詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

天皇の生前退位について民進党はなぜ発言しないのか

2016-11-30 21:49:09 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇の生前退位について民進党はなぜ発言しないのか
               自民党憲法改正草案を読む/番外43(情報の読み方)

 11月30日は秋篠宮の51歳の誕生日。読売新聞(西部版・14版)は一面に「退位意向示唆/「最大限に伝えられた」/秋篠宮さま 天皇陛下「お言葉」で」という見出しをつけている。会見の要旨は13面に掲載されている。「要旨」を読むと、

即位されてから、陛下は象徴というのはどのようにあるべきかということをずっと考えてこられたわけです。

 と「生前退位」と「象徴」の関連づけが一番大切だと秋篠宮がとらえていることがわかるが、一面にはその関係のことは書かれていない。「最大限」が何のことか、わからない。
 この秋篠宮の発言を受けての質問なのか、最初から予定されていた質問なのかわからないが、「質問」のなかに、ひとつ、興味深いものがあった。

 天皇陛下の「お言葉」ですが、象徴天皇制というのは国民のために活動を続ける、それこそが象徴のお姿であると、そのように受け止めております。一方で、それは本来の姿ではない、天皇は存在するだけでいいという意見もあります。これに関してのお考えはいかがですか。

 「国民とふれあうのは本来の姿ではない、天皇は存在するだけでいい」というのは「生前退位をめぐる有識者会議」での平川祐介や渡部昇一、桜井よしこの発言を連想させる。これは何か発言を答えをリードしようとする質問ではないだろうか。
 私は有識者会議の「専門家」の発言をすべて読んだわけではないが、そのなかには「国民とふれあう天皇の姿は象徴として理想的である」とか「国民とふれあう姿に多くの国民は励まされてきた」というような肯定的な意見はなかったのだろうか。
 天皇批判をしなかったひとは、単に批判をしなかったのか。あるいは天皇のことばを肯定しているので、わざわざ「肯定している」と言う必要がないと思って言わなかったのか。
 その「判断」が、質問からはわからない。
 どうも「国民とふれあうのは本来の姿ではない、天皇は存在するだけでいい」という声を強調して秋篠宮に伝えようとしている「作為」のようなものを感じる。
 秋篠宮は、こう答えている。

先ほどお話ししましたように、象徴というのはどういうふうにあるべきかということをずっと模索し、考えてこられたその結果であるだろうと考えています。

 天皇は秋篠宮にとって父親であるというだけではなく、「身分」が違う。「上位」に位置する。だから、その「考え」を「肯定する」というような言い方はしない。「肯定する」と言ってしまうと、たぶん、天皇-秋篠宮という関係が微妙になる。「肯定する」は「評価する」につながるからである。
 こういう意識は、たぶん、「専門家」の多くにもあると思う。国民の多くにもあると思う。「天皇を肯定する」というのは「おそれおおい」。
 私は天皇に気をつかわなければならないことなど何もないので、「全国を回ったときのことを語った部分は感動的だった」と書くだけである。これは、言い換えると「天皇の象徴をめぐる発言を支持する」ということ。
 「天皇を支持する」という意見は「ことば」としてはなかなか表現しにくい。それに対して「批判する」というのは、ことばになりやすい。特に「意見」を求められている場では何を言ってもいいわけだから、特ににことばとしてわかりやすい。
 で、こういうときに。
 「肯定する」という「声」が明確な形で表現されていないから、そういう意見はないととらえるのは危険だ。「天皇の気持ちはわかりますが、一方で批判する声があります」という形で「答え」を求めることは「誘導尋問」のようなものだと私は感じる。「天皇の考えを積極的に支持する意見があります。その一方で批判する意見があります」と「両論」を伝えた上での質問になっていないことに疑問を感じる。秋篠宮の動きを「牽制」している。
 秋篠宮は、これに対して、先に引用したように、非常に「慎重に」ことばを選んでいる。

 読売新聞夕刊(西部版・4版)は一面で、「有識者会議」の16人のヒアリングが終了したと伝えている。「天皇退位容認9人」、そのうち5人は「特例法で」認めるという考えだと伝えている。
 その記事のなかの次の部分に私は注目した。

 専門家16人のうち一代限りの特例法容認の考えを示したのは5人にとどまったが、政府は特例法を軸に検討を進める姿勢は崩していない。会合後に記者会見した御厨貴・座長代理は「意見は相当拡散しているが、論点をうまく出していけば、議論を寄せていくことは可能ではないか」と述べた。

 「論点をうまく出していけば、議論を寄せていくことは可能ではないか」とは「論点の整理次第では、結論を政府方針の「一代限りの特例法」で容認するという方向にもっていける」ということか。あるいは「一代限りの特例法」を踏まえ、よりいっそう政府の都合のいい「結論」を導き出そうというのか。後者の動きをカムフラージュするための「有識者会議」ではないか、と私は想像している。
 「生前退位に反対・慎重」が7人いる。「容認派」は「特例法(4人)」と「皇室典範改正(4人)」のふたつに分けているのに、「反対・慎重」は分けずに7人とまとめているところが、「分類」として非常にこざかしい。
 7人の「意見」を「一代限りの特例法」(恒久的ではない)に組み入れるために、「特例法の内容」をどうするか、という方向に動いていくのではないのか。そのとき、「摂政」がキーワードとして浮かび上がってくると思う。これは何度も書いたので、今回は省略。



 それにしても、と思う。(ほんとうに書きたいことは、これから書くこと。)
 なぜ、野党、特に野党第一党の民進党は「生前退位」についてどう思うか。どうするべきだと考えているか、語らないのだろうか。(語っているのかも知れないが、「有識者会議」の報道のように新聞には掲載されない。)
 どんなひとも、他人の意見に触れると考え方がかわる。反対に変わることもあるし、より強固になるという具合にかわることもある。有識者会議のメンバーも(ヒアリングで意見を述べたひとも)、民進党の意見をどこかで読めば、それについて考えるだろう。批判するにしろ、批判のためのことばを鍛えるだろう。どうして、そういう「議論」を促す発言をしないのだろう。
 不思議でしようがない。
 民進党も政府と同じように「有識者会議」を開き、専門家を呼んで意見を聞けばいいのに。そこでの「議論」を国民に向けて発表すればいいのに。そうすれば、国民の多くがこの問題について考えることができる。政府の方針に沿った「有識者会議」とは別の考え方に触れる機会ができる。
 「天皇」は憲法にかかわる問題である。しかも、今回の問題は「天皇」自身からの「提起」でもある。安倍が「結論」を出す前に、民進党が「結論」を出して、それを国民に問いかけたらいいのに。安倍がそれを「追認」するのか、あるいは「対案」を出すという形になるのか。
 いまこそ、世論をリードするチャンスなのに、安倍が「結論」を出すのを待っているのは、どういうわけだろう。野党のふりをして、安倍を支えることこそ民進党の進む道ということなのかな?








*

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渡辺玄英『渡辺玄英詩集』(2)

2016-11-30 13:17:24 | 詩集
渡辺玄英『渡辺玄英詩集』(2)(現代詩文庫232 、2016年10月30日発行)

 『海の上のコンビニ』や『火曜日になったら戦争に行く』は多くのひとが触れるだろうし、また触れているので、「未刊詩篇」の作品から。「ひかりの分布図」。

いまは風景の破片になろうとして
このようにおびただしくわたくしはくるくると
方位を変えながら流れていく
(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?

 渡辺の作品を特徴づける括弧が開かれたままの行が出てくる。ふつう括弧は先に書かれたことばを補足するためにつかわれる。補足は括弧内にとざされている。渡辺はこれを解放している。補足を補足として特定しない。補足は「こと(ば)」を解放する働きをする。起きている「こと」、起きている「ば」。「解放する」は固定しないこと。
 ふつうの括弧内の補足は、補足に見えて実は先行することばを逆に閉じ込める。渡辺の場合、括弧内のことばが括弧の外にあることばを括弧内に引き込み限定するのではなく、括弧内のことばによって「開く」。別な方向へ開いて行く。。
 「意味」を限定しない。「意味」を解放する。これが渡辺のことばの基本的な運動の形だ。
 で、このときの括弧内のことばなのだが……。これは何だろう。さまざまなつかい方があるだろうから、この部分だけに限定して見てみる。
 「わたくし」は「流れていく」。「流れる」に「水平線」「河口」ということばが接続すれば、「流れ」とは「河」である。「河」が流れるのなら、流れる先に「河口」はあり、延長線上に「水平線」がある。「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」と問うことは「論理」の上では意味がない。「流れていく先」という答えがすでに含まれている。
 それなのに、問う。なぜか。問うときに、何が起きているのか。
 「論理」の否定、「論理」の破壊である。この作品の、ここに書かれていることに則していえば「流れる」という運動に対する否定。抵抗。
 「流れる」に拮抗、対峙する運動とは何か。「くるくる」ということばが、「流れる」の前に出てくる。「くるくる」は「まわる」。書かれていないが「まわる」という動詞が隠れている。動いている。「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」という特定を避けたことばとなって「くるくる」が動く。「まわる」ということばをつかわずに、動く。そのあとで、「まわる」ということばを「生み出す」。
 「まわる」は「くるくる」のなかに存在している。それが「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」という「産婆術」によって、生み出される。
 詩は、こうつづく。

流れていくくるくる(いいだろう、こんなに回って

 この行の登場で、この詩のテーマが「流れる」を切断する「まわる/回る」という動詞であることがわかる。

はためく風景のはためき(笑えよ、風景のように
未来のわたくしは将来これを見る
ことになる(なるに違いなく(なるかもしれず(なるだろう
鳴るのは何?
鐘の音?(ちがうよ、遠く
遠くで空が割れるの音
未来はくるくるまわりながら

 「まわる」は「はためく/はためき」「風景/風景のように」「未来/将来」に類似のことばを引き寄せる。「類似」の確認によって「まわる」は成立する。同じものが出てこないと「まわる/もとにもどる」ということが成り立たない。
 「まわる/もとにもどる」は「もと」を「くりかえす」でもある。「(なるに違いなく(なるかもしれず(なるだろう」ということばの動きは、「くりかえし」にあたる。「なる」を補足する「動詞(述語)」は変化するが、「語幹(?)」の「なる」はそのままである。「もと」のまま。だから、「まわる/回転している」。
 この「なる」を「鳴る」と言いなおす。「音」はくりかえされる(もとのまま)だが、「意味」がずらされる。「流れる」を切断するものに「まわる」だけではなく「ずらす」(それる)という動きが加わり、「動詞」の内部が豊かになる。「隠されていた動詞」が動き出す。生み出される。それは当然、「動詞」だけではなく「名詞(存在)」をも生み出す。
 「ちがう」という「否定」を起点にして、「遠く」が引き出される。「まわる」は「わたくし」が起点。あるいは「主語」。それから離れる。これは「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」という「どちら」に含まれていた「遠心力」のようなものの繰り返しでもある。(「まわる」という動きには、求心力と遠心力の均衡がある。)
 こういう「動詞」の一貫性(肉体/思想)が、では、どういう「名詞(存在)」を、その瞬間に生み出すか。「動詞の産婆術」は、渡辺の場合、「名詞」として何をを生み出すか。

遠くで空が割れるの音

 うーん、宮沢賢治か。あるいは天沢退二郎か。「印象」なので、何とでもいえるが、宮沢賢治、天沢退二郎を別なことばで言いなおせば確立された詩ということになる。
 しかし、これは渡辺のことばの運動を批判するために、そういうのではない。ことば、あるいは詩とは、そういうものだと思う。すでに存在するものを、新しく思い出させるもの。「肉体」のなかに存在しているが、思い出すことのなかったものをもういちど思い出すこと、そういう繰り返しのなかに詩がある。自分の「肉体」の内部を耕し、解放する。内部にあった「いのち」に形を与える。生み出す。
 これは、渡辺の場合にもあてはまる。
 「遠くで空が割れるの音」は、このあと、こう言いなおされる。

あのとき、空が割れる音がして
それから青い蝶が分布して各地で観測された

 「青い蝶」。きれいなことば。きれいなイメージ。だれもが知っていることば。それが新しく生まれてきている。生み出されている。
 「火曜日になったら戦争に行く」の書き出し。

火曜日になったら
戦争に行く
野ウサギがはねる荒れ野の中を
画面の野ウサギにカーソルをあわせたら
引き金を、ひいてくらさい

 「野ウサギ」「荒れ野」という「童話/なじみのあるイメージ」は「青い蝶」につながる。渡辺を語るとき「浮遊感」ということばがキーワードになっているようだが、私はその「奥」に「感性の伝統/古典のイメージ」の蘇り(あらたな出産/産婆術)のようなものを感じる。




火曜日になったら戦争に行く
渡辺 玄英
思潮社
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