詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浜江順子『密室の惑星へ』

2016-11-11 10:29:45 | 詩集
浜江順子『密室の惑星へ』(思潮社、2016年09月30日発行)

 浜江順子『密室の惑星へ』には、天沢退二郎の「帯」がついている。それに、こう書いてある。

浜江順子の、最も際立った特質は、一言にして言えば、「批評」ということになるだろう。

 天沢の言う「批評」とは何だろうか。「黒い波」を読みながら、考えてみた。

波という異形が
闇の奥を蹴破る
光の渦に溜めた
水が青く白く
逆上して発光する

 一行目の「異形」が「批評」である。「波が/闇の奥を蹴破る」でもいいのだが、その「波」を「異形」と言いなおす。そして「波」ではなく「異形」そのものを「主語」にかえてしまう。「同化」ではなく「異化」。対象を突き放して、別の角度からとらえ直す。そこに起きていることを、ととのえ直す。その表現の全体を「批評」と呼ぶことができる。
 二行目の「蹴破る」は五行目の「逆上して発光する」という形で言いなおされている。だから、これも「批評」と呼ぶことができる。ただ押し寄せて「蹴破る」のではなく、その「蹴破る」のなかには「逆上する」という「逆向き」の運動がある。それは三行目の「溜める」という動詞とも響きあう。力を「溜める」だけではなく、それを「逆上する」というところまで持続する。そのあと、溜めた全エネルギーを放出する形で「蹴破る」。その「蹴破る」は「発光する」という動詞で言いなおされる。
 このとき「波」は「押し寄せる」ものではなく「発光する」という運動として「異形」完成させる。
 とてもかっこいい。かっこいい詩だなと思う。
 同じ運動が、それにつづく。

波の残像が
遠くうごめく
胸の内で
うっすら泡ごと
薄く流れる

 これは、最初の五行の言い直しである。つまり「批評」である。「波」の「現実」を描いた後、その「残像(記憶)」を描いている。「胸の内」とあるのは、それが「記憶(残像)」だからである。
 で、ここからが問題。
 何によって、そこにあるもの、そこに起きていることを「異化」するか。つまり、批評するか。浜江は「概念」によって「異化」している。この詩の場合で言えば「異形」の「異」、「残像」の「残」である。それは、それぞれ「異なる」「残る」という動詞として読み直すことができるが、この「動詞」はそれぞれ「頭」で動いている動詞であって、「肉体」が動いているわけではない。
 「蹴破る」という動詞は「肉体」で追認することができる。何かを蹴破った「肉体」の記憶をとおして、読者は「波」になり、それから闇の奥を蹴破るのである。そのとき「溜める」「逆上する」は、感情の「逆流」となって「肉体」をさらに活気づかせる。そのとき感情は「発光する」。何かしら、光を放っている。
 だが「異なる」というのは「識別」である。「残る」というのも、そこに何かが「残っている」という「識別」であり、それは「理性」であり、「頭」が判断したことがらである。
 この「頭」の存在を「批評」に結びつけてもいいかもしれないが、私は、こういう「批評」は理解はしても、信頼はしない。もっと簡単に言うと、ついていきたくない。騙されそう、と警戒してしまう。私は頭が悪いので、騙される前に、遠ざかろうとしてしまう。
 かっこいいとは思うが、そのかっこよさに「ついて行ってはだめ」と、私の中の何かが引き止めるのである。
 言いなおすと……。
 「沈黙のなかでベーコンの絵の歪みのように」(ふたつの顔)というのは、浜江は「ベーコンの絵を知っている」ということを語っている。「歪み」ということばで定義している(批評している)ことを語っている。だが、こんなふうに簡略化してしまうと、その「歪み」が「肉体」ではなく「頭」で処理されたものと比較しての「歪み」になってしまう感じがする。ベーコンは「歪み」ではなく、肉体(人間)の「真実」を描いたということが、奇妙な形で「嘘」になってしまう。つまり、私は「騙された」と感じるのである。私は、だから、こういうことばから「遠ざかる」。ほうとうに「見紙」なのか、という疑問がわいてくる。「歪み」ではないのじゃないか、と私の直感は言う。ベーコンを見たときの「肉体」のざわめきが「歪み」ということばに拒絶反応を起こす。

 私が好きなのは、たとえば「無関係な谷間」の次の部分。

                         何を
するかが問題なのではなく、何に隠れるかだけが問題なのだ。

 44ページまで読んできて、ここだけ「文体」が違うと感じ、思わず傍線を引いて立ち止まったのだが、私は、この部分が好きである。「問題」ということばがあるために、これこそ「頭」で動かしていることばのように思えるかもしれないが。
 私は「何」ということばから、こんなことを考えるのである。
 この「何」は「何」としか言えないものである。「それ」「これ」と同じ。日常のなかで、うまくことばにできないけれど、「あ、それ」という形で指さす身振り。その身振りの言語である。身振りで、言い換えると「肉体」で、不定形のままつかみとった何かである。
 だからこそ、その「何」をめぐって、「する」「隠れる」という動詞が動く。「する」はやはり身振りのことばであって、何をするかは明示されない。「隠れる」と対比して考えると「する」は「隠れる」の反対。「あらわれる」「あらわす」である。「肉体(自分の存在)」をどう「あらわす」か。どうやって「世界」に「あらわれる」か。つまり「生まれる」か。これが「隠れる」という動詞と対になって動いている。この対になるなり方が、とても強靱で、おっと驚く。
 これは、45ページで

                     同じこと
は、同じでなく、同じでないということが、同じなのだ。

 と反復されている。この部分も、私は「文体」が美しいと思う。ちょっと浜江の「文体」ではないような印象を持ってしまうのだが。
 で、この「同じことは、同じではなく、同じでないということが、同じなのだ。」は、私の直感の意見では「ベーコンの絵の歪み」である。ベーコンは、他の画家と同じように人間の肉体を描いた。人間の肉体を描くということは同じである。しかし、同じことをしているのに、その絵は他の画家と同じではなくなる。そしてその他の画家と同じではないということをとおして、他の画家と同じように人間を描いた、自分に見える人間を正直に描いたということで同じになる。それは「歪み」ではなく「同じ」と言いなおさないと、ベーコンにならない。「歪み」と言ってしまうと、「頭が整理した識別」になってしまう。
 「歪み」という「概念」でことばを動かしていた浜江が、ここでは「肉体」でことばを動かしている。「身振り」でことばを動かしていると、私には感じられる。だから、ここは好き。だから、信じてしまう。
 「何をするかが問題なのではなく、何に隠れるかだけが問題なのだ。」を「同じことは、同じでなく、同じでないということが、同じなのだ。」という「文体」そのものが「批評」であるべきだと、私は思っている。
 だから、そのふたつの文章に挟まれた次の部分。

関係したくないという意識が関係を生み、関係を結んで
いたいという意識が無関係を生むというパラドックスを
蹴ってしまいたいが、やはりズブズブと沼底に沈み、砂
を食う。

 これが、嫌いだなあ。「騙されたくないなあ」と思ってしまう。「関係/無関係」「意識/無意識」が「概念的」というのではない。「パラドックス」が「概念」なのである。「異形」や「残像」のように、便利すぎることばなのである。「肉体」の動きを省略して「頭」が現実を簡略化する。「同じことは、同じではなく、同じでないということが、同じなのだ。」を「歪み」という「名詞」で代弁するのと同じ。だから簡単に「砂を食う」と「砂を噛む」に通じる比喩になってしまう。

 天沢が「批評」ということばで何を言いたいのか、よくわからないが、私は「批評」ということばから、そんなことを考えた。
密室の惑星へ
浜江順子
思潮社
コメント
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