詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

天皇と「祈り」(その2)

2016-11-16 22:58:50 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇と「祈り」(その2)
               自民党憲法改正草案を読む/番外42(情報の読み方)

 天皇の「生前退位」をめぐる有識者会議のヒアリング。平川祐弘(東大名誉教授)、渡部昇一(序地代名誉教授)、桜井よしこ(ジャーナリスト)の発言に「祈り」ということばが出てくることについてはすでに書いた。
 「祈り」とは何か。
 天皇の災害被災地まで出向いての国民との触れ合いは、国民といっしょにいることが「安全」への「祈り」へとつながっていると私は思う。このとき「祈り」は「願い」と言い換えても通じるだろう。今の天皇の「祈り」は「宗教」とは無関係である。
 渡部の「天皇の身体は宮中にあっても、国民のために祈ることが最も大切なことである」(2016年11月15日の読売新聞、西部版・14版、13面)は、「国民といっしょ」という形を否定した「祈り」である。この「国民と直接接しない祈り」について再び考えてみたい。平川の発言を参考にして考えてみる。
 平川の「民族の象徴であることは、祈ることにより祖先へと続くからだ」(2016年11月08日の読売新聞、西部版・14版、13面)は、「どこで」祈るのか、ということがわかりにく勝った。
 2016年11月15日の読売新聞、西部版・14版、13面に第三回の有識者会議議事録(07日、要旨)が掲載されている。政府が首相官邸のホームページで公表したものである。(私の検索の仕方が悪いのかもしれないが、どこに「公表」されているか、今回もみつけられなかった。読売新聞から転載する。)それによると、平川の発言は、こうなっている。

 (天皇陛下のお言葉に)世間は感動したが、同情に乗じて特例法で対応することは憲法違反に近い。天皇家は、続くことと、祈るという聖なる役割に意味がある。それ以上の世俗のことを天皇の義務とお考えになるのはいかがなものか。世俗に偏った象徴天皇の役割にこだわれば、能力主義的価値観を持ち込むことになりかねず、皇室制度の維持は困難になる。

 2016年11月08日の読売新聞の記者が聞き取り要約したものと、ずいぶん違う。
 「祖先」という表現のかわりに「天皇家は、続くこと」ということばがある。天皇家が続くこと、つまり先祖から子孫へつづく。この文脈で「聖(なるもの)」ということばが出てきていることに、私は驚いた。「聖」の主張こそ、平川の根幹なのだと思った。
 平川が言う「祈り」は、あくまで「天皇家」の「いのちがつづくこと」への「祈り」である。国民一般のいのちがつづくこと、国民の安全を祈ることではない。国民の安全を「祈る」ことを平川は「俗」と呼んでいる。
 「天皇家」は「聖なるもの」である。「天皇家の継続」を祈る「祈り」は「聖なる祈り」。「聖なるもの」と「祈り」が結びつけられると、私は「宗教」を感じてしまう。そして、「聖なる天皇という宗教」に国民(俗)は従え、という主張につながりそうな感じがする。「俗」を支配する「聖なるもの」。「聖なるもの」を「象徴」する「天皇」。宗教だから「天皇=神」ということにつながるような気がする。
 で、このとき。
 天皇が「私は神である」と言うのではない。実際、今の天皇は「私は神である」とは言っていない。「象徴である」といい、「象徴としてのつとめは国民と触れ合い、国民と一体になること」と言っている。
 ここからが、一番の問題。
 天皇が「神である」というのなら、そんなことを言う権利は天皇にはない、と国民は反発することができる。「天皇が神である」というのは「国民の総意ではない」と主張することができる。つまり、国民は天皇に対して反抗することができる。
 ところが、「天皇は神である(聖なる存在である)」と主張するのが、天皇ではなく、平川という「国民(俗)」である。「俗」が「聖なるもの」をかかげて、これが「聖なるもの」であると断定するとき、いったい何が生まれるか。どういうことが起きるか。
 天皇を「聖なるもの」と断定した「俗」が、天皇は「聖なるものではない」と思う「俗」を支配し、秩序をつくろうとする。簡単に言うと、

天皇-平川-国民

 という「聖-俗」のヒエラルキーが生まれる。「天皇は聖なるものではない」と主張する人間は「天皇は聖なるものである」と主張する「権力」と戦わなくてはならない。「権力」はそのとき「おれに反抗するのか」とは言わずに「聖なるものを否定するのか」という論理で自己保身しながら、俗を弾圧する。
 ヒエラルキーを「聖」ということば(概念/論理)でごまかしながら、平川が「権力」を握ることになる。
 しかも、そこに「天皇」を「宮中」に閉じ込めるということがくわわる(これは渡部の主張だが)。国民とは触れさせないということが生まれる。「触れさせない(触れることができない)」ということ「聖」が補強される。天皇の「真意」は隠され続ける。平川の「意図」だけが、「聖-俗」を決定する。とても便利(?)な支配構造である。
 平川のかわりに、「摂政」を、あるいは安倍を入れて図式化してもいい。

天皇-摂政(内閣が進言する)-国民
天皇-安倍(内閣の長)-国民

 これを「権力構造(支配構造)」と呼ばずに、「聖」と呼んでいるところに注意しないといけない。

 今の天皇は「天皇=神」という考え方からははるかに遠い考えを持っているように見える。天皇を神格化しない今の天皇は、権力が国民を支配するという構造を強化するには、きっと邪魔である。国民を支配することは「国民とともにある天皇」を支配することになる。国民を自由に支配するためには、天皇国民から切り離し、神格化し、国民と無縁の存在にすることが必要なのだ。
 その動き(野望)のために、高齢の天皇が利用されている、と私には感じられる。

 この天皇の神聖化については、有識者(だれか不明)が「政教分離」の視点から質問している。

 有識者 (天皇の)公務の題意は祈ることだという解釈か。(略)政府見解では祭祀は指摘行為に分類されている。
 平川氏 (祈ることは)公務というより役割だ。憲法上の解釈ではなく、歴史上そうだった。

 平川は、憲法を無視している。「憲法上の解釈」を認めない。そのくせ「特例法」を「憲法違反」と言うように、都合に合わせて憲法を利用している。矛盾している。
 付け加えて「歴史上そうだった」と簡単に言っている。「歴史上そうだった」というとき、具体的に「歴史的事実」をあげたのかどうか、読売新聞の記事ではわからない。いつ、どの天皇が「天皇家がつづくこと」を「祈った」のか。それを平川がどう証明したのか(どのような文献を例としてあげたのか)わからない。
 もしかすると「歴史上そうだった」という専門家の意見で、天皇は天皇家の存続のために祈るということを「歴史的事実」にしてしまおうとしているのかもしれない。



 いったい有識者会議のなかで、どんな議論が起きているのか。ヒアリングに応じた「専門家」がどう発言したのか、「要旨(要約)」だけでは、さっぱりわからない。
 そのことに加えて、もうひとつ、変なことが起きている。
 衆院の解散が噂されている。もし、衆院が解散され、総選挙が行われれば、国民の関心は選挙に向かう。「有識者会議」の議論の中身は話題にならなくなるだろう。関心を拡散させ、国民が何も理解しない内に、どたばたと既成事実がつくられていく。


*

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金井雄二「縁側」、金井裕美子「きのうの十五夜」

2016-11-16 20:34:16 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「縁側」、金井裕美子「きのうの十五夜」(「独合点」127 、2016年10月10日発行)

 金井雄二が出している詩誌も小さなもの。「目移り」がしない。今度の号の「縁側」は、こういう作品。

明け方
雨の降る激しい音で
目が覚めた
庭先の縁側から
雨に濡れて
父親が入ってきた
土気色の顔をして
精気がない
冷たい手で
握手をした
僕は父親に
なんとなく詫びた
べつに詫びる必要もなかったけれど

 「父親」は幽霊。死んでいるのだろう。「雨に濡れて」は。陰湿な感じ。「土気色の顔」「精気がない」「冷たい手」も同じ。死人の姿。紋切り型の表現である。こういう表現はおもしろくないし、私は幽霊というものを見たことがないし、感じたこともないから、リアルかどうか判断できない。ありきたりだなあと思って読む。
 でも「ぼくは父親に/なんとなく詫びた/べつに詫びる必要もなかったけれど」は金井の人柄をあらわしている。人柄がわかって、おもいろい。
 三行ほど省略するが、この詩はこうつづく。

父親はなにも言わないので
母親のことや姉のことや妹のことを
かまわずにしゃべりまくった
黙って聞きながら
ときどき薄笑いなど
うかべて
いつのまにか
庭先の縁側だけになってしまった

 「庭先の縁側だけになってしまった」で、私は傍線を引いた。うまい。「消えていなくなった」ではなく、残された「事実」だけを書いている。このとき「縁側」そのものが「父親」に見える。父親はきっと、いつも縁側にいたのだ。部屋の中や便所にもいただろうけれど、金井が思い出す父親は縁側と一体になっている。縁側を見ると父親を思い出すのだろう。

また来るだろうと思ったし
怖くなかった
外では水滴たちが
鳴り響いていて
その音楽で
ぼくはふたたび
目が覚めた

 この終わりは、縁側にあらわれた父親が「夢」だったと説明している。「論理」にしてしまっている。
 ここは残念。
 「庭先の縁側だけになってしまった」で終わるとすっきりすると思う。書き加えるにしても「また来るだろうと思ったし/怖くなかった」まででいいのでは。
 最後は「土気色の顔」云々と同じように紋切り型。「論理」の紋切り型。「縁側」という「事実」が「論理」のなかに飲み込まれ、消えてしまう。「形式」になってしまう。



 金井裕美子「きのうの十五夜」は金井の詩と共通した匂いがする。十五夜を見ようとすると、「おばあちゃん」ついてくる。その中ほど。おばあちゃんの話。

ゆうべ 初恋のひとがきて
真正面から
じいっと見るもんだから
ああ見ないで 恥ずかしい
こんなにあたしばかり
歳をとっちゃった と
両手で顔を隠していたら
いなくなっちゃった

 「初恋のひと」は死んだひとかもしれない。おばあちゃんは生きているのか死んでいるのか、わからない。私は、死んだおばあちゃんと金井が会話し、その会話の中に「おばあちゃんの初恋のひと」が出てきたのだと思って読んだ。死んだひとが現われるということが二回繰り返されることで、それがまた繰り返されるだろうと想像される。つまり、この詩を読んだひとは、金井もそういうおばあちゃんになって、だれかに思い出の中に現われ、「ああ見ないで 恥ずかしい/こんなにあたしばかり/歳をとっちゃった」と言うんだろうなあと思うと楽しくなる。死んでいるのに、生きている感じ。
 「論理」が繰り返されることによって「現実/事実」になり、どう詩に「現実」を超える「永遠」になる。そこがおもしろい。
朝起きてぼくは
金井雄二
思潮社
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天皇と「祈り」

2016-11-16 01:20:47 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇と「祈り」
               自民党憲法改正草案を読む/番外41(情報の読み方)

 2016年11月15日の読売新聞(西部版・14版)13面に、天皇の「生前退位」(読売新聞は15日付朝刊から「退位」と表現している)有識者会議の「ヒアリング」の概要が掲載されている。
 6人の発言者のなかで、私が注目したのは渡部昇一(上智大名誉教授)と桜井よしこ(ジャーナリスト)の発言である。
 渡部の発言には「退位せずに摂政で対応」という見出しがついている。

 天皇陛下が(8月に発表したビデオメッセージで)摂政は好ましくないとおっしゃったのは、最後まで国民の目に見えるところで象徴天皇の仕事をしたいということだろう。ありがたいが、宮中で国と国民のためにお祈りくだされば、天皇の仕事は本質的に十分なさったことになる。
 天皇の身体は宮中にあっても、国民のために祈ることが最も大切なことである。(略) 天皇と摂政が併存しても天皇はそのままお祈りをつづけており、元号も変わらない。どちらが「象徴」なのかという問題は生じない。(退位ではなく摂政の設置で対応することは)混乱の多い世界で日本の安定性を示すことにつながり、国威の宣揚にもなる。

 桜井の発言には「譲位は皇室の安定を崩す恐れ」という見出しがついている。

 天皇の役割は、国家、国民のために祭祀を執り行って、祈ってくださることだ。いてくださるだけでありがたい。その余のことを天皇であるための要件とする必要も理由もない。(略)譲位でなく摂政を置かれるべきだ。

 私が注目したのは「祈り」ということばである。
 「宮中で国と国民のためにお祈りくだされば、天皇の仕事は本質的に十分なさったことになる。」(渡部)「天皇の役割は、国家、国民のために祭祀を執り行って、祈ってくださることだ。」(桜井)と、ほとんど同一のことを言っている。
 前回の平川祐弘(東大名誉教授)の発言に似たところがある。

 「天皇陛下ご苦労さま」という国民の大衆感情が天皇の退位に直結してよいのか。民族の象徴であることは、祈ることにより祖先と続くからだ。
 今の天皇陛下が各地で国民や国民の思いに触れる努力はありがたいが、ご自身が拡大された役割だ。次の皇位継承者にも引き継がせたい意向に見受けられ、個人的解釈による天皇の役割を次の天皇に課すことになる。

 「祈り」だけが「象徴」のつとめである。「祈り」は「先祖へとつづく」というのが、平川の主張。国民とのふれあいは「象徴」のつとめではない。
 天皇が大切にしている「国民とのふれあい」を、平川は「拡大解釈」ととらえ批判していた。「国民とのふれあい」の「禁止」(廃止)を訴えているとも言える。
 これを渡部は「宮中で」ということばで言いなおしている。天皇を「宮中」に閉じ込めようとしている。桜井はそこまでは言わないが「いてくださるだけでありがたい」という形で、国民との接触を遠ざけている。
 ここに私は注目した。この部分を私は「誤読」し「妄想」する。。
 天皇は大災害が起きると被災者のもとにかけつける。ふれあう。それは天皇にとっては、たぶん「国民とともに、国民の安全を祈る」ということなのだと思う。「祈り」は「祈り」を必要とする人の隣にいて、いっしょに「祈る」ときに、「祈り」がつたわる。
 戦没者追悼式なども同じだろう。国民のいるところで、国民といっしょに「祈る」。天皇の基本姿勢である。思想である。別な場所、国民から離れた場所での「祈り」ではだめであるというのが天皇の「思想/人柄」である。
 平川、渡部、桜井は、「国民といっしょ」という天皇の「あり方(人柄)」を否定している。国民と切り離し、「宮中」に閉じ込める。「人柄」の否定は「神格化」とも言えるが、一種の「隔離」でもある。「隔離」した場所で「祈り」に専念させる。その「祈り」は国民には見えない。「神格化された存在/神」であるから見える必要はないということかもしれない。
 この三人に共通するのは、もうひとつ。「摂政の設置」。これは、天皇の「負担を軽くする」という「名目」で提言されているが、私は別な見方をする。三人は「摂政」の設置で、国民と天皇の分断を狙っている。
 図式化すると。

天皇-摂政-国民

 ここに「連続」と「分断」がある。図式は、次のように言い換えることができる。

天皇-宮中-国民

 このことは、今回の渡部の発言ではっきりした。天皇と国民を触れさせないというのが、安倍の狙いなのだ。
 天皇が「生前退位」の思いを国民に直接語りかける前に、官邸(安倍側)と宮内庁(天皇側)で水面下の折衝がおこなわれていたことはすでに報道されている。官邸が「摂政の設置」を持ちかけ、天皇が拒んだ。天皇は、摂政によって天皇と国民との直接的ふれあいがなくなると感じたから拒んだのだろう。

 「摂政」は、どのように行動するのだろうか。
 現行憲法には、天皇の「行為」について、こう規定している。

第三条
天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

 自民党の憲法改正草案では、こうである。

第六条の十項の4
天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。

 たぶん、これに準じることになる。現行憲法では「内閣の助言と承認」であったものが、改正草案では「内閣の進言」にかわっている。
 「進言」は「助言」よりも、「こうしなさい」という指示が強いと私には感じられる。「指示」を含んでいるからこそ「承認」は必要としない。承認していないことは「指示」できない。
 私はここから、安倍は「摂政」を置くことで、「摂政」への「指示(進言)」強める。つまり「支配」することを狙っていると「妄想」する。
 天皇を国民と分断し、「摂政」を通じて、実質的に国民を支配する。
 このとき「象徴」は、どうなるのか。「象徴」のつとめはどうなるのか。ないがしろにされる。二の次になる。
 これは現行憲法と自民党の改正草案を比較するとわかる。

(現行憲法)
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
(改正草案)
天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 改正草案では、天皇は「象徴」である前に「元首」である。その「元首」の代理(?)として「摂政」がある。その「摂政」に内閣は「進言する(指示する)」。このとき天皇は名目上は「元首」であるが、実行力はない。お飾りである。
 「元首」である天皇を「祈り」に専念させ、「象徴」としてもちあげ(お飾りにし)、「内閣」が「摂政」を通じて「国事」をおこなう。「内閣」が「国事」を指示する。
 私の「妄想」では、日本はそういうふうに変わっていく。「有識者会議」は、そういう道筋を「安倍の独断」ではないと否定するための「アリバイ」づくりに見える。




*

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