのカッコよさのなかで「たどりつけない」という動詞をとおって「わたし/チェ・ゼモック/北川」が自在に入れ替わる。その自在な入れ替わりに、私(谷内)の肉体が巻き込まれていく。北川が書いていることばなのに、北川が書いているということを忘れ、このことばの運動の先に、私は何を考えることができるか。このことばを自分のことばとして、どうやって引き受けながら動かしていくことができるか、と考えはじめてしまう。
 セックスしている感じ。他人の「肉体」なのに、自分の「肉体」と思い込んで、どうすればもっと感じる? もっと興奮できる? もっと忘我になれる? このまま、自分からでて行ってしまう(エクスタシー)には、どうすればいい?
 なのに……。一連目、二連目と興奮して読んできたのに、その興奮が冷めてしまった感じがする。
 「意味」が、これは「あなた(谷内)」のことを書いているのではなく、北川が書いているのです、と私(谷内)を突き放す。
 私の「読み方」は間違っていて、ほかに「正しい読み方」があるのかもしれないが、それはいまの私にはわからない。つかみとれない。だから自分の無知をそのままにして、「嫌い」と開き直る。(あ、無知と言えば……「チェ・ゼモック」が誰なのか、私は知らない。調べることもしなかった。)
 きのう私は、今年はいままでよりももっとわがままに感想を書くと「宣言」したのだが、その「わがままな感想」の第一弾が、きょうの日記ということかな。


なぜ詩を書き続けるのか、と問われて
北川透
思潮社

*

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