詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中郁子「ぎぶねぎく」

2016-11-07 09:04:50 | 詩(雑誌・同人誌)
田中郁子「ぎぶねぎく」(「緑」36、2016年11月01日発行)

 田中郁子「ぎぶねぎく」に、少し不思議な表記がある。

八月の満月を過ぎると
葉裏をかしげて「今」の時を知る

 なぜ「今」とカギ括弧の中に入っているのだろうか。
 「今」の時を知る。「今」という「時」の存在を知る、か。「今」が「いつ」なのか(「いつの時間」なの)かを知る、のか。それとも「時」が「今」であると知ることか。あらゆる「時間」のなかで「今」を強調したいのか。
 よくわからない。よくわからないときは、それがどんな形で繰り返されているか(反復されているか)を、私は読む。

初まるものと終るものとのあいだで
茎をのばし思いきり直立していく
まるいつぼみをふくらませ
「今」だけの地上で水平に花ひらく

 菊の花が開く瞬間を描写していることがわかる。「葉裏」を「かしげて」いたものが、「茎」を「のばし」「直立していく」。「傾ぐ」から「直立する」へと「動詞」が動いている。「動き」のなかには「時間」がある。その「時間」の一点(一瞬)を「今」と読んでいることがわかる。「その瞬間」を知る。「その瞬間」だけ「花ひらく」。この「ひらく」は「開いた状態」ではなく、「開く」という「動詞」そのもの。「開く」という「一瞬」のこと。「開いている状態」は持続。「水平に」ということばが「直立する(垂直になる)」ということばと呼応して、「ひらく」を「一瞬」に限定する。
 その過程に、蕾を「ふくらませる」という「動詞」がある。これが「ひらく」へ変化していく。持続する運動が、逆に「ひらく」という一瞬を強調する。この「持続」は「初まるものと終るものとのあいだ」という形で、それより先に書かれている。そして、そこでは「一瞬(今)」ではなく、「持続」そのものが「あいだ」という幅のあることばで書かれている。「一瞬」は「点」、「あいだ」は「線」である。
 そういうことを考えると、「今」は「一瞬」を言いなおしたものという気がしてくるのだけれど、何かがひっかかる。なぜ「今」とカギ括弧といっしょに書かれているのか。「今」は「今」ではないのではないだろうか。強調するためではなく、否定するためにカギ括弧がつけられているのではないだろうか。

太陽は花芯に黄金のゆびわをはめ
中央をみどりのピンでとめる
死になじんだ純白

 うーん、おおげさな描写。「現代的」ではない。ちょっと「神話」っぽい。そして、そう思ったとき、また、ふっと思うのである。「今」は「一瞬」ではなく、「神話」のような「永遠」のことか、と。

人はふと近づいては一瞬をうばわれる
過去にも未来にも固執せず
ただ 「今」という恩寵を咲く
夕になれば闇の気配に花びらをとじる

 「一瞬」ということばが出てきて、「今=一瞬」を否定する。「今」という時をあらわすことばのほかに、ここでは「過去」「未来」も出てくる。「過去」は「未来」の「あいだ」にあるのが「今」。「過去」と「未来」を「持続/血族」させるのが「今」。
 この「過去」と「未来」の「あいだ」をまだろっこしく「持続」させるのではなく、一気に貫いて「ひとつ」にしてしまうのが「永遠」。「永遠」は「今」ではないが、「今」は「永遠」かもしれない。
 「持続」ではなく「充実」と考えるといいのかもしれない。

太陽は花芯に黄金のゆびわをはめ
中央をみどりのピンでとめる
死になじんだ純白

 この「強いことば(神話を想像させることば)」は、「いま」という「現実」を突き破って「永遠」が噴出してきたために動いたことばなのだ。「永遠」を、田中は「恩寵」と読んでいると思う。
 「恩寵」とともにあるとき「今」は「永遠」なのだ。

いくどめかの朝夕ののち
いくどめかの昼のひかりに
はらりと身をほどいてよこたわる
しかし「今」の時がからっぽになったりはしない

 この部分は「今=永遠」が強い感じでは迫ってこない。「からっぽにならない」から「永遠」であると「理屈」を言っているようにも見える。これは、この部分が、詩の「起承転結」の「転」にあたるからである。視線というか、世界のとらえ方が違っている。次の「結」を強調するために、転調しているのである。

次の年もその次の年も
同じ地上をあたらしい地上として
「今」という恩寵を花ひらく

 この三行は「転」のつづき。繰り返し。年が「いくど」変わっても繰り返される季節。その繰り返し(同じこと)のなかで、「あたらしい」こととしてつづく「永遠」。生まれ変わる(あたらしくなる)「永遠」。
 このあと、「今/永遠」が別の「意味」を持つ。

けわしい尾根から一瞬たりとも踏みはずしたりはしない
いま わたしの「今」はどうしようもなく過ぎ
老いてしまったけれど
あなたのみ手のうちにある「今」を
この目で確かめたくて
無心に白い花に近づくと
はがすことのできない自分の影といっしょに
秋のむこうへするりと消えてしまった
わたしは わたしにであうことがない

 「永遠」を「充実」ととらえるなら、「永遠」は「盛り」でもある。老いて「盛り」は過ぎてしまった。けれど花の「盛り」を見ながら、「永遠」を思い出す。あるいは「想起する」。「であうことがない」からこそ、想起するという形で「永遠」をつかむ、といえる。
 田中の詩には、いつも、何か「思念の強さ」がある。かかれていることばの表面的な意味を否定する強さがある。日常語を拒絶する強さがある。その強さがことばを統一している。強靱にしている。単に花を描写し、そこでセンチメンタルになるということがない。抒情におぼれない清潔さがある。
 「今」というカギ括弧付きの表記。そこに、何か「冷静さ」というか「精神」の操作がある。


田中郁子詩集 (現代詩文庫)
田中郁子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水の周辺12

2016-11-07 01:08:14 | 
水の周辺12



水を飲む
水に
飲まれる。

泳ぐ
泳がされる
流れを。



水に
飛び込びこめば、

水は吐き出す。
ふいの異物を。
吐き出されて
水を吐く少年。



泳ぎのこころえがあると
むずかしい。
どうしても
浮いてしまう。

だからポケットに
石。



苦しみに弱い
ものでできている。

否定できない
反動を
おさえるために。



どこまで潜れば
水は重たくなるか。

重たくなる水と
増してくる浮力。

沈めろ。
論理を。
つぶせ。
論理を。



おぼれる。
おぼれたい。
おぼれる
くるしさに、
おぼれる
ゆえつ。



そろえられたもの、
そなえられたもの、
を、
濡らす。
濡れる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする