つたはるみ「刹那」(「しるなす」5、2016年07月31日発行)
つたはるみ「刹那」は、いまの季節に読むと楽しい。名前(つた)と書かれていることが不思議に交錯する。
私は「郵便物」を「枯れ葉」だと思った。それも「つたの枯れ葉」。風に吹かれて、玄関に迷い込んだ。それをみつける。
「静にお辞儀をする」が、なつかしい感じで気持ちがいい。一連目の終わりの「立っている」が効果的だ。「立っている」その直立した姿から「お辞儀をする」。その「時間の動き(間合い)」がとても自然だ。
それは見覚えのある「枯れ葉」に違いない。だから、「どこから来たのか」と聞いてみなくても答えはわかっている。答えは、答えを求めて聞くものではない。ただ確かめるために聞くものだ。
「郵便」はほんとうの郵便かもしれない。でも私はこれを「比喩」と読む。「枯れ葉」を「郵便」だと呼んでいるのだと思って読む。なつかしい枯れ葉を見ると、なつかしい光景が思い浮かぶ。「写真」を見るように、あるいは「写真」を見る以上にくっきりと。
「写真」を見るときでも、人は「写真」を見ていない。かつて見た「光景」を写真をとおして見ている。
「公園に人がかがんでいる」。その人は誰だろう。かつての詩人、つたかもしれない。何のためにかがんでいるのだろう。落ち葉を拾うためか。その落ち葉を手紙に入れて、だれかに送るためか。その公園にかがんで、落ち葉を拾っていた少女が、きょう、つたの家へ「枯れ葉」となってやってきたのだ。
そして律儀にお辞儀をした。
そんな風景として読んでみた。
つたはるみ「刹那」は、いまの季節に読むと楽しい。名前(つた)と書かれていることが不思議に交錯する。
ある日 玄関の横にある郵便箱の中に
ものが落ちる音がした
歩いて行き郵便箱の扉を開けた
しかし そこには何もなかった
狭い金属の空間が広がっていただけであった
玄関を開け入ろうとすると
郵便物がそこに立っている
静にお辞儀をする
どこから来たのか聞いてみる
静まりかえった国から来たという
数十年前 今は都会に変わった山のある公園から来たという
私は「郵便物」を「枯れ葉」だと思った。それも「つたの枯れ葉」。風に吹かれて、玄関に迷い込んだ。それをみつける。
「静にお辞儀をする」が、なつかしい感じで気持ちがいい。一連目の終わりの「立っている」が効果的だ。「立っている」その直立した姿から「お辞儀をする」。その「時間の動き(間合い)」がとても自然だ。
それは見覚えのある「枯れ葉」に違いない。だから、「どこから来たのか」と聞いてみなくても答えはわかっている。答えは、答えを求めて聞くものではない。ただ確かめるために聞くものだ。
山から来た郵便はその刹那の時間に私に送られて来た
中の写真には 公園に人がかがんでいる
秋日和
広葉樹の木々
影が伸びて来ていた
「郵便」はほんとうの郵便かもしれない。でも私はこれを「比喩」と読む。「枯れ葉」を「郵便」だと呼んでいるのだと思って読む。なつかしい枯れ葉を見ると、なつかしい光景が思い浮かぶ。「写真」を見るように、あるいは「写真」を見る以上にくっきりと。
「写真」を見るときでも、人は「写真」を見ていない。かつて見た「光景」を写真をとおして見ている。
「公園に人がかがんでいる」。その人は誰だろう。かつての詩人、つたかもしれない。何のためにかがんでいるのだろう。落ち葉を拾うためか。その落ち葉を手紙に入れて、だれかに送るためか。その公園にかがんで、落ち葉を拾っていた少女が、きょう、つたの家へ「枯れ葉」となってやってきたのだ。
そして律儀にお辞儀をした。
そんな風景として読んでみた。