詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大西美千代「十月一日」、早矢仕典子「畳まれる」

2016-11-25 11:50:01 | 詩(雑誌・同人誌)
大西美千代「十月一日」、早矢仕典子「畳まれる」(「橄欖」104 、2016年11月25日発行)

 大西美千代「十月一日」の二連目。

家の近くの沼には
ときどき泡が浮く
沼の底に棲んでいる黒いものの

沼の悪意のようなものの
匂う日がある
人を陥れたりはしない
だましたりはしない
ただ
納得しないで沈んでいる
そしてときどき暗い泡を浮かべる

 電車のなかで思い浮かべる沼なのだが、ここがおもしろい。何度もことばを変えながら言いなおしている。ひとは大事なことは繰り返し言いなおす。
 「黒いもの」が「悪意のようなもの」と言いなおされる。それは「比喩」。さらに「人を陥れる」「だます」という「動詞」で言いなおす。この瞬間、そこに書かれていることが「ぐい」と迫ってくる。
 「息」は「匂う」という「動詞」で言いなおされる。「匂い」はつかみどころがない。気がついたときは「肉体」のなかに入ってきてしまっている。「陥れられる」「だまされる」というのは「匂い」に侵入されたような感じだろうか。
 ただ、「黒いもの」「悪意のようなもの」は実際に「人を陥れる」ことはない。「だます」ということもしない。そういうものを「肉体」のなかにためこんで、「動詞」にならずにいる。
 自分のなかに「人を陥れる」力がある、人を「だます」力がある。あるいは欲望がある。だが、動かさない。抑え込んでいる。このことを「納得しないで沈んでいる」と言いなおしている。「沈めている」と言いなおした方がわかりやすいかも。
 で、このときの「納得しない」。むずかしいなあ。どう言いなおせばいいのだろう。「人を陥れてはいけない/だましてはいけない」と言い聞かせようとしているのだろうか。
 そうした抑制は、「肉体」を苦しくさせる。
 だからときどき「息抜き」をする。「息」を吐く。「暗い泡」になって浮かぶ。
 沼の描写なのだが、大西の「肉体」に見えてくる。
 大西が「人を陥れる/だます」という欲望を持っている。それを抑えている、というのではないけれど。
 人を裏切ってみたい、人を傷つけてみたいという「暗い欲望」はだれにでもあると思う。それを見つめ、沼と重ねている。沼を思うとき、「肉体」が沼になって呼吸しているという感じに引きつけられる。
 「泡が浮く」から「暗い泡を浮かべる」へと動く過程で「暗い」ものの「肉体」が濃密になる。そこに引きつけられる。



 早矢仕典子「畳まれる」は「畳む」という「動詞」が「肉体」に響いてくる。

午後も遅くなって
その日の表へ出ると
昨日までのことは ひそりと畳まれていて

 「畳む」という動詞は「比喩」である。具体的な「動作」を直接あらわしてはいない。ハンカチやシャツではないのだから「昨日までのこと」など「畳む」ことはできない。
 この「畳む」という比喩としての動詞をどう言いなおしていくか。どう繰り返して言いなおすか。

一羽の黒揚羽が ひらり
ひと足 先回りするように
角を折れ
誘うように 翅を翻し

ふわり 身に迫り 黒い日傘へ
黒い日傘の自転車
老女がふわと揺らぎながら 過ぎていった

 「黒揚羽」は見えるけれどつかまえられない。誘っているけれど、つかまえられない。誘われるままに追いかけてると、「黒い日傘」にかわり、「ふわ」と過ぎていく。その「ふわ」っとした感じで過ぎていくことのなかに「畳む/畳まれる」があるのかもしれない。「痕跡」のようなもの。それを感じることを「畳まれている」と言っているのかもしれない。

昨日までのことは
ひとしれず 畳まれていて
欅並木の最後の蝉が
じぃ………と その余韻の中にいる

今日 生まれかわった西日は
見知らぬあの人の
見知らぬ物陰にも 覗き込むように届いていて
気付いてはいけなかった
その秘密の奥にも

 私が「痕跡」と思ったものは、「余韻」と言いなおされている。
 「余韻」は「ひとしれず」ということばといっしょに「畳まれている」。一連目では「ひそり」ということばといっしょにあった。「ひそり」「ひとしれず」は、「秘密」と言いなおされ、「気付いてはいけなかった」ということばといっしょに動く。
 「秘密」は畳んでしまうもの。そこに「畳まれて」あることがわかっても、それを「開いてはいけない」。「きのうまでのこと」は「開いてはいけない秘密」。
 この「畳む」と「秘密」の関係は、大西の「沼」と「暗い泡」を思い起こさせる。大西は「秘密」を「黒い泡」にして吐き出す。早矢仕は「畳まれた」まま、それがあることを意識する。

 ふたりは別なことを書いているのだが、読む私の「肉体」はひとつなので、つづけて読むと「ふたつ」が「ひとつ」になって動いてしまう。
残りの半分について―大西美千代詩集
大西美千代
竹林館
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千人のオフィーリア(メモ21)

2016-11-25 00:00:00 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ21)

夜の時間がかすれた声で抗議した。
きのうの次がきょう、きょうの次があしたなんてだれが決めた。
きょうの次がおとついで、あさっての未来があしたでも、
私は困らないよ。
オフィーリアよ、いまこそ復讐せよ。

昼の時間がなれなれしい声で言う。
きのうがあしたの夢を見るなら、
あしたはきのうの夢にやってくる。
あさっての夢はきょうに嫉妬し、
しあさってはおとついの夢に呪いをかける。
私は困らないよ。
オフィーリアよ、いまこそ復讐せよ。

いま、いま、いま。        
ことば、ことば、ことば。

朝の時間は透明な声で歌うのさ。
あしたがきょうのなかに押し入り
きのうはあしたにまたがって、
あさっての股からおとついが生まれる。
きょうがきのうにつながらない。
私は困らないよ。
オフィーリアよ、いまこそ復讐せよ。



*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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