詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「生前退位」有識者会議の行方

2016-11-09 19:50:59 | 自民党憲法改正草案を読む
「生前退位」有識者会議の行方
               自民党憲法改正草案を読む/番外38(情報の読み方)

 2016年11月08日読売新聞朝刊(西部版・14版)の、天皇の生前退位を有識者会議の報道に私はとてもびっくりした。「非公開」、「静かな環境」でということがこれまでに報じられていたので、内容が公開されるとは思っていなかった。
 公開されるのは、とてもいいことである。

 しかし、すぐに疑問も浮かんだ。なぜ、急に公開されることになったのか。有識者が会議で発言したことを公表する気になったのか、ということである。公表することで、国民の理解を深めようとしているのか、それとも国民の意見をある方向にリードしようとしているのか。
 公表すれば、さまざまな意見が国民の間から出てくる。(出てこないかもしれないが。)これは「静かな環境」とは違う。「騒がしい環境」である。「理解を深める」というよりも、「騒がしくならない内に」ある方向へリードしようとしているのかもしれない。
 私は何でも疑うのである。

 で、ちょっと経緯を振り返りながら……。
 2016年10月15日読売新聞(西部版・14版)の報道によると、有識者会議のテーマ(検討項目)は、次の8つ。

①憲法における天皇の役割
②天皇の国事行為や公的行為のあり方
③高齢となった天皇の負担軽減策
④摂政の設置
⑤国事行為の委任(臨時代行)
⑥天皇の生前退位
⑦生前退位の制度化
⑧生前退位後の天皇の地位や活動のあり方

 私は検討項目ごとに、最低8回は有識者会議を開き、そのうえで「結論」をまとめるものだとばかり思っていた。ところが、どうも、そうではない。今回、ヒアリングに応じた5人は、8項目についてそれぞれ語ったようだ。意見陳述の時間は20分以内。そのあと10分の質疑応答があったというのだが、これはあまりにも乱暴ではないだろうか。そんな簡単に8項目について語れる? 質問できる? 意見の根拠(法律の条文、あるいは歴史的な文献の紹介)もなく、単に意見をいい、それに対する質問ということにならないか。
 さらに、このヒアリングと質問なのだが、その「おこなわれ方」にも疑問がある。
 4面に「座長代理 記者会見要旨」というのが載っている。御厨貴座長代理が記者の質問に答えている。

 --質問が相次ぎ、時間が足りない人もいたか。
 御厨氏 進行は割とうまくいったと思う。ほとんどの方が(意見陳述としてお願いした)20分以内に収まった。(質疑応答の)10分はあまりに短い。もっう少しうかがった方がよかったかなという方もいた。

 「ヒアリング」だから、そうならざるを得ないのかもしれないが、この形式だと、たとえば「平川祐弘の意見について、古川隆久はどう思うのか」というようなやりとりは不可能。つまり、「ヒアリングの対象者」は孤立していて、互いの意見の点検がない。修正や補足がない。これは、「議論」のあり方としておかしくないか。問題点を詳しく知るという方法として弱すぎないか。
 たとえば裁判では、ある人の証言について別な証言者が違うことを言えば、その違いをもとにして、もう一度最初の証言者に質問するということがあるだろう。その相互の違いをみきわめ、どこに「真理(本質/大事なこと)」があるか探していくのが「議論」というものだと思うのだが。
 ヒアリングの対象者は単に自分の意見を語るだけ。他のヒアリング対象者の発言に対して質問もしない。あるいは、自分の意見の補足もしない。ヒアリングをした「有識者」だけが、さまざまな人の「意見」を「調整する」。
 これでは、「有識者」の都合に合わせて、ヒアリング対象者の「意見」をつまみ食いし、つなぎ合わせるということにならないか。「結論」は最初からあって、それに合うような「意見」をつまみ食いするためにヒアリングをしているということにならないか。
 この懸念は、最初から、感じていたのだけれど。

 5人のヒアリング対象者のなかでは、最初に読んだせいかもしれないが、東大名誉教授・平川祐弘の発言がとても印象に残った。項目別に書かれているとは言えないのだが、私は、次のように分類しながら読んだ。(平川が①から⑧へ項目を立てながら有識者会議のメンバーに意見を述べたのかどうか、読売新聞の記事ではわからない。)

①憲法における天皇の役割
 「天皇陛下ご苦労さま」という国民の大衆感情が天皇の退位に直結してよいのか。民族の象徴であることは、祈ることにより祖先と続くからだ。
 今の天皇陛下が各地で国民や国民の思いに触れる努力はありがたいが、ご自身が拡大された役割だ。次の皇位継承者にも引き継がせたい意向に見受けられ、個人的解釈によりる天皇の役割を次の天皇に課すことになる。

 これは8月8日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」を完全否定する内容である。天皇は「国民や国民の思いに触れる」ことを「象徴の務め」と語っている。全国をまわったときの感想を丁寧に語っていた。これに対して、平川は「ご自身が拡大された役割」と切って捨てている。「拡大解釈」と批判している。それは「天皇の役割」ではない、と主張している。さらに「次の皇位継承者にも引き継がせたい意向に見受けられ、個人的解釈により天皇の役割を次の天皇に課すことになる」と言い切っている。つぎの天皇には、そういうことをさせるべきではない、と言っている。「国民とのふれあい」を禁じたい。
 平川の「拡大解釈ではない」意見によれば、天皇の象徴としての務めは「祈ることにより祖先と続く」ことになる。「祈り」による「先祖の尊重」が天皇の務め。それ以外は天皇の務めではない、と主張している。「祈り/祈る」、あるいは「祖先」ということばは憲法の天皇の章には書かれていない。だから、これは平川の「拡大解釈」であると私は思うが、平川は「拡大解釈ではない」と言うだろう。天皇の発言を「拡大解釈」と批判しているのだから。
 この姿勢/意見は、私の直感では、安倍の意見の代弁である。安倍は天皇が国民と触れ合い、国民から信頼されことを許さない。天皇は今の日本では保守というよりもリベラルである。憲法について言えば、護憲派である。憲法を尊重している。憲法を尊重し、擁護する天皇が国民から信頼されていては改憲がしにくい。だから、天皇を取り除きたい。国民との接触を禁じたい。そのために、天皇が間違っている(憲法に違反している)と批判することから議論を始めようとするのだ。
 天皇の務めを「祈り/祖先の尊重」に限定するとき、天皇は「現在」を生きることはできない。少なくとも「未来」を語ることはできなくなる。「過去」に封印される。「封印」して、「天皇」という「名前」だけを与える。

②天皇の国事行為や公的行為のあり方
 特に問題なのは、拡大解釈した責務を果たせなくなるといけないから、皇位を次に引き継ぎたいという個人的なお望みをテレビで発表されたことで、異例の発言だ。もし世間の同情に乗り、特例法で対応するならば、憲法違反に近い。天皇の「お言葉」だから、スピード感をもって超法規的に近い措置をするようなことがあっては、皇室の将来のためにいかがかと思う。
 
 「国民とのふれあい」を「象徴の務め」ととらえるのは「拡大解釈」。その「象徴とのしての務め」を引き継がせたいと思うのは「個人的お望み」。そのあとの発言は、厳密には「特例法」が「憲法違反」ということになるが、印象としては天皇の「拡大解釈」「個人的なお望みをテレビで発表」することが憲法違反と言っているように思える。
 いまの天皇は「憲法違反をしている」といいたいのだと思う。こういう「憲法違反」を許すことは将来的によくない。「憲法違反」が皇室に引き継がれていく、と平川は考えている。
 断言はできないが、平川は、天皇が「拡大解釈」した「象徴の務め」をやめれるべきである、と言っているようである。「国民とのふれあい」は憲法には明記していない。天皇が「拡大解釈」したもの、天皇が「憲法違反」をしている。それをやめさせればいいだけ、と主張している。
 国民にふれることは、国民に「人柄」を直接伝えること。「人柄」というのは、「ことば」にならない人間の主張、意見である。「身振り/肉体」で伝える「思想」である。安倍は(そして代弁者の平川は)、天皇の「思想/人柄」が国民につたわること、広まることを恐れているのである。
 そして、そのために、「憲法違反」が引き継がれていかないようにすべきであると言っている。

③高齢となった天皇の負担軽減策
 健康に問題がある方が皇位につかれることもあろう。偏った役割解釈にこだわれば、世襲制の天皇に能力主義的価値観を持ち込むことになりかねず、皇室制度は将来、困難になる。
 退位せずとも高齢化の問題への対処は可能で、高齢を天皇の責務免除の条件として認めればすむ。

 ここでも天皇が「象徴としての務め」と語ったことを前面否定している。いまの天皇は「偏った役割解釈にこだわ」っている。天皇の「憲法理解」は間違っている。天皇は「憲法」をおかしている。
 さらに全国をまわり、国民に直接ふれあうことを「能力主義的価値観」と呼んでいる点が、とてもおもしろい。「能力主義」の反対はなんだろう。「形式主義」か。
 「祈り/祖先の尊重(祖先へのつながりを維持すること)」は、どうなんだろう。「形式主義」でこなせることなのか。「祈り」は「能力主義」とは関係ないのか。「祈り」のような「形式」を表現することで、日本そのものを「形式化」したいのかもしれない。
 国民の「能力」を認めず、国民を「形式主義」に封印したい。その「形式」の象徴として天皇を利用したい。活用したい。国民を、国ののぞの「形式」のなかに閉じ込めたい、ということが間接的に語られていないだろうか。

④摂政の設置
⑤国事行為の委任(臨時代行)
⑥天皇の生前退位
⑦生前退位の制度化
⑧生前退位後の天皇の地位や活動のあり方
 摂政設置要件に「高齢により国事行為ができない場合」を加えるか、解釈を拡大、緩和して摂政を設けるのがよくはないか。天皇が退位した後の上皇と新天皇の関係が天皇と摂政の関係より、良くなる保証はない。上皇と摂政は結果として同じになる。

 「摂政設置要件に「高齢により国事行為ができない場合」を加える」というのは、何に加えるのか。憲法第5条か。皇室典範第16条か。

(憲法第5条)
摂政は、皇室典範の定めるところにより置く。
(皇室典範第16条)
天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。また、天皇が、精神・身体の重患か重大な事故により、国事行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。

 読売新聞の記事では、平川がどちらを指しているのかわからない。憲法なら、憲法改正につながる。皇室典範なら皇室典範の改正につながる。明確にしていないのは、平川の論の力点が「摂政の設置」にあるからだろう。どちらでも、かまわない。ともかく摂政を設置してしまえ、「憲法違反」の天皇を封じ込めろ、ということだろう。
 天皇の「象徴としての務め」を「拡大解釈」と批判していたのに、ここでは「解釈を拡大、緩和して」と「拡大解釈」を推奨している。ここに「摂政」を設置し、天皇を「上皇」に封じ込めたいという「欲望」が隠されている。
 これは、私の見るところでは、安倍の「欲望」の代弁である。

 ちょっと論点がずれるが。私は以前、別の記事についてふれたことを思い出した。。
 2016年10月08日読売新聞夕刊(西部版・4版)の「KODOMOサタデー」。子ども向けのニュースの紹介欄に「生前退位」のことが書かれている。その最後の一段落。

 生前退位をめぐっては、「天皇の考えで自由に退位できると、混乱が起きるのでは」といった意見もあります。国民の意見を聴きながら、しっかりと議論をつくすことが大切です。

 ここで紹介されている「意見」はだれのものか、明記されていなかった。子ども向けのニュースではなく、一般向けのニュースの場合、必ず「政府関係者」「自民党幹部」「官邸関係者」などのことわりがある。
 それがだれの「意見」かわからないが、ここに書かれていた天皇批判は平川の意見とそっくりである。
 有識者会議の前から「天皇批判」を前面に出し、「生前退位」の問題を解決しようとする姿勢は見えている。
 官邸(安倍)側が、何度も天皇に摂政を持ちかけている。それに対して天皇は摂政ではだめだと言い続けた。その交渉の「結果」が8月8日の天皇のことばであることを、もう一度思い起こそう。

 「有識者会議」の結論は、平川の意見につけられていた読売新聞の見出し「摂政設置要件 緩和で対応」というところへまとまっていくのだろう。設置要件を緩和する(あるいは拡大解釈する)「特別法」が設置される。「摂政の設置」で天皇の実質的「退位」を実現する(認める)。それを、どう「文言」をかえて具体化するか、それを検討する(都合のいい表現をヒアリング対象者から聞き出す)ということだろうなあ。


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ジャック・ベッケル監督「モンパルナスの灯」(★★★)

2016-11-09 15:52:07 | 午前十時の映画祭
ジャック・ベッケル監督「モンパルナスの灯」(★★★)

監督 ジャック・ベッケル 出演 ジェラール・フィリップ、アヌーク・エーメ、リノ・バンチュラ

 モジリアニの生涯を描いた映画、なのだけれど。
 なぜ、モジリアニが、あの焦点のない目(瞳のない目)を描いたのか、首の長い肖像を描いたのか、というようなことは描かれていない。
 では、何が描かれているのか。
 モジリアニは女にもてた、ということが描かれる。このもてる男をジェラール・フィリップが演じるのだから、「美形だからもてる」ということになる。ふーん、美形でなければもてないのか。まあ、そうなんだけれど。なんといえば、それでは映画にならないだろう。いや、映画というのは、美男美女を見に行くもの(美男美女を見て自分が美男美女であると錯覚するもの)なのだから、これぞ映画というべきかもしれないけれど。
 で、おもしろいのは。なるほど、フランスだなあ、と感じるのは。
 ジェラール・フィリップはもてるから女とセックスする。そして次の女にまた手を出す。このことに対して、「罪の意識」というものを持っていないこと。好きな女とセックスをする、というのが当然と思っている。他の女に乗り換えても、「うん、新しい女ができたんだ」と当然のように主張する。「美形の男」というよりも「色男」だな。
 そして、これを捨てられた女が、なんというのか、これまた「当然」という感じで受け止めている。「そうなの、新しい女ができたの。私は捨てられたのね。でもいいわ。ちゃんとセックスしたんだから」という感じ。「色」を共有した、というのか、「色」を育てたというのか。未練がない、というと違うのだろうけれど、ジェラール・フィリップが他の女に引かれていく(色好み)のは「本能」のようなもので、それを引き止めてもしようがない、という感じ。そこで引き止めようとすると感情がめんどうくさいことになる。引き止めずに、それを見守る。女から、保護者(母親/色教育のパトロン)になる、という感じなのかなあ。
 出演者はジェラール・フィリップ、アヌーク・エーメ、リノ・バンチュラくらいしか名前がわからないのだが、金持ちの女がジェラール・フィリップをつかまえて、「あんたは女好きのする男なのだ」というシーンがあるが、好きになる(愛する)というのは、相手の色をすべて受け入れて、その色になってもかまわないと身を任せること。そう決意すること。そういう「恋愛観」が、この金持ちの女、居酒屋の女主人、アヌーク・エーメが、とても平然と体現している。金持ちの女と居酒屋の女主人が、互いを見つめ、「あ、この女、ジェラール・フィリップの色に染まっている」とわかり、それを受け入れるシーン(ジェラール・フィリップ)が倒れ、居酒屋の二階に担ぎ込まれ、そこで闘病するシーンに、そういう感じが出ている。
 これは、もしかするとモジリアニ(ジェラール・フィリップ)の生涯を描いたというよりも、モジニアニを愛した女の愛の形を描いた映画なのかもしれない。男を愛するとき、女はどんなふうに強くなるか、それを描いている。自分の中にある「色」を引き出してもらい、それによって「強くなる」、そのことを忘れないのが女なのだ。この男は、私の「色」を知っている。男の「色」に染めるのではなく、男の「色」が女の「色」を強調する。「色」のハーモニー。この女の愛に比べると、男の生き方なんて、とても「浅薄」なものである。
 ジェラール・フィリップは、この「浅薄」を生来の美形で気楽に演じている。モジリアニの絵は特徴的だが(自画像を描いてもらう男が怒りだすくらいだが)、モジリアニは絵を描くとき、その絵が自分の「色/スタイル」であるということを、そんなに強く意識していない。相手を「変形」させているとは思っていない。自分の「色/スタイル」を正直に出しているだけ、という「軽い」自覚しかない。
 リノ・バンチュラは、この他人から見れば「浅薄/軽薄(あるいは他人への配慮のなさ)」を「気迫(野性の本能)」にかえて演じている。モジリアニの絵の魅力をいち早く発見するのだが、買わない。死ぬのを待って、アヌーク・エーメの待つアパートに押しかけ、そこにある絵を買い占める。芸術(人間)を愛するのではなく、「金」で手に入れ、「金」で手放す。つまり、そうやってもうける。保護者(パトロン)にはならない。「浅薄」を「冷酷」に昇華させて(?)生き抜く。アヌーク・エーメが「モジがどんなによろこぶだろう」とそこにいないモジリアニと「一体(ひとつ)」になって涙を流して喜ぶのを、「この女、まだ何にも知らないぞ、気づいていないぞ」と、ほくそえむ目つきが、なんともすごい。
 うーん。
 女は、こういう目つきにはほれないかもしれないけれど、男はほれる。私は、ぞくっとした。これは、すごい、と一瞬、「我を忘れた」。言い換えると、金もうけだけを企んでいる画商なんて人間としてつまらない(浅薄である)と批判することを忘れた。「流通している倫理観」で画商を判断することができなくなった。
 こんなふうに世界をぐいっとつかみとってしまう「権力の野性/野性の暴力」に、「本能の力」を感じる。「産む性」ではない男は、「生み出されたものを奪う性」なのである。
 と、考えると、モジリアニを初めとする芸術家というのは、男のなかにあっては例外的に「産む性」であり、「産む性」という共通項が女を安心させ、女を引きつけるのかもしれない。少なくとも、フランスの女にもてようとするなら、男はすべて芸術家にならないといけない、と主張する映画である、と思ってしまう映画である。
         (「午前10時の映画祭」天神東宝スクリーン2、2016年11月07日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
モンパルナスの灯 Blu-ray
クリエーター情報なし
IVC,Ltd.(VC)(D)
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千人のオフィーリア(メモ13)

2016-11-09 00:20:45 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ13)

水の抱擁。やわらかな、
--ねえ、オフィーリア。水に入るときは下着をつけたまま?
  ねえ、オフィーリア、下着を脱いだ方がいいの?
  ねえ、どっちがきれい?
水を覗いて思ったのはいつのことだろう。

水の抱擁。いじわるな、
手。ブラウスの下にすべりこみ、
               冷たい。
乳房をなでる。
       冷たい、
春を追いかける雪解けの匂い。
息を吐くとき、
洩れそうになる声を追い抜いて
のどへ。のどまで。犯すように。
絞め。
   殺されたい。
頼んだら。
するりとブラウスの外へ逃げる。
いくじなし。
童貞の少年みたい。
じれったい。

未練のように。
布越しに、なでる。
手のひらの形で
色になる。
透けて。

袖口のさくらんぼの絵に縫いつけられた、
蝶結びのリボン。
スミレやバラではなく、
誰も名前を知らない花だけを束ねて、
透けていく胸を隠したい。

見られていると考えると、体中が罪の色に染まる
見られていないと考えると、体中が憎しみの色に染まる。
--ねえ、オフィーリア。水に入るときは下着をつけたまま?
  ねえ、オフィーリア、下着を脱いだ方がいいの?
  ねえ、どっちが醜い?

こうなったら、目をそむけさせたいの。











*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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