詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中野量太監督「湯を沸かすほどの熱い愛」(★★★+★)

2016-11-06 09:41:54 | 映画
監督 中野量太 出演 宮沢りえ、杉咲花、オダギリジョー

 一か所、見ながら「あれっ」と思うところがあった。
 宮沢りえが、家を出て行ったオダギリジョーを探し出し、連れ戻す。そのときオダギリジョーといっしょに幼い子を家へ連れて帰る。オダギリジョーが暮らしているはずの女はどこかに消えてしまい、オダギリジョーは幼い女の子と二人、取り残されたのだった。
 この事情が、私にはすぐにはわからなかった。一瞬、「あれっ、オダギリジョーといっしょの女は?」と思ってしまったのだ。オダギリジョーが洗濯物を干している写真がその前に登場するのだが、その洗濯物の「細部」を見落としている。探偵が「洗濯物から若い女といっしょに暮らしているのは明らかだ(女は見かけない?)」という「ことば」しか覚えていない。
 「ハドソン川の奇跡」でも、あとから、前のシーンではどうだったかなあ、と思うことがあった。「音」と「映像」のどちらかに意識が引っぱられていて、そこにあったはずの「情報」を見落としてしまう。聞き落としてしまう。最近は、こういうことが多くなってしまった。
 で、「論理的(?)」には「あれっ」と思うのだが、この「あれっ」を宮沢りえの演技がさっと吹き消してしまう。「これが当然でしょ」という「自然」がそこにある。他人を「ふところ」の内に入れてしまう力がある。
 この「あれっ」のあとから、徐々に「あれっ(不自然)」ではなく、「自然」の理由がわかるようになっていくのだが、これを宮沢りえは「暗さ」ではなく「強さ」として具体化していく。
 宮沢りえ自身が母親に捨てられた子供だった。一緒に暮らしている杉咲花はオダギリジョーとのあいだにできた子供ではなく、最初の女が捨てて行った子供。宮沢りえは、もう一度、女がオダギリジョーに残して行った子供を引き取り、「家族」として受け入れているのだった。「母」になるのだった。
 うーん。
 どんな気持ちだろう。なかなか苦しみ、悲しみを見せないのだが、二度、感情を爆発させる。
 杉咲花を捨てて行った女と出会い、その女を平手打ちするシーン。産みの母を見つけ出すのだが、母は宮沢りえに会おうとしない。家のなかで孫(?)と楽しく遊んでいる。その窓へ向かって塀の上に並べてあった犬の置物を投げつける。窓ガラスが割れる。「怒り」が宮沢りえの「肉体」のなかに動いていたこと、それが彼女を「強く」していたことがわかる。
 「ふところ」の大きさは単に「愛」ではない。
 宮沢りえは、いつも怒っている。「怒り」が彼女の行動を強くし、また「正しい」ものに変えている。
 最初の方に、いじめられるのがいやで学校に行こうとしない杉咲花を、何度も学校に行かせようとするシーンが繰り返される。これは、たぶん宮沢りえの「過去」なのだ。「怒る」ことを抑えて、被害者でいつづける少女。それではだめなのだ。「怒る」ことを覚えないといけないのだ。宮沢りえは、「怒る」こと、さらには「怒り方」を懸命に教えている。
 「怒り方」は二つの方法で宮沢りえから杉咲花に引き継がれる。
 ひとつは、「制服を返せ」と訴えるために杉咲花が下着姿になるシーン。このとき杉咲花が身につけているのは、宮沢りえが誕生日のプレゼントに買ってくれたもの。「大事なときには、大事な下着が必要」。それを、「抗議」の瞬間、「怒り」の瞬間につかっている。自分のすべてをさらけだし、しかもその姿を「美しく」見せる。これが「怒り」のひとつめのポイント。
 もうひとつは、杉咲花が生みの親と対面するシーン。母というものは不思議な存在である。捨てられた女の子が「この家にいっしょに暮らさせてください。いっしょに暮らすけれど、それでもまだママが好きでいいですか」と聞く。どんな仕打ちにあっても、母を嫌いになることはできない。母親に捨てられたのだとわかっていても、生みの母とわかると「血が騒ぐ」。「怒り」がわいてくるのだけれど、それを同時に消してしまう。「怒り方」というよりも「怒りの消し方」なのかもしれない。「無防備」という「怒り方」、「無防備」という感情のあらわし方、と言い換えてもいい。
 あ、宮沢りえが、杉咲花に引き継がれていく、ということが、その瞬間にわかる。

 たぶん、これは「映画向き」というよりも「小説向き」のストーリーである。いろいろな「心理描写」(ことばの説明)があった方が、「深み」を伝えるのが簡単である。様々の人間の心理を、あのとき彼女はこう思っていた、と付け加えることができる。でも「映画」あるいは「芝居」では、あとから説明できない。その瞬間に、「肉体」だけで「心理」、特にその「変化」を伝えるのはなかなかむずかしい。
 むずかしいのだけれど、宮沢りえは、これを「肉体」であらわしている。
 こういう「役どころ」は「美人系」には、なかなかむずかしい。というか、「ブス系」だと、こころの変化が「あっ、美しくなったなあ」という感じになる。ブスのはずなのに、女優にみとれてしまう。つまり「こころ」に感動するということが起きるのだが、「美人」は何かがあって「美しくなった」ということがわからない。最初から「美しい」から、美しくなりようがない。あ、いま輝いていると思っても、それが変化なのか、もともとのものなのか、わからない。
 で。
 周りが「美しくなる」ことで、あ、この美しさの中心は宮沢りえだったのだと気付く。そういう演技が必要。これを、宮沢りえは、確実に実現している。表現している。「美人系」の女優のなかでは、私は、いま宮沢りえが一番好きだ。ケイト・ウィンスレットのように太く、せめてケイト・ブランシェットのような叩いても壊れない感じの「肉体」になると、もっと幅が出ると思う。

 ちょっと脱線した。
 この映画は、ラストシーンが話題になっているが、私はピンクの煙の直前のシーンが好き。宮沢りえの遺体を載せた霊柩車が火葬場へ向かう。その途中、人気のない河原で車が止まる。みんなが車から降りてきて、晴れ渡った空の下、おにぎりをほおばる。葬儀なのに、みんな晴々としている。このシーンが、とても美しい。思わず涙が出る。「幸福の涙」。そのあとは、いわばわかりきった「付け足し」。
      (ユナイテッドシネマキャナルシティ・スクリーン11、2016年11月03日)

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千人のオフィーリア(メモ12)

2016-11-06 01:34:55 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ12)

いとしのブルームさま
処女が月経のとき頭が痛くなるように、月に一度頭が痛くなるというのはほんとうですか? 仕事に行かずホテルでカーテンを引いて寝ているというのはほんとうですか? うわさを聞いて心配しています。私はまだブルームさまがズボンのボタンを外すのを見たことがありません。もしかするとブルームさまは概念を流産した年増女なのでしょうか。

いとしのオフィーリアさま
ことばはいつでもほんものではありません。月経。辞書の中のその文字を見ながら、私の少年は何度もオナニーを繰り返しました。挿入。その魅力的な書き順を、一画一画、何度指でなぞったか。でも、一番の輝かしいのは性という漢字。まるで宝石。性善説。相対性理論。どこに隠れていても盲目の光を放つ。そして勃起ということばにさえ勃起し、射精ということばに自分自身からあふれでてしまうとき、少年には膣と陰茎の区別、子宮と陰嚢の区別はありません。私は書を捨てて街へ出た家出少年です。

いとしのテンプル・マウントさま
修辞の首都の河にはコンドームが、サンドイッチの包み紙のように浮いています。細く引き裂いて、ミミズのかわりにして魚を釣ったという自慢話を何人にされたのでしょう。せめて恋という疑似餌で釣ったと言いなおしてもらえませんか? お返事はいりません。





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