詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木正枝『そこに月があったということに』

2016-11-01 09:55:00 | 詩集
鈴木正枝『そこに月があったということに』(書肆子午線、2016年10月31日発行)

 鈴木正枝『そこに月があったということに』は読み始めてすぐに引き込まれる。巻頭の「隠し事」という作品。

からだの中に
くぬぎの枯葉がほろりと落ちた
実をひとつ連れて
捨てずに
毎日持ち歩いている

 実景だろうか。比喩だろうか。「からだの中に」をどう読むかで違ってくる。「からだの中に/くぬぎの枯葉がほろりと落ちた」と読むと心象風景になる。つまり、比喩に。でも、そのときの比喩とはなんだろう。「くぬぎの枯れ葉」が比喩なのか。「落ちた」が比喩なのか。あるいは「からだ」が比喩なのか。
 「からだの中に」くぬぎの実を「毎日持ち歩いている」の場合も比喩として読むことができる。でも「持ち歩く」という動詞が「落ちた」に比べると「肉体」そのものの動きを伝えるので、同じ比喩でも何かが違う。心象風景というよりも、肉体風景という感じ。肉体風景ということばはないけれど、そういう「造語」をつかってみたくなる。
 「からだの中に/くぬぎの枯れ葉がほろりと落ちた」は、たぶん「こころの中に」である。それが「こころの中」のことだから「心象風景」。「落ちる」の「主語」は「くぬぎの枯れ葉」。一方「持ち歩いている(持ち歩く)」の場合は、「主語」を「こころ」ということもできるが、どちらかというと「からだ(肉体=私)」という感じ。「くぬぎの実」は「主語」にはなれない。だから、肉体が主語の風景=「肉体風景」。
 「主語」になるものと、「主語」になれないものが交錯し、「動詞」がそれにあわせてするりと入れ代わっている。「こころ」としてではなく、「肉体」を動かす感じで「主語」がするりと入れ代わり、「動詞」を動かしているのかもしれない。
 はっきり、区別ができない。それなのに、そこに書かれていることが、「非現実」ではなく「現実」として迫ってくる。肉体の実在感、論理にしなくても存在する(存在ししまう)肉体の力。比喩とか、象徴とか、識別しようとするとわけがわからないが、そういう「全体」が「論理」を超えて迫ってくる。
 二連目では「からだ」が「家」になる。

あの遠い町の傾いた空家にも
忍び込んだ同じ実がある
揺らぐ影のように芽をふいて
一本の木になった
柔らかい緑は難なく腕となり首となり
かって生きていた人の代わりに
ひとり立っている 家の中に

 ここでは「主語」は「人間の肉体(私)」ではない。「くぬぎの実」が「主語」であり、それが「人間の肉体(私?)」に変身していく。「くぬぎの実」が「木になる」ことは変身ではなく成長だが、「人の代わりに/ひとり立っている」のだから、比喩として、「人」になっている。「人間」に変身しているということになる。そのとき、だから「一本」は「ひとり」という具合に数え方も変わる。そして、その「木」と「人」という違った「主語」が「立っている(立つ)」という動詞で「ひとつ」になる。
 この「ひとつ」という感覚は、「同じ実」の「同じ」へと引き返していく。一連目の「からだの中に」落ちたくぬぎの実。それが「遠い町」(ふるさと)の「空家」(生家)のなかで育ち、人になる。人の代わりに育っている。
 このとき「木」は譬喩か。象徴か。ここに描かれているのは「心象風景」ということになるか。そう考えるのが、いちばん論理的というか、論理の経済学にあっているのだろうけれど、「主語」と「動詞」の揺らぎ、揺れながら「ひとつ」になって、「ひとつ」になることで「主語」を分裂する(ふたつになる?)感じが、とても微妙で「論理化」しにくい。「論理」にせずに、つまり「事実」を相対化して特定するのではなく、これはこのまま、そのようにしてあるものとつかみとればいいのだろう。つかみとるしかないものなのだろう。
 「論理化」をやめると、そこに、また新しい何かが入り込んでくる。何かが全体を突き動かし始める。

今 秋の枯葉が降っているだろうか
外にも内にも
降って降って封じ込める
身勝手な過去が逃げ出さないように

夏には日陰を
冬には日向を歩いて
からだのなかの実を育ててきた

 三連目は二連目を引き継いで「遠い町」の「空家」のなかのくぬぎの木。ただし「外にも内にも」が、その木を「空家」のなかにある風景を、外へも広げる。四連目は「空家」のなかのくぬぎではない。「からだのなか」と一連目のことばを引き継いでいる。「からだ」と「家」は、木を育てる(木が育つ)場として「ひとつ」に重なり、入れ代わる。
 「木」は枝を広げるが、「逃げ出せない」「歩けない」。人間は「逃げ出す」ことができる。「歩く」ことができる。木と人の入れ代わりのなかで、可能と不可能が、交錯する。その交錯は「苦悩」とか「悲しみ」という比喩であり、象徴である。
 最終連。

あのひとと同じ形をとって
木になりたいとでもいうのか
と詰問する 私に
否と反論する 私は
ただあの家のあの木が愛おしいだけ
あの時も今も
遠すぎる距離が淋しいだけ

 突然出てくる「あのひと」とは誰だろうか。父だろうか。母だろうか。鈴木が女性なので(たぶん)、私は同じ性の母だろうと想像するが、あるいは「自分」そのものかもしれない。少なくとも「あのひとと同じ形をとって/木になりたいとでもいうのか」というとき、そこには「自分」が強く反映されている。ほとんど「自分」の姿として「あのひと」を見ている。
 そこには「同じ」と「否/否定/反論」がある。「ふたつ」のものが「ひとつ」になっている。「あの」とした呼べないものになっている。
 このことばの運動のあり方は、一連目から最終連まで続いている。そして、その相反することを「愛おしい」と呼び、同時に「淋しい」とも呼ぶ。「からだ」と「くぬぎ(実/木/枯葉」は別の名前で呼ばれる存在。「家」と「木」、「母」と「私」も別の名で呼ばれる存在。しかし、「あの」と呼ばれて、重なり合う。互いの比喩、互いの象徴となって、「ひとつ」になる。「ひとつ」になるという動きのなかで、また、「ふたつ(別の存在)」であることも意識される。

 こんなふうに、ややこしく、めんどうにしてしまってはいけないのかもしれない。私の書いたことは、ことばにしてしまうと長くなるが、感じるのは「一瞬」のこと。一瞬の内に、「ふたつ」が「ひとつ」になり、「ひとつ」が「ふたつ」になる。「実景」が「心象」になり、「心象」が「記憶という現実」になり、その「現実」が「感情(愛おしい/淋しい」)」になる。
 そういう「一瞬」という「永遠」が、この詩にはある。この詩集にはある。
 あすも、このつづきを書いてみる。(つもり。)


そこに月があったということに
鈴木正枝
書肆子午線
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千人のオフィーリア(メモ7)

2016-11-01 01:44:14 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ7)



階段を降りていく禿げ頭を見ていた
階段を上がって来る禿げ頭を見ていた

純粋だったのはどっちのオフィーリア?
禿げ頭と罵った方?

禿げ頭から何を思い出すかによるわね。
眼鏡の縁が上から見えたわ。耳のゆがみも。

私は頽廃の頽という字を思い出しちゃうの。
それから倦怠の怠の音も。

えっ、
それって何?

階段の禿げ頭には聞こえている
ふたりのオフィーリア声が。
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