詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「理想の家族」

2016-11-03 23:17:37 | 自民党憲法改正草案を読む
「理想の家族」
               自民党憲法改正草案を読む/番外37(情報の読み方)

 2016年11月03日毎日新聞朝刊(西部版・14版)の31面(社会面)。自民党の「家庭教育支援法案」のことが書かれている。

 家庭での教育について国や自治体が支援責任を負うとする「家庭教育支援法案」を自民党が来年の通常国会に提出しようとしている。家庭教育を公的に助ける内容だが、公権力が家庭に介入していくとも受け取れる。「家族は互いに助け合わなければならない」とうたう同党の改憲草案と合わせて、「家族生活での個の尊厳をうたう憲法24条の改正への布石ではないか」との批判も出ている。

 この論点は、その通りだと思うが。論理の展開が急すぎる。「家庭教育支援法案」のどこに問題があるのか、「点検」の仕方が粗いように、私には思える。「法案の骨子」(5点)を紹介しているが、その「骨子」の文言そのものへの言及がない。
 まず「文言」そのものを問題にしないと、「思想」を点検できないと私は思う。
 「骨子の第一項目」。

保護者が子に社会との関わりを自覚させ、人格形成の基礎を培い、国家と社会の形成者として必要な資質を備えさせる環境を整備する。

 「社会との関わり」というのは、どういうことか。簡単に言うと「ひとさまに迷惑をかけてはいけない」ということだろう。「ひとのものを盗んではだめ」「困っている人には手助けしよう」というようなことだろう。「人格形成の基礎」とは、そういうことだろう。
 ここまでは、いい。
 問題は、「社会」と前半で言っていたことが、後半で「国家と社会」と言い換えられている。ここに「自民党法案」の一番の問題点がある。これを指摘しないといけない。(いろいろな識者の声が紹介されているが、「社会」から語り始めて、次に「国家と社会」と言いなおしている部分に言及していない。)
 第24条以前に、第13条の視点からとらえ直さないといけない。

(現行憲法)
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(改正草案)
第十三条
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 「社会」とは、現行憲法で「公共の福祉」ということばでとらえられている。「公共」が「社会」。「福祉」は「助け合い」ということだろう。「社会福祉」とは「社会全体で助け合う」ことである。「人と人との助け合い」に反しないかぎり、人は何をしてもいい、というのが現行憲法である。必ずしも「助け合い」に参加しなくてもいい。ただし、「助け合い」を邪魔するのはよくない、というのが現行憲法である。
 ここには「国家」は含まれない。言い換えると、「国家」のことが気に入らないときは「国家」を覆す権利は保障されている。それが現行憲法である。
 この「公共の福祉」を改正草案では「公益及び公の秩序」と書き換えている。「公益」は「公共の(みんなの)利益」と言い換えても通じるかもしれない。「公の秩序」も「公共の/みんなの秩序」と言い換えても通じるかもしれない。だから、ごまかされるのだが、「福祉(助け合い)」は、どこへ消えた? 「秩序」さえ保たれていれば「助け合い」はしなくていい? 困っている人がいても、ほったらかしにしておいていい? 困っているのは、そのひとの責任。「秩序」の責任ではないから?
 何か変でしょ?
 「公」という文字をつかっているからわかりにくいのだが、自民党草案の「公」とは「国家」のことなのである。「国家の利益及び国家の秩序」と書きたいところをごまかしている。「国家」を「公」と言いなおして、「国家」を隠している。「国家の利益にならないこと」「国家の秩序を転覆すること/革命を起こすこと」。これは自民党の改正草案では禁じられているのである。
 自民党の「公」が「みんな」ではなく「国家」であるのは、「公共の福祉」を「国家の福祉」と言い換えることができないことからもはっきりする。「国家の助け合い」というのは「日本」国内のことではなく、他国との関係。国内において「国家の助け合い」とは言えないね。
 「国民(個人)」ではなく、「国家」が大事なのだ、という「思想(考え方の根本)」が、第13条の「改正草案」に隠されている。
 それが「家庭教育支援法案(骨子)」にも、あらわれている。「社会(みんな)」のためではなく、「国家」にとって役立つ「人間形成」を手助けする。「国家」にとって都合のいい人間を育てるために手助けする。「国家」に対して疑問をもたす、「国家」の命じるままに行動する人間を育てるために、家庭にまで口をはさむ、というのが自民党の案なのだ。
 さらには「教育問題」なのだから、「教育」に関する憲法、自民党憲法改正草案との関係も見ておかないといけない。(このことについても「識者」はコメントしていない。)
 現行憲法にはなくて、改正草案にある条項がある。第26条第3項。

国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教
育環境の整備に努めなければならない。

 「人の未来」ではなく「国の未来」。あくまで「国」にとって都合のいい人間を育てるために「教育環境」の整備に国は努める。これは、ことばを言いなおせば、国にとって都合のいい人間を育てるために、国は教育に(学問に)介入できるということなのである。学問の自治を否定するための文言なのである。「国家転覆/革命」を考える教育は否定されている。禁じられている。「革命」を「自民党から政権を奪う」と言いなおすと、自民党の狙いがはっきりする。「自民党独裁」のための憲法改正であり、法律の制定なのだ。
 それが「家庭教育」でも行われようとしている。「国家」にとって都合のいい人間に育てるために、まず家庭への介入から始める。「支援」という名目で、各家庭の「教育の自由」を否定するのである。

 そこまで論を展開した後で、憲法第24条を持ち出さないと、論理がつながらない。毎日新聞の視点は鋭いが、批判を急ぎすぎていて、問題点を見落としていると、私には思える。
 毎日新聞は、第24条の「改正草案」をサザエさん一家が「理想」という形で紹介している。
 改正草案には、現行憲法にはない項目が第1項(一番大事な考え方)として追加されている。

家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。

 これを単独ではなく、改正草案の「前文」と関連づけて(つなげて)読むと、「家庭教育支援法」の問題点がはっきりする。改正草案の「前文」は、こう書いている。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

 「家庭教育支援法案(骨格)」につかわれていた「形成する」ということばが、ここにある。「和=秩序」を尊び、「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」。「国家の秩序」を「形成する」ために、「家族や社会全体が互いに助け合う」という自民党の「狙い」がはっきりする。
 ひとりひとりが、ひとりひとりのあつまりである「みんな」が幸せになるために「学ぶ」のではなく、「国の秩序/国の利益」のために奉仕する人間を育てる。そのために「家庭教育」から介入する、というのが自民党の狙いなのである。

 毎日新聞は「24条の精神どこへ」という「見出し」で記事を統一しているが、その「精神」というものが、憲法のどのことばにあるのか、それを改正草案ではどう変更しているかも伝わってこない。
 改正草案の第1項は、たしかにサザエさんの世界なのだが、改正草案の「美しいことば」だけでは問題点が見えにくい。大事な変更があることを、きちんと指摘しないといけないと思う。

(現行憲法)
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
(改正草案)
婚姻は、両性の合意に基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 現行憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される」が、改正草案では「全て国民は、人として尊重される」となっている。「個人」が「人」になっている。それと同じことばの操作が第24条で行われている。
 「両性の合意のみ」が「両性の合意」に変わっている。「のみ」が削除されている。現行憲法では、両親が何といおうが関係ない。「両性のみ」で結婚できる。けれど改正草案では「のみ」がないから、両親を初めとする「家族(親族)」の合意も必要となるかもしれない。サザエさん一家を例にとるなら、カツオら結婚するとき相手の女性だけではなく、両親や祖父母の合意も必要となるかもしれない。両親が、カツオの相手が「磯野家」にそぐわないと言い、反対したらどうなるのか。「家族の秩序」が乱れる。さらには「国家の秩序」も乱れる。親の言うことを聞かない人間は、「理想の人間」ではない。カツオの幸福よりも、「家族の幸福」、いや「家族の利益」か。それは「家族の利益」よりも「国家の利益」へとつながっていく。
 そういう問題点まで、書いてもらいたい。紙面の都合があるのだろうけれど、「法律」(憲法)というのは「ことば」なのだから、もっと「ことば」に迫って「法案」を読んで、問題点を指摘してほしい。











*

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鈴木正枝『そこに月があったということに』(3)

2016-11-03 09:30:45 | 詩集
鈴木正枝『そこに月があったということに』(3)(書肆子午線、2016年10月31日発行)

 「一輪」を読む。

この家の
見えないところに咲いていた真っ赤な蕾を
テーブルのコップにさした人がいる
切り取られ
見つめられて
花は初めて薔薇になった
その時から
私と薔薇との関係が
誰かによって始められた

 この一連目の「関係」ということばが鈴木の詩、ことばの運動を動かしているかもしれない。
 ここに書いてある「関係」ということばを説明するのはとてもむずかしい。むずかしいのは、「わからない」からではない。「わかっている」から、むずかしい。変な言い方になるが、この「わかっている」を説明するために、どこかから、既成のことばを借りてくることができない。そこが、むずかしい。
 ここに書かれている「関係」は「それ」と指さすようにしてしか語れない何かなのだ。薔薇がある。薔薇を見た。薔薇をコップにさした人がいる。いま、そこには、いない。けれど薔薇があるということは、その人がいたということ。「いた」という「過去(形)」が「いる」という「現在(形)」として、そこに「ある」。それを「薔薇」を指さして示すときに「肉体」のなかで動いている何か。
 「肉体」のなかに「ある」、「肉体」のなかで「動く」。だから「わかる」。「わかる」けれど、既成のことば、流通していることばで語れない。
 「切り取られ/見つめられて」という「受動」。そこには書かれていないが「切り取る/見つめる」という「能動」の「動き/動詞」が存在している。存在して「いた」と「過去(形)」で書いた方がいいのかもしれない。しかし、その「過去(形)」は何か「便宜上」のもの、「方便」のようなものであって、それはいつでも存在して「いる」。「現在(形)」である。
 この「過去」と「現在」の、強い結びつきが「関係」である。
 そしてそれは「薔薇になる」の「なる」という形で動いている。この4なる」という動きのなかには、繰り返しになるが、「受動/能動」「過去/現在」も強く結びついている。その結びつきは強すぎて、ほどくことができない。

 この強さは、実は、詩の書き出しからはじまっている。
 「この家の」の「この」。「この」は、ことばで説明するとむずかしい。けれど、日常的には簡単。指さして「この」家、という。「身振り」で納得してしまっている、何か。その「強い結びつき」。「この」と指さした瞬間にはじまり、おわる何か。
 この「関係」を、鈴木はどう生きるか。

そこだけ違う空気の中
新鮮な水を血液のように吸って
毎日一枚ずつ開かれていく花びら
すべてが開ききって
もう開くものがなくなった時
コップから抜きとって掌にのせる

 何をしているのだろう。何もしていない。そこに書いてあることをしているだけである。それ以上ではない。それ以上ではないから、それ以上なのである。「意味」にしない。「意味」が生まれるのを否定する。それでも「意味」が生まれてこようとする。あるいは、「意味」を生みだそうともがいているものがある。
 「これ」、「このことば」と言うしかないもの。
 もっと簡単に言いなおすと、感想を聞かれたとき「ここが好き」と、ただその行(そこに書かれていることば)を指さし、示すしかないもの。
 指さし、示したとき、そこに「関係」が生まれてくる。「関係」がはじまる。その「関係」は、説明できない。
 でも「わかる」。
 「この」家。なのに、「そこ」だけ「違う」。この「違い」を感じてしまう何か。その「違い」を語るために「一枚ずつ」花が開くように、「一行ずつ」ことばを動かす。その「動き」が、ほかのひとの(詩人の)ことばと「違う」。
 「違う」と「わかる」から、「ここが好き」と言う。

切り取った人は
すでに
この家にはいない
もうひとつ
別の階段があることを
私はいつも忘れてしまう

 「いない」。「いない」が「わかる」のは「いた」ことを知っているからである。いや、「知っている」というよりも「わかっている」のだ。この家に「いない」とき、その人はどこに「いる」のか。どこに「いる」と「わかっている」から「いない」と言えるのか。
 「もうひとつ」と「ない」はずのものを生み出してしまうもの(あるいは、こと)が「関係」なのだろう。それは「いつも忘れてしまう」。けれど、いつも思い出してしまう。いつまでも「おぼえている」。
そこに月があったということに
クリエーター情報なし
書肆子午線
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千人のオフィーリア(メモ9)

2016-11-03 00:01:19 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ9)

辛抱できなくなるまで、辛抱した。
二度も。

満足させて、
嘘じゃないよ。
煽り立てて、
ほんとうだよ。
飽きさせて、
何もいわない。。

言いたいことはわかっている。
だから叫ぶ。
わからない、わからない、わからない。
大声でこころが叫んでいる。
それに負けないくらいに
喉を嗄らして。

信じられないほど
満足させ、
信じられないほど
煽り立て、
信じられないほど
飽きたなんて。

悲しいということばは
淋しいよりも
透明に聞こえる
鼓膜に流れ込む水の音。

耳の奥を流れる
血の音が
川の音を消す。

消えていく、オフィーリア。




*

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1000円(送料込み/料金後払い)。
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までご連絡ください。
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