監督 東陽一 出演 常盤貴子、池松壮亮、佐津川愛美
東陽一と言えば「サード」。その後、「もう頬づえはつかない」「四季・奈津子」とつづけて見たが、映像の奇妙な女っぽさが気になり、何を撮ろうとしているか、私にはよくわからなかった。
今回の映画も、わからない部分が多すぎるのだが。
三つのシーンが印象に残る。まず、常盤貴子と池松壮亮の出会い。髪を切る。切るというより、はさみが髪に触れていく。触れられることで、髪が自然に肉体を離れていく。宙に舞っていく。そのアップ。これは池松壮亮には見えるが、常盤貴子には見えない。けれど見ている。目ではなく、「肉体」そのもので。
次に、常盤貴子が新しいベッドで横になるシーン。夫の手が乳房をセーターの上から愛撫する。池松壮亮の手が髪を愛撫する。常盤貴子は、二人の手の違いを感じている自分自身の「肉体」におぼれていく。
ここで私は、髪をカットするシーンは常盤貴子が彼女自身の「肉体」に酔っていたのだと気づく。髪とはさみの触れ合いが官能的に見えるとしたら、常盤貴子があってこそなのだ。常盤貴子の髪(肉体)が、すべてを生み出している。そのことに酔っている。酔っているから、はさみに触れられて宙に舞っていく髪が見えてしまう。見るではなく、見える。
ラストシーン。常盤貴子がソファの上でうたた寝をする。空中に毛布が舞い、ソファの背後に降りてくる。眠っている常盤貴子を背後からするすると覆っていく。常盤貴子は、その動きを肌で感じる。全身がつつまれる感じに、安心して眠り始める。
この瞬間、常盤貴子は池松壮亮から解放されたのだとわかる。池松壮亮に髪を切られることから始まった欲望(官能/陶酔)を求める「焦り/苦悩」が終わったのだと感じた。常盤貴子に触っていたものが遠く去り、違うものが「全身」をつつむ。
触覚から始まり、触覚で終わる映像の間にストーリーがあるのだけれど。これが、私にはよくわからない。触られることで目覚めた自信、自惚れ(?)が常盤貴子の異常な行動に駆り立てる。頭ではわかるが、「肉体」で実感(共感)できない。(私が男だからか。)そして、頭だけで「わかる」から、どうしても笑ってしまうことになる。
変な映画だ。変な女を描いた映画だ、と思ってしまう。
美容院にやってきた不気味な青年が連続放火犯で、彼は異性(女性)に触れられたいという欲望をもっていた、というのは映画の触覚のテーマと重なるのだけれど、放火は「女性的」な欲望だと決めつけているようで後味が悪い。
映画のテーマの象徴となっている「木琴」も、ことばで書かれた「小説」なら違和感がないかもしれないが、映画ではちぐはぐ。木琴(音楽)は音。それも「叩く」音。触覚とは別なもの。さらに「木琴」に、だれもいない家、二階の開いた窓という映像が加わると、「理屈」として響いてくる。
「こころの音楽」を探している、というテーマが、わざとらしく聞こえる。
空家の映像はない方がいいだろう。乱れた木琴の音(少女がでたらめに叩く木琴の音)を常盤貴子の心理描写としだけ使えばいい。たとえば常盤貴子が白いフリルのドレスを捨てに行くシーン。そのドレスを池松壮亮が見つけたときの驚き。そこに和音にならない「木琴」の音が響く。あるいは常盤貴子が夫と隣り合わせにすわってメールで会話する。「木琴」がぽつり、ぽつりと一音ずつ鳴る。和音を探して鳴る、という感じにすれば、それが「こころの音(こころの音楽を求める音)」として「説明(ことば)」を越えて聞こえてくる。木琴がバックミュージックに徹すれば、音が心理描写になる。音楽(音)のなかには映像がある。でたらめな音からはいらだちが聞こえる。いらだつ肉体が見える。いらだった記憶を、観客は自分の肉体として思い出す。そのとき見た風景も。
バックミュージックだけでは観客に「こころの音」かどうかわからないと東陽一は心配するのかもしれない。しかし、つたわらなければつたわらないでかまわないのが映画ではないだろうか。
触覚と官能の欲望を女性の肉体をとおして描くといえば、私はジェーン・カンピオン監督の「ピアノレッスン」を思い出す。ホリー・ハンターがピアノを弾いている。ハーベイ・カイテルがピアノの下にもぐりこみ、ホリー・ハンターのストッキングの穴をみつけ、指で触れる。そのときホリー・ハンターの「肉体」のなかで官能の音楽が走り出す。あの美しいシーン。触覚と音楽の融合。
ジェーン・カンピオンは「ある貴婦人の肖像」の肖像でも、触覚から始まる女性の官能、陶酔をベッドの房飾りをつかって描いていた。
私はジェーン・カンピオンの女性の描き方に衝撃を受けたので、どうしてもその視点で映画を見てしまうのかもしれないが。
東陽一といえば「サード」と最初に書いた。その印象が強すぎて、それ以後の「女性映画」が私にはピンと来なかった。女性を描きたかったのか、と、今回の映画でやっとわかった。いま「もう頬づえはつかない」「四季・奈津子」を見れば違ったものに見えるかもしれない。
東陽一のテーマが女性とは思わなかったが「サード」には忘れられないシーンがある。森下愛子がヤクザとセックスをする。仕方なしにしたセックスだけれど、官能が動く。おわって放心する森下愛子の肌を汗がすっと流れる。光る一筋の汗が森下愛子のなかで動いた官能の強さを語っている。このシーンを美しいと感じるのは、男が女の官能を目覚めさせ、女を虜にしたいという男の願望ゆえかもしれないが。
その後の「四季・奈津子」や「マノン」はソフトな映像に終始している感じがして、私には不満がある。それで東陽一の映画を見なくなった。今回の映画でも、髪を切った後の常盤貴子がひとりでワインを飲むシーンは無意味に「ロマンチック」でぎょっとしてしまう。
あ、でも、こんなに批判ばかり書いてしまうのは、どこかに気に入った部分があるからでもあるんだろうなあ。
(KBCシネマ1、2016年11月16日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
東陽一と言えば「サード」。その後、「もう頬づえはつかない」「四季・奈津子」とつづけて見たが、映像の奇妙な女っぽさが気になり、何を撮ろうとしているか、私にはよくわからなかった。
今回の映画も、わからない部分が多すぎるのだが。
三つのシーンが印象に残る。まず、常盤貴子と池松壮亮の出会い。髪を切る。切るというより、はさみが髪に触れていく。触れられることで、髪が自然に肉体を離れていく。宙に舞っていく。そのアップ。これは池松壮亮には見えるが、常盤貴子には見えない。けれど見ている。目ではなく、「肉体」そのもので。
次に、常盤貴子が新しいベッドで横になるシーン。夫の手が乳房をセーターの上から愛撫する。池松壮亮の手が髪を愛撫する。常盤貴子は、二人の手の違いを感じている自分自身の「肉体」におぼれていく。
ここで私は、髪をカットするシーンは常盤貴子が彼女自身の「肉体」に酔っていたのだと気づく。髪とはさみの触れ合いが官能的に見えるとしたら、常盤貴子があってこそなのだ。常盤貴子の髪(肉体)が、すべてを生み出している。そのことに酔っている。酔っているから、はさみに触れられて宙に舞っていく髪が見えてしまう。見るではなく、見える。
ラストシーン。常盤貴子がソファの上でうたた寝をする。空中に毛布が舞い、ソファの背後に降りてくる。眠っている常盤貴子を背後からするすると覆っていく。常盤貴子は、その動きを肌で感じる。全身がつつまれる感じに、安心して眠り始める。
この瞬間、常盤貴子は池松壮亮から解放されたのだとわかる。池松壮亮に髪を切られることから始まった欲望(官能/陶酔)を求める「焦り/苦悩」が終わったのだと感じた。常盤貴子に触っていたものが遠く去り、違うものが「全身」をつつむ。
触覚から始まり、触覚で終わる映像の間にストーリーがあるのだけれど。これが、私にはよくわからない。触られることで目覚めた自信、自惚れ(?)が常盤貴子の異常な行動に駆り立てる。頭ではわかるが、「肉体」で実感(共感)できない。(私が男だからか。)そして、頭だけで「わかる」から、どうしても笑ってしまうことになる。
変な映画だ。変な女を描いた映画だ、と思ってしまう。
美容院にやってきた不気味な青年が連続放火犯で、彼は異性(女性)に触れられたいという欲望をもっていた、というのは映画の触覚のテーマと重なるのだけれど、放火は「女性的」な欲望だと決めつけているようで後味が悪い。
映画のテーマの象徴となっている「木琴」も、ことばで書かれた「小説」なら違和感がないかもしれないが、映画ではちぐはぐ。木琴(音楽)は音。それも「叩く」音。触覚とは別なもの。さらに「木琴」に、だれもいない家、二階の開いた窓という映像が加わると、「理屈」として響いてくる。
「こころの音楽」を探している、というテーマが、わざとらしく聞こえる。
空家の映像はない方がいいだろう。乱れた木琴の音(少女がでたらめに叩く木琴の音)を常盤貴子の心理描写としだけ使えばいい。たとえば常盤貴子が白いフリルのドレスを捨てに行くシーン。そのドレスを池松壮亮が見つけたときの驚き。そこに和音にならない「木琴」の音が響く。あるいは常盤貴子が夫と隣り合わせにすわってメールで会話する。「木琴」がぽつり、ぽつりと一音ずつ鳴る。和音を探して鳴る、という感じにすれば、それが「こころの音(こころの音楽を求める音)」として「説明(ことば)」を越えて聞こえてくる。木琴がバックミュージックに徹すれば、音が心理描写になる。音楽(音)のなかには映像がある。でたらめな音からはいらだちが聞こえる。いらだつ肉体が見える。いらだった記憶を、観客は自分の肉体として思い出す。そのとき見た風景も。
バックミュージックだけでは観客に「こころの音」かどうかわからないと東陽一は心配するのかもしれない。しかし、つたわらなければつたわらないでかまわないのが映画ではないだろうか。
触覚と官能の欲望を女性の肉体をとおして描くといえば、私はジェーン・カンピオン監督の「ピアノレッスン」を思い出す。ホリー・ハンターがピアノを弾いている。ハーベイ・カイテルがピアノの下にもぐりこみ、ホリー・ハンターのストッキングの穴をみつけ、指で触れる。そのときホリー・ハンターの「肉体」のなかで官能の音楽が走り出す。あの美しいシーン。触覚と音楽の融合。
ジェーン・カンピオンは「ある貴婦人の肖像」の肖像でも、触覚から始まる女性の官能、陶酔をベッドの房飾りをつかって描いていた。
私はジェーン・カンピオンの女性の描き方に衝撃を受けたので、どうしてもその視点で映画を見てしまうのかもしれないが。
東陽一といえば「サード」と最初に書いた。その印象が強すぎて、それ以後の「女性映画」が私にはピンと来なかった。女性を描きたかったのか、と、今回の映画でやっとわかった。いま「もう頬づえはつかない」「四季・奈津子」を見れば違ったものに見えるかもしれない。
東陽一のテーマが女性とは思わなかったが「サード」には忘れられないシーンがある。森下愛子がヤクザとセックスをする。仕方なしにしたセックスだけれど、官能が動く。おわって放心する森下愛子の肌を汗がすっと流れる。光る一筋の汗が森下愛子のなかで動いた官能の強さを語っている。このシーンを美しいと感じるのは、男が女の官能を目覚めさせ、女を虜にしたいという男の願望ゆえかもしれないが。
その後の「四季・奈津子」や「マノン」はソフトな映像に終始している感じがして、私には不満がある。それで東陽一の映画を見なくなった。今回の映画でも、髪を切った後の常盤貴子がひとりでワインを飲むシーンは無意味に「ロマンチック」でぎょっとしてしまう。
あ、でも、こんなに批判ばかり書いてしまうのは、どこかに気に入った部分があるからでもあるんだろうなあ。
(KBCシネマ1、2016年11月16日)
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「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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