佐藤裕子「花かと思えば」(「YOCOROCO」8、2016年10月15日発行)
佐藤裕子「花かと思えば」には何が書かれているか。「意味」を要約するのはむずかしい。
「主語」と「動詞」がわからない。わかるのは、佐藤がこのことばを書いたこと。そこから、私は「主語」は佐藤であり、「動詞(述語)」は「書く」であると考えてみる。ことばのなかに「主語」と「述語」があるのではなく、ことばの外にある。何事かを目撃し、ことばにする。「書かれたことば」ではなく「書く行為」に詩がある。
こんな「定義」は何の役にも立たないのだが、ある詩に引かれるというのは、結局こういうことだろうなあ。
「意味」は、でっちあげようとすればでっちあげられる。
たとえばこんなふうに。
「死蝋」「虫食い穴」「(裂かれる)闇」「漆黒」、あるいは「静止(画像)」ということば。その周辺に「崩れる」「囚われる」「薄れる」という動詞がある。それは「死」によって統一される。一方、それとは反対に「更新する」「素早い」「勢い」「跳躍する」ということばもある。「死/静止」に向かって統一されるイメージと、それを破っていくエネルギーがぶつかっている。そうした「場」のありようを「生きる」ととらえている。「死」を見つめながら、「死」を突き破っていこうとする何かが「出口」ということばに「象徴/昇華」されている。
何か「意味」ありそうに見えてくるでしょ?
でも、私の書いた「意味」は私が「捏造」、あるいは「誤読」したものであって、佐藤が書いている「意味」とは関係がない。
ことばというのは、どうしても「論理/意味」になってしまう。私たちが「意味/論理」に頼っているのだ。
「意味/論理」が「成立」したなら、それはどこか「間違っている」と私は考える。
と、書いてしまうと、では何のためにこの作品は書かれている? 佐藤は何がいいたくて、この作品を書いた? という疑問が出てくるかな。
ここから、私は最初にもどる。
「意味」ではなく、「書きたい」から書いている。佐藤という人間がいて、「書く」という「述語(動詞)」があるだけなのだと思う。「書く」という「述語/動詞」がもっている「熱」のようなものを、「いいなあ」と思う。「いいなあ」と感じたといえばそれですむところを、かなりごまかして、「意味」を「捏造」して、それを「批評」と言ったりしている。
「意味」ではなく「書く」という「述語」への「共感」がある。読むと、「書く」ということへの「共感」が揺さぶられる。そういう作品を、ひとは「いいなあ」と言う。「あ、こんなふうに書いてみたかった」というのが「正直」な「感想」になるのだと思う。
ごちゃごちゃとうるさいことを書いたが……。
この一連で私が傍線を引いたのは、二行目。
目のなかにある「覗き窓」。目のなかに目がある。それは隠れている。目で何かを見ながら、奥から違うものを見ている。この目の「動き」に、ふいに「肉体」を感じた。人間は、たしかに、そういう「見る」という「動き」をする。
笑顔を見せながら、冷酷に別なことを判断している。憎しみを隠して、次に何をするかを考えている。矛盾したことを同時にしてしまう人間の「肉体」。
佐藤は、そういう「肉体」を書こうとした(意味にしようとした)ということではない。私がかってにそう感じた。「誤読」したということ。私のなかで動いていなかった「肉体」が佐藤のことばによって何かを思い出し、我を忘れて動いた。私の肉体の奥に隠れていたものを動かす力がある、だから、おもしろい、あ、いいなあと思った。
二連目の「時時左右は入れ替わり」「口許で息を思い出す」にも「肉体」を刺戟された。「左右は入れ替わり」というのは「対象」が入れ替わるととらえるのが一般的なのだろうけれど、見た瞬間、自分の「肉体」の内部こそ左右が入れ替わる。「口許で息を思い出す」という時の「口」は相手の口であると同時に自分の口。対象と自己との区別がなくなる。融合する。「肉体」が「内部」から動かされる。私が佐藤になってしまったと「誤読」する。こういう瞬間が、私は好き。
佐藤裕子「花かと思えば」には何が書かれているか。「意味」を要約するのはむずかしい。
水もなく生きるもの
死蝋化した低空飛行羅列次第で風体を変え産毛を更新する
折り畳まれた目の中には崩れそうな覗き窓がひとつフッと
虫食い穴が動く素早い蛇行に振れる軌跡は波打つ尾を引き
裂かれる闇を見る泳ぐ点を見ていた勢いに囚われ静止画像
漆黒は薄れ擦れ灰の微粒子を抜け振幅を開き跳躍する出口
「主語」と「動詞」がわからない。わかるのは、佐藤がこのことばを書いたこと。そこから、私は「主語」は佐藤であり、「動詞(述語)」は「書く」であると考えてみる。ことばのなかに「主語」と「述語」があるのではなく、ことばの外にある。何事かを目撃し、ことばにする。「書かれたことば」ではなく「書く行為」に詩がある。
こんな「定義」は何の役にも立たないのだが、ある詩に引かれるというのは、結局こういうことだろうなあ。
「意味」は、でっちあげようとすればでっちあげられる。
たとえばこんなふうに。
「死蝋」「虫食い穴」「(裂かれる)闇」「漆黒」、あるいは「静止(画像)」ということば。その周辺に「崩れる」「囚われる」「薄れる」という動詞がある。それは「死」によって統一される。一方、それとは反対に「更新する」「素早い」「勢い」「跳躍する」ということばもある。「死/静止」に向かって統一されるイメージと、それを破っていくエネルギーがぶつかっている。そうした「場」のありようを「生きる」ととらえている。「死」を見つめながら、「死」を突き破っていこうとする何かが「出口」ということばに「象徴/昇華」されている。
何か「意味」ありそうに見えてくるでしょ?
でも、私の書いた「意味」は私が「捏造」、あるいは「誤読」したものであって、佐藤が書いている「意味」とは関係がない。
ことばというのは、どうしても「論理/意味」になってしまう。私たちが「意味/論理」に頼っているのだ。
「意味/論理」が「成立」したなら、それはどこか「間違っている」と私は考える。
と、書いてしまうと、では何のためにこの作品は書かれている? 佐藤は何がいいたくて、この作品を書いた? という疑問が出てくるかな。
ここから、私は最初にもどる。
「意味」ではなく、「書きたい」から書いている。佐藤という人間がいて、「書く」という「述語(動詞)」があるだけなのだと思う。「書く」という「述語/動詞」がもっている「熱」のようなものを、「いいなあ」と思う。「いいなあ」と感じたといえばそれですむところを、かなりごまかして、「意味」を「捏造」して、それを「批評」と言ったりしている。
「意味」ではなく「書く」という「述語」への「共感」がある。読むと、「書く」ということへの「共感」が揺さぶられる。そういう作品を、ひとは「いいなあ」と言う。「あ、こんなふうに書いてみたかった」というのが「正直」な「感想」になるのだと思う。
ごちゃごちゃとうるさいことを書いたが……。
この一連で私が傍線を引いたのは、二行目。
折り畳まれた目の中には崩れそうな覗き窓がひとつフッと
目のなかにある「覗き窓」。目のなかに目がある。それは隠れている。目で何かを見ながら、奥から違うものを見ている。この目の「動き」に、ふいに「肉体」を感じた。人間は、たしかに、そういう「見る」という「動き」をする。
笑顔を見せながら、冷酷に別なことを判断している。憎しみを隠して、次に何をするかを考えている。矛盾したことを同時にしてしまう人間の「肉体」。
佐藤は、そういう「肉体」を書こうとした(意味にしようとした)ということではない。私がかってにそう感じた。「誤読」したということ。私のなかで動いていなかった「肉体」が佐藤のことばによって何かを思い出し、我を忘れて動いた。私の肉体の奥に隠れていたものを動かす力がある、だから、おもしろい、あ、いいなあと思った。
古い反物を走らせる
湧き上がった金粉両眼を滑らせると時時左右は入れ替わり
装着したレンズは何処の物とも知れず飛翔の球体360度
色彩の飛来が始まり目蓋に翳し訝しげ口許で息を思い出す
二連目の「時時左右は入れ替わり」「口許で息を思い出す」にも「肉体」を刺戟された。「左右は入れ替わり」というのは「対象」が入れ替わるととらえるのが一般的なのだろうけれど、見た瞬間、自分の「肉体」の内部こそ左右が入れ替わる。「口許で息を思い出す」という時の「口」は相手の口であると同時に自分の口。対象と自己との区別がなくなる。融合する。「肉体」が「内部」から動かされる。私が佐藤になってしまったと「誤読」する。こういう瞬間が、私は好き。