詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐藤裕子「花かと思えば」

2016-11-21 10:49:30 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤裕子「花かと思えば」(「YOCOROCO」8、2016年10月15日発行)

 佐藤裕子「花かと思えば」には何が書かれているか。「意味」を要約するのはむずかしい。

水もなく生きるもの
死蝋化した低空飛行羅列次第で風体を変え産毛を更新する
折り畳まれた目の中には崩れそうな覗き窓がひとつフッと
虫食い穴が動く素早い蛇行に振れる軌跡は波打つ尾を引き
裂かれる闇を見る泳ぐ点を見ていた勢いに囚われ静止画像
漆黒は薄れ擦れ灰の微粒子を抜け振幅を開き跳躍する出口

 「主語」と「動詞」がわからない。わかるのは、佐藤がこのことばを書いたこと。そこから、私は「主語」は佐藤であり、「動詞(述語)」は「書く」であると考えてみる。ことばのなかに「主語」と「述語」があるのではなく、ことばの外にある。何事かを目撃し、ことばにする。「書かれたことば」ではなく「書く行為」に詩がある。
 こんな「定義」は何の役にも立たないのだが、ある詩に引かれるというのは、結局こういうことだろうなあ。

 「意味」は、でっちあげようとすればでっちあげられる。
 たとえばこんなふうに。
 「死蝋」「虫食い穴」「(裂かれる)闇」「漆黒」、あるいは「静止(画像)」ということば。その周辺に「崩れる」「囚われる」「薄れる」という動詞がある。それは「死」によって統一される。一方、それとは反対に「更新する」「素早い」「勢い」「跳躍する」ということばもある。「死/静止」に向かって統一されるイメージと、それを破っていくエネルギーがぶつかっている。そうした「場」のありようを「生きる」ととらえている。「死」を見つめながら、「死」を突き破っていこうとする何かが「出口」ということばに「象徴/昇華」されている。
 何か「意味」ありそうに見えてくるでしょ?
 でも、私の書いた「意味」は私が「捏造」、あるいは「誤読」したものであって、佐藤が書いている「意味」とは関係がない。
 ことばというのは、どうしても「論理/意味」になってしまう。私たちが「意味/論理」に頼っているのだ。
 「意味/論理」が「成立」したなら、それはどこか「間違っている」と私は考える。
 と、書いてしまうと、では何のためにこの作品は書かれている? 佐藤は何がいいたくて、この作品を書いた? という疑問が出てくるかな。
 ここから、私は最初にもどる。

 「意味」ではなく、「書きたい」から書いている。佐藤という人間がいて、「書く」という「述語(動詞)」があるだけなのだと思う。「書く」という「述語/動詞」がもっている「熱」のようなものを、「いいなあ」と思う。「いいなあ」と感じたといえばそれですむところを、かなりごまかして、「意味」を「捏造」して、それを「批評」と言ったりしている。
 「意味」ではなく「書く」という「述語」への「共感」がある。読むと、「書く」ということへの「共感」が揺さぶられる。そういう作品を、ひとは「いいなあ」と言う。「あ、こんなふうに書いてみたかった」というのが「正直」な「感想」になるのだと思う。

 ごちゃごちゃとうるさいことを書いたが……。
 この一連で私が傍線を引いたのは、二行目。

折り畳まれた目の中には崩れそうな覗き窓がひとつフッと

 目のなかにある「覗き窓」。目のなかに目がある。それは隠れている。目で何かを見ながら、奥から違うものを見ている。この目の「動き」に、ふいに「肉体」を感じた。人間は、たしかに、そういう「見る」という「動き」をする。
 笑顔を見せながら、冷酷に別なことを判断している。憎しみを隠して、次に何をするかを考えている。矛盾したことを同時にしてしまう人間の「肉体」。
 佐藤は、そういう「肉体」を書こうとした(意味にしようとした)ということではない。私がかってにそう感じた。「誤読」したということ。私のなかで動いていなかった「肉体」が佐藤のことばによって何かを思い出し、我を忘れて動いた。私の肉体の奥に隠れていたものを動かす力がある、だから、おもしろい、あ、いいなあと思った。

古い反物を走らせる
湧き上がった金粉両眼を滑らせると時時左右は入れ替わり
装着したレンズは何処の物とも知れず飛翔の球体360度
色彩の飛来が始まり目蓋に翳し訝しげ口許で息を思い出す

 二連目の「時時左右は入れ替わり」「口許で息を思い出す」にも「肉体」を刺戟された。「左右は入れ替わり」というのは「対象」が入れ替わるととらえるのが一般的なのだろうけれど、見た瞬間、自分の「肉体」の内部こそ左右が入れ替わる。「口許で息を思い出す」という時の「口」は相手の口であると同時に自分の口。対象と自己との区別がなくなる。融合する。「肉体」が「内部」から動かされる。私が佐藤になってしまったと「誤読」する。こういう瞬間が、私は好き。
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千人のオフィーリア(メモ19)

2016-11-21 00:30:12 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ19)

知ってる? ここはポドマック通りよ。
明かりのかわりにピアノの音が水たまりを走ったからって
初物はいないわよ。あさっての通りを歩いてみるんだね。
いいえ、ここはトポマック通りじゃないわ。
おめあては口に出せないことば? ぶたれること?
入れたいの? 入れられたいの? なめたいの? なめられたいの?
そうよ、ドポマック通りよ、間違えないで。
「おれはなあ、細い紐を蝶結びにする発明をあの女に譲ってやった。
何言ってやがらあ、それで大儲けしたくせに」
だからホトマック通りだって。嘘ついたってしようがないでしょ。
そんな小さいものは引っぱりだしたって小便するしか能がないくせに。
マックポート通りは三つ先よ。あそこはね、
嘔吐の花ばかり。強烈な刺激に目をやられてあばたもえくぼに見えるって話さ。
ああ、ポートマックから来たのかい?
背中が凝ってるねえ。ももの裏側も。真ん中の足はどうだい?
そうだねえ、マクポッド通りへ行ってみるんだね。
鳥の羽であそこをなでてくれるさ。指をつばでしめらせるのは
本のページをめくるためだってさ。
知ってるよ、マグトッポ通りというのは嘘の名よ。
ストッキングを足の付け根まであげるとこを見せてくれる。
トグマッポ通り? 酔っぱらったら舌かみそうな通りなんか知らないよ。
湿った唇でも乾いた唇でも、みんなオフィーリア。
昔の名前も明日の名前もあるもんか。





*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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