詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「通販生活」を買って応援

2016-11-27 19:26:04 | 自民党憲法改正草案を読む

「通販生活」を買って応援
               自民党憲法改正草案を読む/番外42(情報の読み方)

 「通販生活」(16年冬号)が前号の反響を掲載している。「自民党支持の読者のみなさん、今回ばかりは野党に一票、考えていただけませんか。」という特集に 172人の読者から、批判、質問があったという。
 「買い物雑誌は商品の情報だけで、政治的な主張は載せるべきではない」「買い物カタログに政治を持ち込むな」ということらしい。「政治的記事を載せるなら両論併記で載せるべきだ」とも。
 「通販生活」は「通販生活」で考え方を書いているが、私は私のことばで書いてみたい。「通販生活」の主張とは違う視点から書いてみたい。

 何も言わなかったとしたら「中立か」。
 私は夏の参院選の、籾井NHKの報道を思い出している。NHKは7月3日(だったかな?)の「週間予定」を伝える場面で、「10日が参院選である」と伝えなかった。「夏場所初日」と「世界遺産の審議始まる」(だったと思う)のふたつを10日の予定として上げていた。また9日のニュースでは「あす7月10日は、ナナとトウで納豆の日」とは入ったが「あすは参院選投票日」とは言わなかった。参院選が「ある」と積極的には報道しなかった。他の時間帯でも、選挙報道は短くなっていた。
 私は7月3日に、今回の参院選の異常さに気付いた。いわゆる「選挙サンデー」なのに異様に静かである。報道がないから、選挙がないかのように静かになっている。
 この「何も言わない」というのは、だれにも肩入れしていないから「中立」の立場のように見える。しかし、実際は違う。
 報道が行われないということは、既成の大政党を「隠れて支持する」ということにつながる。報道が活発に行われないかぎり「少数意見」というのは表に出てこない。「少数意見」がつたわる機会を奪うことである。
 選挙結果の分析報道(朝日新聞)が、それを明確にしている。若者の自民党支持が多かった。それは若者が自民党以外の政党があることを知らなかったからである。弱小政党の存在(名前)を知らなかった。安倍が「民進党には共産党がもれなくついてくる」と言ったときから、政党は自民党と共産党になってしまった。二者択一の中で、若者は自民党に投票した。
 今回の「選挙報道をしない作戦」を指揮したのが電通かどうか知らないが、驚くべき手法である。「宣伝」の裏をかいた画期的な方法である。報道をなくしてしまえば、いま大手を振るっているものの存在しか見えなくなる。小さな声は聞こえない。存在しないに等しくなる。存在しないと見なされる。

 「大きな存在」に対して、ひとはどう反応するか。あえて「賛成」とは言わない。言う必要がない。すでに「大多数」であるからだ。また「声」をあげても「偏っている」という批判を浴びることはない。「大多数」だからである。
 「小さな存在」が声を上げると、「それは少数意見」、つまり「偏っている」「大多数ではない」と批判する。どこでも「声」をあげるひとは少ないから、表に出てくる「少数意見」は、実際の少数意見よりもさらに少ない感じになる。
 ここで問題が起きる。「大多数」が正しいと言い切れるか。
 ヘンリー・フォンダが主演した「十二人の怒れる男」を思い出そう。「有罪」に疑問を抱いたのは最初は一人だった。対話を重ねていくにしたがって、一人ずつ「有罪」から「無罪」へと意見を変えて言った。「事実」は「対話」をとおして見えてくることがある。常に「少数意見」に耳を傾ける必要がある。
 「少数意見」が「間違っている」ときもあるだろう。それはそれで「間違っている」ということを「対話(ことば)」で明確にする必要がある。
 発言を封じたまま、対話を省略したまま「多数決」に走ってはならない。これが民主主義の基本。

 「通販生活」は「少数意見」を語っただけである。「通販生活」に対して「買い物に政治を持ち込むな」と「少数意見」封じるように迫るのではなく、ほかの企業にもっと「政治的発言をしろ」と言うべきだろう。誰もが積極的に政治的発言をする、政治的対話をするという状況をつくっていくことが民主主義である。意見の多様性が必要なのだ。
 だいたい人は商品を買うとき、その商品をつくっているメーカーが何党を支持しているか、その商品を売っている店が何党を支持しているか、気にしない。ほしいものを買う。必要なものを買う。同じものが同じ値段で売られていれば、なじみのある店で買うだろうが、そうでなければ安い方で買う。ある店の「主張」に共感して、多少高くてもその店を利用するということもあるかもしれないが、すべてをその店から買うということは現実的にはありえないだろう。
 「偏っている」というのは「少数意見を言うな」の言い換えであり、言論弾圧である。「政治的発言をするな」と言っている人は、それに気がついていない。無意識に「大多数」に加担している。

 「言わない」という行動が何を生み出すか、それを見つめないといけない。
 私は「通販生活」をとおして何かを買ったことは一度もないが、今回も「通販生活」の姿勢を応援するために雑誌を買った。「多様性」こそが民主主義の基本であり、「多様性」は「少数意見」を排除したところには存在しない。



 自民党の現行憲法と憲法改正草案を比較しておこう。

(現行憲法)
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(改正草案)
第十三条
全て国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利につ
いては、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。 

 「個人」かち「人」に変更されている。「個人」の「個」は「多様性」と同じ意味。改正草案は人間の「多様性」を否定している。「少数意見」を否定している。
 「通販生活」に寄せられた批判も「少数意見」の否定であり、それは自民党の憲法改正草案の発想につながっている。
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高柳誠『高柳誠詩集成Ⅱ』(2)

2016-11-27 10:07:13 | 詩集
高柳誠『高柳誠詩集成Ⅱ』(2)(書肆山田、2016年11月05日発行)

 『半裸の幼児』の「島」という作品。短い行分けの部分と散文形式の部分が交錯しながら動いていく。短い部分だけを引用する。

海。
隔てるものと
繋ぐもの--。

海。
寡黙にして
饒舌なるもの--。

海。
誕生と死とを
包含するもの--。

海。
動きつつ
静まるもの--。

海。
隔てるものと
繋ぐもの--。

 最初の三行が言いなおされ、最後に最初にもどる。
 「隔てる」「繋ぐ」という対立する動詞が、「寡黙/饒舌」「誕生/死」「動く/静まる」と変化する。
 「隔てる=寡黙/誕生/動く」か。「繋ぐ=饒舌/死/静まる」か。私の印象では「隔てる=寡黙/死/静まる」「繋ぐ=饒舌/誕生/動く」。
 「言い換え」ではなく、対立するうごきがあるということが描かれているのだろう。
 「隔てる」は「寡黙」によって生まれることもあれば「饒舌」によって生まれることがある。「饒舌」をうるさく感じ、聞こえるけれど「聞かない」という反応が「隔てる」になる。「誕生」は「いのち」の新しい「繋がり」と定義できるが、同時に「肉体」の「分離(隔てる)」でもある。母の肉体から分離することで子は「誕生」する。「静まる」は「隔てられて」静かになることもあれば、「繋がれる」ことで静かになることもある。
 特定はできない。そのときそのときで、「同じことば」が「違うこと」を指すことがある。特定せずに「動いてる」ものとしてとらえることが大事なのだろう。

海。
誕生と死とを
包含するもの--。

 この三行は、「誕生」と「死」を別の行には分けずに書いている。そして「包含する」という別の「動詞」で「ひとつ」に統一している。世界は「誕生/死」という反対のものを「包含」している。「包含」のなかから、あるときは「誕生」ということばで何かがあらわれ、別の瞬間には「死」ということばで何かがあらわれる。それは別のことばで語られるけれど、最初は「ひとつ」の状態だった。
 「誕生/死」という対立することばではなく「包含する」ということばの方が重要である。

海。
動きつつ
静まるもの--。

 この言い直しの部分では「動き/静まる」ではなく、「つつ」ということばの方が重要なのだと思う。「動く/静まる」が同時に存在している。「動く/静まる」が「包含されている」。
 触れる順序が逆になるが、

海。
寡黙にして
饒舌なるもの--。

 この三行でも「寡黙/饒舌」よりも「にして/なる」ということばに注目しなければならないのだろう。寡黙であり「つつ」饒舌である。
 ただし、高柳は「ある」という動詞ではなく「する」「なる」という動詞を基本にしている。(「して」の「し」は「する」から派生している。)
 「世界(宇宙)」は「ある」のではなく「する」「なる」。宇宙に「する」、宇宙に「なる」。
 「ことば」が高柳が向き合っているものを「宇宙にする」。「ことば」によって高柳が向き合っているものが「宇宙になる」。
 こう考えればいいのかもしれない。
 「海」は「ことば(書き方)」によって「隔てるもの」に「なる」こともあれば、「繋ぐもの」に「なる」こともある。高柳が「隔てるもの/つなぐもの」に「する」。

 詩は、そこに「ある」のではない。ことばによって詩に「なる」。ことばによって詩に「する」ひとが「詩人」である。高柳である。
 きのう触れた時里二郎のことを書いた詩。《非在のアオサギ》などのことばによって、時里は「詩人になる」、そして高柳は《非在のアオサギ》ということばによって時里を「詩人にする」。「詩人」として「認識する(認識している)」と読み直すことができるだろう。

 「する/なる」は「断定/固定化」のように見えるかもしれないが、そうではない。「動きつつ」の「つつ」が明らかにしているように、そこには常に「同時」に「断定/固定」を否定するものが動いている。
 だから詩は書き続けられる。終わりがない。
高柳誠詩集成 1
高柳 誠
書肆山田
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千人のオフィーリア(メモ22)

2016-11-27 00:02:04 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ22)

オフィーリアが「欠伸」という文字を知ったとき、
廊下の窓から教室を覗いたオ(ハ?)ムレットと目が合った。
まさか帰ってくるなんて!

ただひとり帰って来たナントカという
あの男みたい。

「シチューは煮えたかしら」と鍋をかき回した後に、
過去を思い出したみたいに「欠伸した」。
「あくび」というルビが振ってあって、
誘われるように口を開けて

まさか。
欠伸を追いかけて滲んでくる涙。
とめることができない。

できることなら、
乙女の喜びの涙と思ってくれない?
オフィーリアは期待するけれど、
「ちょっと見ないうちババアになったなあ」という目つきだけ残して
目を逸らした

口の端から垂れ下がる涎を源とする川を流れるオフィーリアが、
二十三人目だったときの、だれも同情してくれない
思い出を思い出すために
二十四人目のオフィーリアになったの。





*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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