天皇と「祈り」(その2)
自民党憲法改正草案を読む/番外42(情報の読み方)
天皇の「生前退位」をめぐる有識者会議のヒアリング。平川祐弘(東大名誉教授)、渡部昇一(序地代名誉教授)、桜井よしこ(ジャーナリスト)の発言に「祈り」ということばが出てくることについてはすでに書いた。
「祈り」とは何か。
天皇の災害被災地まで出向いての国民との触れ合いは、国民といっしょにいることが「安全」への「祈り」へとつながっていると私は思う。このとき「祈り」は「願い」と言い換えても通じるだろう。今の天皇の「祈り」は「宗教」とは無関係である。
渡部の「天皇の身体は宮中にあっても、国民のために祈ることが最も大切なことである」(2016年11月15日の読売新聞、西部版・14版、13面)は、「国民といっしょ」という形を否定した「祈り」である。この「国民と直接接しない祈り」について再び考えてみたい。平川の発言を参考にして考えてみる。
平川の「民族の象徴であることは、祈ることにより祖先へと続くからだ」(2016年11月08日の読売新聞、西部版・14版、13面)は、「どこで」祈るのか、ということがわかりにく勝った。
2016年11月15日の読売新聞、西部版・14版、13面に第三回の有識者会議議事録(07日、要旨)が掲載されている。政府が首相官邸のホームページで公表したものである。(私の検索の仕方が悪いのかもしれないが、どこに「公表」されているか、今回もみつけられなかった。読売新聞から転載する。)それによると、平川の発言は、こうなっている。
2016年11月08日の読売新聞の記者が聞き取り要約したものと、ずいぶん違う。
「祖先」という表現のかわりに「天皇家は、続くこと」ということばがある。天皇家が続くこと、つまり先祖から子孫へつづく。この文脈で「聖(なるもの)」ということばが出てきていることに、私は驚いた。「聖」の主張こそ、平川の根幹なのだと思った。
平川が言う「祈り」は、あくまで「天皇家」の「いのちがつづくこと」への「祈り」である。国民一般のいのちがつづくこと、国民の安全を祈ることではない。国民の安全を「祈る」ことを平川は「俗」と呼んでいる。
「天皇家」は「聖なるもの」である。「天皇家の継続」を祈る「祈り」は「聖なる祈り」。「聖なるもの」と「祈り」が結びつけられると、私は「宗教」を感じてしまう。そして、「聖なる天皇という宗教」に国民(俗)は従え、という主張につながりそうな感じがする。「俗」を支配する「聖なるもの」。「聖なるもの」を「象徴」する「天皇」。宗教だから「天皇=神」ということにつながるような気がする。
で、このとき。
天皇が「私は神である」と言うのではない。実際、今の天皇は「私は神である」とは言っていない。「象徴である」といい、「象徴としてのつとめは国民と触れ合い、国民と一体になること」と言っている。
ここからが、一番の問題。
天皇が「神である」というのなら、そんなことを言う権利は天皇にはない、と国民は反発することができる。「天皇が神である」というのは「国民の総意ではない」と主張することができる。つまり、国民は天皇に対して反抗することができる。
ところが、「天皇は神である(聖なる存在である)」と主張するのが、天皇ではなく、平川という「国民(俗)」である。「俗」が「聖なるもの」をかかげて、これが「聖なるもの」であると断定するとき、いったい何が生まれるか。どういうことが起きるか。
天皇を「聖なるもの」と断定した「俗」が、天皇は「聖なるものではない」と思う「俗」を支配し、秩序をつくろうとする。簡単に言うと、
という「聖-俗」のヒエラルキーが生まれる。「天皇は聖なるものではない」と主張する人間は「天皇は聖なるものである」と主張する「権力」と戦わなくてはならない。「権力」はそのとき「おれに反抗するのか」とは言わずに「聖なるものを否定するのか」という論理で自己保身しながら、俗を弾圧する。
ヒエラルキーを「聖」ということば(概念/論理)でごまかしながら、平川が「権力」を握ることになる。
しかも、そこに「天皇」を「宮中」に閉じ込めるということがくわわる(これは渡部の主張だが)。国民とは触れさせないということが生まれる。「触れさせない(触れることができない)」ということ「聖」が補強される。天皇の「真意」は隠され続ける。平川の「意図」だけが、「聖-俗」を決定する。とても便利(?)な支配構造である。
平川のかわりに、「摂政」を、あるいは安倍を入れて図式化してもいい。
これを「権力構造(支配構造)」と呼ばずに、「聖」と呼んでいるところに注意しないといけない。
今の天皇は「天皇=神」という考え方からははるかに遠い考えを持っているように見える。天皇を神格化しない今の天皇は、権力が国民を支配するという構造を強化するには、きっと邪魔である。国民を支配することは「国民とともにある天皇」を支配することになる。国民を自由に支配するためには、天皇国民から切り離し、神格化し、国民と無縁の存在にすることが必要なのだ。
その動き(野望)のために、高齢の天皇が利用されている、と私には感じられる。
この天皇の神聖化については、有識者(だれか不明)が「政教分離」の視点から質問している。
平川は、憲法を無視している。「憲法上の解釈」を認めない。そのくせ「特例法」を「憲法違反」と言うように、都合に合わせて憲法を利用している。矛盾している。
付け加えて「歴史上そうだった」と簡単に言っている。「歴史上そうだった」というとき、具体的に「歴史的事実」をあげたのかどうか、読売新聞の記事ではわからない。いつ、どの天皇が「天皇家がつづくこと」を「祈った」のか。それを平川がどう証明したのか(どのような文献を例としてあげたのか)わからない。
もしかすると「歴史上そうだった」という専門家の意見で、天皇は天皇家の存続のために祈るということを「歴史的事実」にしてしまおうとしているのかもしれない。
*
いったい有識者会議のなかで、どんな議論が起きているのか。ヒアリングに応じた「専門家」がどう発言したのか、「要旨(要約)」だけでは、さっぱりわからない。
そのことに加えて、もうひとつ、変なことが起きている。
衆院の解散が噂されている。もし、衆院が解散され、総選挙が行われれば、国民の関心は選挙に向かう。「有識者会議」の議論の中身は話題にならなくなるだろう。関心を拡散させ、国民が何も理解しない内に、どたばたと既成事実がつくられていく。
*
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自民党憲法改正草案を読む/番外42(情報の読み方)
天皇の「生前退位」をめぐる有識者会議のヒアリング。平川祐弘(東大名誉教授)、渡部昇一(序地代名誉教授)、桜井よしこ(ジャーナリスト)の発言に「祈り」ということばが出てくることについてはすでに書いた。
「祈り」とは何か。
天皇の災害被災地まで出向いての国民との触れ合いは、国民といっしょにいることが「安全」への「祈り」へとつながっていると私は思う。このとき「祈り」は「願い」と言い換えても通じるだろう。今の天皇の「祈り」は「宗教」とは無関係である。
渡部の「天皇の身体は宮中にあっても、国民のために祈ることが最も大切なことである」(2016年11月15日の読売新聞、西部版・14版、13面)は、「国民といっしょ」という形を否定した「祈り」である。この「国民と直接接しない祈り」について再び考えてみたい。平川の発言を参考にして考えてみる。
平川の「民族の象徴であることは、祈ることにより祖先へと続くからだ」(2016年11月08日の読売新聞、西部版・14版、13面)は、「どこで」祈るのか、ということがわかりにく勝った。
2016年11月15日の読売新聞、西部版・14版、13面に第三回の有識者会議議事録(07日、要旨)が掲載されている。政府が首相官邸のホームページで公表したものである。(私の検索の仕方が悪いのかもしれないが、どこに「公表」されているか、今回もみつけられなかった。読売新聞から転載する。)それによると、平川の発言は、こうなっている。
(天皇陛下のお言葉に)世間は感動したが、同情に乗じて特例法で対応することは憲法違反に近い。天皇家は、続くことと、祈るという聖なる役割に意味がある。それ以上の世俗のことを天皇の義務とお考えになるのはいかがなものか。世俗に偏った象徴天皇の役割にこだわれば、能力主義的価値観を持ち込むことになりかねず、皇室制度の維持は困難になる。
2016年11月08日の読売新聞の記者が聞き取り要約したものと、ずいぶん違う。
「祖先」という表現のかわりに「天皇家は、続くこと」ということばがある。天皇家が続くこと、つまり先祖から子孫へつづく。この文脈で「聖(なるもの)」ということばが出てきていることに、私は驚いた。「聖」の主張こそ、平川の根幹なのだと思った。
平川が言う「祈り」は、あくまで「天皇家」の「いのちがつづくこと」への「祈り」である。国民一般のいのちがつづくこと、国民の安全を祈ることではない。国民の安全を「祈る」ことを平川は「俗」と呼んでいる。
「天皇家」は「聖なるもの」である。「天皇家の継続」を祈る「祈り」は「聖なる祈り」。「聖なるもの」と「祈り」が結びつけられると、私は「宗教」を感じてしまう。そして、「聖なる天皇という宗教」に国民(俗)は従え、という主張につながりそうな感じがする。「俗」を支配する「聖なるもの」。「聖なるもの」を「象徴」する「天皇」。宗教だから「天皇=神」ということにつながるような気がする。
で、このとき。
天皇が「私は神である」と言うのではない。実際、今の天皇は「私は神である」とは言っていない。「象徴である」といい、「象徴としてのつとめは国民と触れ合い、国民と一体になること」と言っている。
ここからが、一番の問題。
天皇が「神である」というのなら、そんなことを言う権利は天皇にはない、と国民は反発することができる。「天皇が神である」というのは「国民の総意ではない」と主張することができる。つまり、国民は天皇に対して反抗することができる。
ところが、「天皇は神である(聖なる存在である)」と主張するのが、天皇ではなく、平川という「国民(俗)」である。「俗」が「聖なるもの」をかかげて、これが「聖なるもの」であると断定するとき、いったい何が生まれるか。どういうことが起きるか。
天皇を「聖なるもの」と断定した「俗」が、天皇は「聖なるものではない」と思う「俗」を支配し、秩序をつくろうとする。簡単に言うと、
天皇-平川-国民
という「聖-俗」のヒエラルキーが生まれる。「天皇は聖なるものではない」と主張する人間は「天皇は聖なるものである」と主張する「権力」と戦わなくてはならない。「権力」はそのとき「おれに反抗するのか」とは言わずに「聖なるものを否定するのか」という論理で自己保身しながら、俗を弾圧する。
ヒエラルキーを「聖」ということば(概念/論理)でごまかしながら、平川が「権力」を握ることになる。
しかも、そこに「天皇」を「宮中」に閉じ込めるということがくわわる(これは渡部の主張だが)。国民とは触れさせないということが生まれる。「触れさせない(触れることができない)」ということ「聖」が補強される。天皇の「真意」は隠され続ける。平川の「意図」だけが、「聖-俗」を決定する。とても便利(?)な支配構造である。
平川のかわりに、「摂政」を、あるいは安倍を入れて図式化してもいい。
天皇-摂政(内閣が進言する)-国民
天皇-安倍(内閣の長)-国民
これを「権力構造(支配構造)」と呼ばずに、「聖」と呼んでいるところに注意しないといけない。
今の天皇は「天皇=神」という考え方からははるかに遠い考えを持っているように見える。天皇を神格化しない今の天皇は、権力が国民を支配するという構造を強化するには、きっと邪魔である。国民を支配することは「国民とともにある天皇」を支配することになる。国民を自由に支配するためには、天皇国民から切り離し、神格化し、国民と無縁の存在にすることが必要なのだ。
その動き(野望)のために、高齢の天皇が利用されている、と私には感じられる。
この天皇の神聖化については、有識者(だれか不明)が「政教分離」の視点から質問している。
有識者 (天皇の)公務の題意は祈ることだという解釈か。(略)政府見解では祭祀は指摘行為に分類されている。
平川氏 (祈ることは)公務というより役割だ。憲法上の解釈ではなく、歴史上そうだった。
平川は、憲法を無視している。「憲法上の解釈」を認めない。そのくせ「特例法」を「憲法違反」と言うように、都合に合わせて憲法を利用している。矛盾している。
付け加えて「歴史上そうだった」と簡単に言っている。「歴史上そうだった」というとき、具体的に「歴史的事実」をあげたのかどうか、読売新聞の記事ではわからない。いつ、どの天皇が「天皇家がつづくこと」を「祈った」のか。それを平川がどう証明したのか(どのような文献を例としてあげたのか)わからない。
もしかすると「歴史上そうだった」という専門家の意見で、天皇は天皇家の存続のために祈るということを「歴史的事実」にしてしまおうとしているのかもしれない。
*
いったい有識者会議のなかで、どんな議論が起きているのか。ヒアリングに応じた「専門家」がどう発言したのか、「要旨(要約)」だけでは、さっぱりわからない。
そのことに加えて、もうひとつ、変なことが起きている。
衆院の解散が噂されている。もし、衆院が解散され、総選挙が行われれば、国民の関心は選挙に向かう。「有識者会議」の議論の中身は話題にならなくなるだろう。関心を拡散させ、国民が何も理解しない内に、どたばたと既成事実がつくられていく。
*
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このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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