鈴木正枝『そこに月があったということに』(2)(書肆子午線、2016年10月31日発行)
「今日の出来事」という作品がある。
公園で見かけた一風景。三連目がなまなましい。四連目に「どちらに味方したのだろう」とあるが、このとき鈴木は「どちら」の側の女の子だったのだろう、と想ってしまう。四連目の「陣地」ということばを手がかりにすれば、「西側」からやってきた「もうひとりの女の子」の方が鈴木なのだろうなあ、と思う。
そのことも書きたいのだが、きょうは、ちょっと違ったことを書く。
この作品を読んだ記憶がある。というか、何となく、あっ、読んだことがあると思った。でも、読んだことがあるのだけれど、何となく違う。こんなに強烈ではなかった。もう少しあいまいだったような感じがする。それで、感想を書こうか書くまいか、書きはじめても中途半端になるかもしれない。そんなことを思い、書かなかったのだと思う。
それで、書こう書こうとして書かずに来てしまった作品がある「同人誌」を見ていたら「しるなす」5(2016年07月31日発行)が出てきた。そこにある「今日の出来事」を引用する。
ずいぶん変更されている。一番大きな点は、「しるなす」にあった最終連が、そっくり削除されていること(*補記)。これで、詩が、ぐっとひきしまった。詩の焦点が「もうひとりの女の子」にしぼられた。小さな変更は「開店準備」から「食事の準備」。
いくつかの変更のなかに、三連目もある。
私は、詩集の方がことばが強くなっていると思う。「縦にぱっくり亀裂」は抽象的すぎる。「相手の視線」の方が「肉体」が見える。手応えがある。さらに「亀裂が走った」では「現象」の描写だが、「視線を切り裂く」は行為の描写である。「肉体」の描写である。言い変えると「亀裂が走った」では「主語」が「亀裂」。「視線を切り裂く」では「主語」が「ふたりの女の子」。そこに「肉体」がある。「亀裂」には「肉体」がない。
「相手の視線を切り裂く」ということばによって、「切り裂かれた」女の子も見えてくるのである。「亀裂が走った」では、「切り裂く/切り裂かれた」という相互の関係(つながり)が見えてこない。
「関係」が見えてくるから、「関係」とはどういうときでも「肉体関係」(肉体と肉体との接触の仕方)だから、どきりとするのである。見てはいけないものを見てしまった、という「うしろめたさ」見たいなものが、私の「肉体」そのものに触れてきて、そのためにどきりとする。
変更によって、とてもいい作品に生まれ変わったと思う。
の「踏み潰す」という「肉体」の動き、そこで「肉体」が暴力的に動かなければならない「原因」のようなものが、とてもなまなましく伝わってくる。(ただし、私は「充分に」はなかった方がよかったと思う。「充分」かどうかは、読者がかってに判断/想像すればいいと思う。)
という「意味づけ」をやめて、ほうりだした一行もいいなあ、と思う。「群生」よりも「花」くらいに「孤立」させた方が「ひとり」の視線にあうかもしれないが、これは私の「欲望」。
一篇の詩を書く。そのあと、そのことばを、どう持続するのか。変更するか。推敲するのか。なかなかむずかしい。
鈴木がひとりで推敲したのか。編集者の助言があったのか。
いろいろ想像してみるのも楽しいと思い、きょうは、こんな感想を書いてみた。
もう少し、この詩集について書くつもり。(あしたになると気が変わり、書かないかもしれないけれど。)
*
(補記)「しるなす」にあった最終連が、そっくり削除されている」と書いたが、これは間違いだった。「みずみずしいドクダミの群生」は73ページの最終行。そこで詩が終わっていると私は思い込んだ。ページをめくるとき、めくりそこねて「小さな叫び」を開き、最終連を読み落とした。
この連が存在した。しかし、申し訳ないが、この連はない方が衝撃力が強いと私は思う。ドクダミの描写で終わった方が「ひとりの女の子」が印象に残る。「誰も帰ってきていない」は「ひとり」を強調するためのことばだが、逆に、視線が拡散してしまうと思う。「充分に」と同じように、なんだが感情を「無理強い」されている感じがする。
間違いに気づいた時点で、間違いを修正し、書き直すべきなのかもしれないが、私は間違いには間違うだけの理由があると信じているので、間違いを残したまま、あれは間違いでした、という形で書くことにしている。で、こんな感想になった。
「今日の出来事」という作品がある。
公園の東の入り口で
女の子がふたり食事の用意をはじめた
小さな紙コップと紙皿
いそいそとうきうきと
あり余るほどの花びらのつぼみ緑の新芽
芽吹いて咲いて降って
見上げるより俯いた方がたくさんの花
素足の子供たちの靴が
埋まって見えない
西側からのろのろと
もうひとりの女の子が近づいてくる
どきりと振り向く四つの瞳
手をつないで立ちあがり
身構えて
相手の視線を切り裂く
その時起こった突風は
どちらに味方したのだろう
料理はひっくりかえり
やーめた!
ふたりは逃げていってしまった
コップと皿はゴミになった
残された女の子はそれを靴で充分に踏み潰し
またのろのろともどっていく
西側の陣地には
みずみずしいドクダミの群生
公園で見かけた一風景。三連目がなまなましい。四連目に「どちらに味方したのだろう」とあるが、このとき鈴木は「どちら」の側の女の子だったのだろう、と想ってしまう。四連目の「陣地」ということばを手がかりにすれば、「西側」からやってきた「もうひとりの女の子」の方が鈴木なのだろうなあ、と思う。
そのことも書きたいのだが、きょうは、ちょっと違ったことを書く。
この作品を読んだ記憶がある。というか、何となく、あっ、読んだことがあると思った。でも、読んだことがあるのだけれど、何となく違う。こんなに強烈ではなかった。もう少しあいまいだったような感じがする。それで、感想を書こうか書くまいか、書きはじめても中途半端になるかもしれない。そんなことを思い、書かなかったのだと思う。
それで、書こう書こうとして書かずに来てしまった作品がある「同人誌」を見ていたら「しるなす」5(2016年07月31日発行)が出てきた。そこにある「今日の出来事」を引用する。
公園の東の入り口で
女の子がふたり開店準備をはじめた
小さな紙コップと紙皿
いそいそとうきうきと
落ちたばかりの花びらのつぼみ緑の新芽
芽吹いて咲いて降って
また咲いて
見上げるより
俯いた方が
たくさんの花
素足の子供たちの靴が
埋まって見えない
西側からのろのろと
もうひとりの女の子が近づいてくる
どきりと振り向く四つの瞳
手をつないで立ちふさがり
身構える
縦にぱっくり亀裂が走った
その時起こった突風は
誰に味方したのだろう
店はひっくりかえり
商品は飛び散り
やーめた!
ふたりは走り去った
コップと皿はゴミになった
残された女の子はそれを靴で踏み潰し
またのろのろと帰っていく
西側の陣地には
みずみずしいドクダミの群生
駐車場裏の
小さな公園
車は一台も止まっていない
祭日の空には
まだ誰も帰ってきていない
ずいぶん変更されている。一番大きな点は、「しるなす」にあった最終連が、そっくり削除されていること(*補記)。これで、詩が、ぐっとひきしまった。詩の焦点が「もうひとりの女の子」にしぼられた。小さな変更は「開店準備」から「食事の準備」。
いくつかの変更のなかに、三連目もある。
手をつないで立ちふさがり
身構える
縦にぱっくり亀裂が走った (「しるなす」)
手をつないで立ちあがり
身構えて
相手の視線を切り裂く (『そこに月があったということに』)
私は、詩集の方がことばが強くなっていると思う。「縦にぱっくり亀裂」は抽象的すぎる。「相手の視線」の方が「肉体」が見える。手応えがある。さらに「亀裂が走った」では「現象」の描写だが、「視線を切り裂く」は行為の描写である。「肉体」の描写である。言い変えると「亀裂が走った」では「主語」が「亀裂」。「視線を切り裂く」では「主語」が「ふたりの女の子」。そこに「肉体」がある。「亀裂」には「肉体」がない。
「相手の視線を切り裂く」ということばによって、「切り裂かれた」女の子も見えてくるのである。「亀裂が走った」では、「切り裂く/切り裂かれた」という相互の関係(つながり)が見えてこない。
「関係」が見えてくるから、「関係」とはどういうときでも「肉体関係」(肉体と肉体との接触の仕方)だから、どきりとするのである。見てはいけないものを見てしまった、という「うしろめたさ」見たいなものが、私の「肉体」そのものに触れてきて、そのためにどきりとする。
変更によって、とてもいい作品に生まれ変わったと思う。
残された女の子はそれを靴で踏み潰し (「しるなす」)
残された女の子はそれを靴で充分に踏み潰し (『そこに月があったということに』)
の「踏み潰す」という「肉体」の動き、そこで「肉体」が暴力的に動かなければならない「原因」のようなものが、とてもなまなましく伝わってくる。(ただし、私は「充分に」はなかった方がよかったと思う。「充分」かどうかは、読者がかってに判断/想像すればいいと思う。)
みずみずしいドクダミの群生
という「意味づけ」をやめて、ほうりだした一行もいいなあ、と思う。「群生」よりも「花」くらいに「孤立」させた方が「ひとり」の視線にあうかもしれないが、これは私の「欲望」。
一篇の詩を書く。そのあと、そのことばを、どう持続するのか。変更するか。推敲するのか。なかなかむずかしい。
鈴木がひとりで推敲したのか。編集者の助言があったのか。
いろいろ想像してみるのも楽しいと思い、きょうは、こんな感想を書いてみた。
もう少し、この詩集について書くつもり。(あしたになると気が変わり、書かないかもしれないけれど。)
*
(補記)「しるなす」にあった最終連が、そっくり削除されている」と書いたが、これは間違いだった。「みずみずしいドクダミの群生」は73ページの最終行。そこで詩が終わっていると私は思い込んだ。ページをめくるとき、めくりそこねて「小さな叫び」を開き、最終連を読み落とした。
駐車場裏の
小さな公園
車は一台も止まっていない
祭日の晴れ渡った空には
まだ誰も帰ってきていない
この連が存在した。しかし、申し訳ないが、この連はない方が衝撃力が強いと私は思う。ドクダミの描写で終わった方が「ひとりの女の子」が印象に残る。「誰も帰ってきていない」は「ひとり」を強調するためのことばだが、逆に、視線が拡散してしまうと思う。「充分に」と同じように、なんだが感情を「無理強い」されている感じがする。
間違いに気づいた時点で、間違いを修正し、書き直すべきなのかもしれないが、私は間違いには間違うだけの理由があると信じているので、間違いを残したまま、あれは間違いでした、という形で書くことにしている。で、こんな感想になった。
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