詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

つたはるみ「刹那」

2016-11-05 11:38:04 | 詩(雑誌・同人誌)
つたはるみ「刹那」(「しるなす」5、2016年07月31日発行)

 つたはるみ「刹那」は、いまの季節に読むと楽しい。名前(つた)と書かれていることが不思議に交錯する。

ある日 玄関の横にある郵便箱の中に
ものが落ちる音がした
歩いて行き郵便箱の扉を開けた
しかし そこには何もなかった
狭い金属の空間が広がっていただけであった
玄関を開け入ろうとすると
郵便物がそこに立っている

静にお辞儀をする
どこから来たのか聞いてみる
静まりかえった国から来たという
数十年前 今は都会に変わった山のある公園から来たという

 私は「郵便物」を「枯れ葉」だと思った。それも「つたの枯れ葉」。風に吹かれて、玄関に迷い込んだ。それをみつける。
 「静にお辞儀をする」が、なつかしい感じで気持ちがいい。一連目の終わりの「立っている」が効果的だ。「立っている」その直立した姿から「お辞儀をする」。その「時間の動き(間合い)」がとても自然だ。
 それは見覚えのある「枯れ葉」に違いない。だから、「どこから来たのか」と聞いてみなくても答えはわかっている。答えは、答えを求めて聞くものではない。ただ確かめるために聞くものだ。

山から来た郵便はその刹那の時間に私に送られて来た
中の写真には 公園に人がかがんでいる
秋日和
広葉樹の木々
影が伸びて来ていた

 「郵便」はほんとうの郵便かもしれない。でも私はこれを「比喩」と読む。「枯れ葉」を「郵便」だと呼んでいるのだと思って読む。なつかしい枯れ葉を見ると、なつかしい光景が思い浮かぶ。「写真」を見るように、あるいは「写真」を見る以上にくっきりと。
 「写真」を見るときでも、人は「写真」を見ていない。かつて見た「光景」を写真をとおして見ている。
 「公園に人がかがんでいる」。その人は誰だろう。かつての詩人、つたかもしれない。何のためにかがんでいるのだろう。落ち葉を拾うためか。その落ち葉を手紙に入れて、だれかに送るためか。その公園にかがんで、落ち葉を拾っていた少女が、きょう、つたの家へ「枯れ葉」となってやってきたのだ。
 そして律儀にお辞儀をした。
 そんな風景として読んでみた。
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千人のオフィーリア(メモ11)

2016-11-05 09:28:26 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ11)

見るのが好きなハムレット。
私の子宮の中にいるあなたが私を知っている以上に、
私の子宮はあなたを知っている。
あなたは亡霊の子。精神の子。

亡霊は私の耳元で唇を動かす。
声にならないけれどあなたには聞こえた。
「見るのが好きなんだ。
ほら、カーテンが。」

覗き見していた。
覗き見を見られている。
みんな予言通り。
亡霊は予言者。
オフィーリアは知っている。

あなたは亡霊の子。精神の子。
目撃者は死ぬ。
精神は死ぬ。
死んで生きる亡霊の子。
あなたに会うためにあなたより先に死ぬ。
先に死んだ方が長生きするの、と
百四十一人目のオフィーリア。





*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
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