山崎修平『ロックンロールは死んだらしいよ』(思潮社、2016年10月31日発行)
山崎修平『ロックンロールは死んだらしいよ』は、ことばのリズムがとても読みやすい。読みながら、何か、のど(声帯/肉体)が反応してしまう響きがある。これは「現代詩」には珍しいことである。楽しいなあ、嬉しいなあ、と感じながら読み進んで、14ページ。
という一行がある。ここで、私は思わず傍線を引いて、ことばを読み直す。うーん、何かに似ている。「文学」なのだけれど「詩」ではない、何か。ことばの切断と接続の仕方、うねるような感じ。あ、短歌だ。
ここまででも「短歌」だと思う。「もったいなくて」と「捨てられたくなくて」は接続が強い。「意味」としては同義。このときの「意味」は、どちらかというと「気持ち」。それを「飲み干すんだ」とつなぐとき、「意味」が「気持ち」から「肉体(の動き)」に変わる。ことばの内部で「ねじれ」が起きる。そして、その「ねじれ」が「強さ」を感じさせる。この感じが、いいなあ、と思う短歌に似ている。
この「接続と切断」に、強引に(?)「四弦が切れた日」が結びつけられ(接続させられ)、その強引さが一行を結晶化させる。完結させる。
と思っていたら、
先の一行は一行ではなく、二行のことばだった。
そして、その後半部分、これを一行にすると、こうなる。(句点「。」は省略)
こうして読むと、これもまた短歌である。「四弦」と「ミニマルミュージック」の接続が「アイスカフェラテ」を「飲む」という切断によって強調される。感情の断面のようなものが、そのときに光る。「切れた(切る)」という「動詞」、「飲む」という「動詞」が「終止形」ではなく、「連体形」として「名詞」につながっていく。「名詞化」されている、この「ねじれ」のようなものも、たぶん短歌のリズムである。少なくとも「散文(小説)」のリズムではない。
このあたりが、山崎の「文体」(思想)の特徴だな、と思って、前に戻って読み直す。巻頭の「乾季のみ客を受け入れる街の隅に置かれた毛布はひとつの哲学」という長いタイトルの詩。その四行目。
これも短歌になるなあ。「絵画」と「人の列」というのは展覧会の会場の様子ととらえれば「接続」だが、「絵画」から「人」へは存在(名詞)の切断がある。それを「抽象的」と「解釈不能」という「長い接続」が飲み込み、完結するとき、やはりことばの内部で「ねじれ」が生まれる。
この「ねじれ」を「ねじれ」のまま持続すること。そこに思想がある。持続するとき、そこに思想が生まれる。独特の「肉体」が屹立する。
この一行は、短歌になりそこねた(?)感じ。長すぎる。でも、それに続く、
この一行の最後の「の」を捨てると短歌になると思う。「最低」と「笑う」の苦々しい切断/接続の混合。それを「バスの後部座席」で大きく転換し、「座る」という「動詞(肉体)」で抑えるとき、それ以前に書かれている「感情」が「ねじれ」のまま屹立し、「夕方(たぶん夕日)」と向き合う。
それから、たとえば、
この三行は、そのまま短歌をつないだもののように感じる。特に、最後の部分を捨てて一行一行独立させると、短歌の匂いが強くなる。
「慰め」が「いる/いらない」は山崎としては書きたい部分なのだろうけれど、それを読者にまかせてしまうのが短歌かもしれない。
「始まる」は動詞だが「始まり」ととらえ直すこともできる。そうすると、この三行は「体言止め」の短歌になる。
「体言止め」というのは、一種の「倒置法」。「動詞(肉体)」がその一行の中にあるのに、「動詞」を隠している。つまり「肉体」を隠している。「肉体」のかわりに「感情」を表面に浮かび上がらせているということになるだろうか。
「乾季のみ客を受け入れる街の隅に置かれた毛布はひとつの哲学」というタイトルも、本文では「なって(なる)」という「動詞」があるのに、あえて「体言止め」にしている。そこにも、何かしら短歌の手法を感じる。
というようなことを考えていたら……。帯の「略歴」に「未来短歌会所属」とある。あ、歌人だったのだ。短歌と詩のどちらを先に書き始めたのか、同時に書き始めたのか。どちらかわからないが、山崎のことばの動きには短歌のリズム(手法)が動いている。
短歌(和歌)は、現代詩とは違って、まず「声」から出発した文学だと思う。声に出して伝える。声の持続の中に、意味(感情)のうねりを増幅させる。それを他者にぶつける。「気持ち」として。(現代詩にもそういう書き方をするひとはいるだろうけれど、私の印象では「文字」で、視覚経由の「理解」を要求するものが多い。)
このスタイルが、たぶん、山崎にはしみついている。
目をつぶって、開いた66ページ。その二行目、
ね、短歌でしょ? 何かわくわくするでしょ?
山崎の作品には行わけスタイルと散文スタイルのものがある。行わけスタイルには一行が長いものと短いものがある。長い一行の方が、とてもおもしろい。短歌に近くなっているからだと思う。山崎の「肉体」は短歌でできているのである。
この「あまりに音楽的な」という作品の、引用した部分よりその少し先。
何か退屈。「ねじれ」が全体を突き破って表に出てくるという感じがしない短歌になっていない否からだと思う。
短歌の「長さ」をもたない部分は退屈。けれど、短歌の長さをもつもの、あるいはそれを超える長さになると、ことばがとても生き生きしてくる。とてもおもしろく感じられる。このスタイルをもっと過激に展開してもらいたいと願ってしまう。
短歌をつないでいって、短歌の連作とは違う「長歌」としての詩を読みたいなあ、と思う。
山崎修平『ロックンロールは死んだらしいよ』は、ことばのリズムがとても読みやすい。読みながら、何か、のど(声帯/肉体)が反応してしまう響きがある。これは「現代詩」には珍しいことである。楽しいなあ、嬉しいなあ、と感じながら読み進んで、14ページ。
ペットボトルの水はもったいなくて捨てられなくて飲み干すんだ四弦が切れた日
という一行がある。ここで、私は思わず傍線を引いて、ことばを読み直す。うーん、何かに似ている。「文学」なのだけれど「詩」ではない、何か。ことばの切断と接続の仕方、うねるような感じ。あ、短歌だ。
ペットボトルの水はもったいなくて捨てられなくて飲み干すんだ
(「美しい日々」)
ここまででも「短歌」だと思う。「もったいなくて」と「捨てられたくなくて」は接続が強い。「意味」としては同義。このときの「意味」は、どちらかというと「気持ち」。それを「飲み干すんだ」とつなぐとき、「意味」が「気持ち」から「肉体(の動き)」に変わる。ことばの内部で「ねじれ」が起きる。そして、その「ねじれ」が「強さ」を感じさせる。この感じが、いいなあ、と思う短歌に似ている。
この「接続と切断」に、強引に(?)「四弦が切れた日」が結びつけられ(接続させられ)、その強引さが一行を結晶化させる。完結させる。
と思っていたら、
ペットボトルの水はもったいなくて捨てられなくて飲み干すんだ四弦が切れた日
の午後に飲むアイスカフェラテとミニマルミュージック。
先の一行は一行ではなく、二行のことばだった。
そして、その後半部分、これを一行にすると、こうなる。(句点「。」は省略)
四弦が切れた日の午後に飲むアイスカフェラテとミニマルミュージック
こうして読むと、これもまた短歌である。「四弦」と「ミニマルミュージック」の接続が「アイスカフェラテ」を「飲む」という切断によって強調される。感情の断面のようなものが、そのときに光る。「切れた(切る)」という「動詞」、「飲む」という「動詞」が「終止形」ではなく、「連体形」として「名詞」につながっていく。「名詞化」されている、この「ねじれ」のようなものも、たぶん短歌のリズムである。少なくとも「散文(小説)」のリズムではない。
このあたりが、山崎の「文体」(思想)の特徴だな、と思って、前に戻って読み直す。巻頭の「乾季のみ客を受け入れる街の隅に置かれた毛布はひとつの哲学」という長いタイトルの詩。その四行目。
初対面の抽象的な絵画あるいは人の列、解釈不能なすべて
これも短歌になるなあ。「絵画」と「人の列」というのは展覧会の会場の様子ととらえれば「接続」だが、「絵画」から「人」へは存在(名詞)の切断がある。それを「抽象的」と「解釈不能」という「長い接続」が飲み込み、完結するとき、やはりことばの内部で「ねじれ」が生まれる。
この「ねじれ」を「ねじれ」のまま持続すること。そこに思想がある。持続するとき、そこに思想が生まれる。独特の「肉体」が屹立する。
乾季のみ客を受け入れる街の隅に置かれた毛布はひとつの哲学となって
この一行は、短歌になりそこねた(?)感じ。長すぎる。でも、それに続く、
最低な日々のことを苦々しく笑うバスの後部に座る夕方の
この一行の最後の「の」を捨てると短歌になると思う。「最低」と「笑う」の苦々しい切断/接続の混合。それを「バスの後部座席」で大きく転換し、「座る」という「動詞(肉体)」で抑えるとき、それ以前に書かれている「感情」が「ねじれ」のまま屹立し、「夕方(たぶん夕日)」と向き合う。
それから、たとえば、
愚かで冗長だと思うだろうありふれた真夏の慰めなどはいらない
しきたりと建前のあいだに手作りのポップなチョコレートがあって
君に貰えて嬉しかった。ひとつの秘密を共有することから始まるなら
この三行は、そのまま短歌をつないだもののように感じる。特に、最後の部分を捨てて一行一行独立させると、短歌の匂いが強くなる。
愚かで冗長だと思うだろうありふれた真夏の慰め
しきたりと建前のあいだに手作りのポップなチョコレート
君に貰えて嬉しかった。ひとつの秘密を共有することから始まる
「慰め」が「いる/いらない」は山崎としては書きたい部分なのだろうけれど、それを読者にまかせてしまうのが短歌かもしれない。
「始まる」は動詞だが「始まり」ととらえ直すこともできる。そうすると、この三行は「体言止め」の短歌になる。
「体言止め」というのは、一種の「倒置法」。「動詞(肉体)」がその一行の中にあるのに、「動詞」を隠している。つまり「肉体」を隠している。「肉体」のかわりに「感情」を表面に浮かび上がらせているということになるだろうか。
「乾季のみ客を受け入れる街の隅に置かれた毛布はひとつの哲学」というタイトルも、本文では「なって(なる)」という「動詞」があるのに、あえて「体言止め」にしている。そこにも、何かしら短歌の手法を感じる。
というようなことを考えていたら……。帯の「略歴」に「未来短歌会所属」とある。あ、歌人だったのだ。短歌と詩のどちらを先に書き始めたのか、同時に書き始めたのか。どちらかわからないが、山崎のことばの動きには短歌のリズム(手法)が動いている。
短歌(和歌)は、現代詩とは違って、まず「声」から出発した文学だと思う。声に出して伝える。声の持続の中に、意味(感情)のうねりを増幅させる。それを他者にぶつける。「気持ち」として。(現代詩にもそういう書き方をするひとはいるだろうけれど、私の印象では「文字」で、視覚経由の「理解」を要求するものが多い。)
このスタイルが、たぶん、山崎にはしみついている。
目をつぶって、開いた66ページ。その二行目、
二回目の号令とともに鬨の声をあげる彼らのお気に入りのパン屋、ジャズ
ね、短歌でしょ? 何かわくわくするでしょ?
山崎の作品には行わけスタイルと散文スタイルのものがある。行わけスタイルには一行が長いものと短いものがある。長い一行の方が、とてもおもしろい。短歌に近くなっているからだと思う。山崎の「肉体」は短歌でできているのである。
この「あまりに音楽的な」という作品の、引用した部分よりその少し先。
さて、歩きだすことにしよう
私がここで伝えることは
大通りから二本目の路地に入ったところにある
料理店のメニュー表が黄ばんでいて
オーナーは明後日誕生日であり
彼の夢は生きて死ぬこと
何か退屈。「ねじれ」が全体を突き破って表に出てくるという感じがしない短歌になっていない否からだと思う。
短歌の「長さ」をもたない部分は退屈。けれど、短歌の長さをもつもの、あるいはそれを超える長さになると、ことばがとても生き生きしてくる。とてもおもしろく感じられる。このスタイルをもっと過激に展開してもらいたいと願ってしまう。
短歌をつないでいって、短歌の連作とは違う「長歌」としての詩を読みたいなあ、と思う。