郷原宏「テームズの月」、田村ちさ子「地峡の国」(「長帽子」77、2016年11月07日発行)
郷原宏「テームズの月」は、土井晩翆と滝廉太郎の出会いと別れを書いている。「荒城の月」を作詩・作曲した二人はロンドンで会っている。姉崎嘲風と三人で会話している。滝廉太郎が病気のために日本に帰るのを見送りに来た。次は「テームズの月」をつくろうと約束したが果たせなかった。「評伝」のような作品か。
「月が明るかった」「月光が波に砕けて万華鏡のようにきらめいた」「月光の明るさがいっそう強く感じられた」と三回も月の光の描写が出てくる。しかもだんだん長くなる。二度目は「万華鏡のように」という比喩が出てくる。それでも言い足りなくて、まだつづけるのだが。
私は、しつこいと感じながらも、三回目の描写がおもしろいと思った。
二回目に書かれている「比喩」が解体され、「現実」にもどっていく。「比喩」は「詩的」なものだが、「詩」が解体されて「現実=散文」にもどっていく。「比喩」を否定/解体することばの運動が楽しい。
「詩」が「飛躍/切断(比喩)」であるのに対して、「散文」は「接続(論理)」である。離れている「うえに」、建ち並んでいる「ので」という「理由」であることを説明することばがつづき、「街の灯もここまでは届かない」という「仮の結論」が書かれる。これは「暗い」という「結論」でもある。強調である。そのあとに、その「結論」を「理由」として、それとは反対の「結論」(明るい)が書かれる。「そのために」という「理由」を示すことば、「いっそう」という強調のことばが連携しながら「月光の明るさ」を証明する。
この動きは、「散文」である。しかし、詩でもある。「詩」の基本である「起承転結」を踏まえている。
詩の基本を踏まえながら「散文化」してしまうのは、「論理」を証明することばが「しつこく」つかわれるからである。「論理」のことばを書いてしまうのが郷原なのだといえるかもしれない。
*
田村ちさ子「地峡の国」はわからないところがある。「わからない」は「論理」がたどれないということでもある。
「さよなら」は「比喩」。流通している「意味」を「隠す」ことによって強調される。「やさしい神々に唾を吐く」という「反抗」が「恥辱」ということばで言いなおされる。衝突して、輝く。それが「命」になる。「青春」になる。「青春」なのに死ななければならなかった人の「叫び」が聞こえてくる。
次の連で、「抵抗(叫び)」は「怒り」ということばで言いなおされる。流通している「意味」がやっと出てくる。いったん「忘れ去られ」と否定され、「人さし指が炎を上げ」るという「比喩」を通って蘇る。鮮烈になる。
イメージが炸裂しながら、中心点を明らかにする。
この「矛盾」のようなものを、
の、「その」という指示詞がつなぎ止める。「散文(論理)」が、全体を「ぐい」とつかみ、放さない。
「その」はこのあと、
と繰り返されるが、最初の「その」のように、それが具体的に何を指示するのかわからない感じではない。強引さがない。だから散文。
そうしてみると、最初の「その」としか言いようのない形でつかみとる強引さが「詩」というのものになる。最初の「その」が何を指しているか具体的には言えない。(二番目は「石」、三番目は「木々」。)「身振り」で「その」としか言えない何か。そこに「詩」がある。
郷原宏「テームズの月」は、土井晩翆と滝廉太郎の出会いと別れを書いている。「荒城の月」を作詩・作曲した二人はロンドンで会っている。姉崎嘲風と三人で会話している。滝廉太郎が病気のために日本に帰るのを見送りに来た。次は「テームズの月」をつくろうと約束したが果たせなかった。「評伝」のような作品か。
その夜は月が明るかった。三人は甲板に出て、涼しい川風に吹かれながら歓談した。川面に映る月光が波に砕けて万華鏡のようにきらめいた。チルベリーはロンドンの中心部から三十マイルほど離れているうえに、あたりには倉庫が建ち並んでいるので、街の灯もここまでは届かない。そのために月光の明るさがいっそう強く感じられた。
「月が明るかった」「月光が波に砕けて万華鏡のようにきらめいた」「月光の明るさがいっそう強く感じられた」と三回も月の光の描写が出てくる。しかもだんだん長くなる。二度目は「万華鏡のように」という比喩が出てくる。それでも言い足りなくて、まだつづけるのだが。
私は、しつこいと感じながらも、三回目の描写がおもしろいと思った。
二回目に書かれている「比喩」が解体され、「現実」にもどっていく。「比喩」は「詩的」なものだが、「詩」が解体されて「現実=散文」にもどっていく。「比喩」を否定/解体することばの運動が楽しい。
「詩」が「飛躍/切断(比喩)」であるのに対して、「散文」は「接続(論理)」である。離れている「うえに」、建ち並んでいる「ので」という「理由」であることを説明することばがつづき、「街の灯もここまでは届かない」という「仮の結論」が書かれる。これは「暗い」という「結論」でもある。強調である。そのあとに、その「結論」を「理由」として、それとは反対の「結論」(明るい)が書かれる。「そのために」という「理由」を示すことば、「いっそう」という強調のことばが連携しながら「月光の明るさ」を証明する。
この動きは、「散文」である。しかし、詩でもある。「詩」の基本である「起承転結」を踏まえている。
(起)その夜は月が明るかった。三人は甲板に出て、涼しい川風に吹かれながら歓談した。
(承)川面に映る月光が波に砕けて万華鏡のようにきらめいた。
(転)チルベリーはロンドンの中心部から三十マイルほど離れているうえに、あたりには倉庫が建ち並んでいるので、街の灯もここまでは届かない。
(結)そのために月光の明るさがいっそう強く感じられた。
詩の基本を踏まえながら「散文化」してしまうのは、「論理」を証明することばが「しつこく」つかわれるからである。「論理」のことばを書いてしまうのが郷原なのだといえるかもしれない。
*
田村ちさ子「地峡の国」はわからないところがある。「わからない」は「論理」がたどれないということでもある。
青春の森の中で
背に「さよなら」を隠したまま
やさしい神々に唾を吐き
恥辱の泥の中に沈まなければならなかった命
彼らのひそかな足取りは
どこに残されているのか
根っこからその怒りを持ち上げている長い草
忘れ去られた道に
彼らの人さし指が炎を上げてないか
「さよなら」は「比喩」。流通している「意味」を「隠す」ことによって強調される。「やさしい神々に唾を吐く」という「反抗」が「恥辱」ということばで言いなおされる。衝突して、輝く。それが「命」になる。「青春」になる。「青春」なのに死ななければならなかった人の「叫び」が聞こえてくる。
次の連で、「抵抗(叫び)」は「怒り」ということばで言いなおされる。流通している「意味」がやっと出てくる。いったん「忘れ去られ」と否定され、「人さし指が炎を上げ」るという「比喩」を通って蘇る。鮮烈になる。
イメージが炸裂しながら、中心点を明らかにする。
この「矛盾」のようなものを、
根っこからその怒りを持ち上げている長い草
の、「その」という指示詞がつなぎ止める。「散文(論理)」が、全体を「ぐい」とつかみ、放さない。
「その」はこのあと、
かすかなぬか雨に濡れている
曲がり角の石
その衰弱した心の肌に
夢から逃げ出した鳥たちが
巣籠もりしている木々
その梢で一羽の鳥が
と繰り返されるが、最初の「その」のように、それが具体的に何を指示するのかわからない感じではない。強引さがない。だから散文。
そうしてみると、最初の「その」としか言いようのない形でつかみとる強引さが「詩」というのものになる。最初の「その」が何を指しているか具体的には言えない。(二番目は「石」、三番目は「木々」。)「身振り」で「その」としか言えない何か。そこに「詩」がある。
郷原宏詩集 (新・日本現代詩文庫109) | |
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