詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トランプ革命

2016-11-12 20:53:41 | 自民党憲法改正草案を読む
トランプ革命
               自民党憲法改正草案を読む/番外39(情報の読み方)

 トランプのアメリカ大統領選勝利後、いろいろなことが報道されている。読売新聞は「トランプ革命」という連載を始めた。その2回目(中)が2016年11月12日日読売新聞朝刊(西部版・14版)に制裁されている。「保護主義 世界経済に影」という見出しがついている。
 そのなかで、気になる部分がある。

 米国の「内向き志向」は日本企業に試練となる。
 NAFTAにより米国に関税ゼロで商品を輸出でき、賃金が安いメキシコには、トヨタ自動車やマツダ自動車など日系4社が生産拠点を構える。みずほ銀行産業調査部によると、2015年にメキシコで生産した 132万台のうち56万台が米国向けだ。関税がかかるなら、生産拠点の見直しも避けられない。

 ここに書かれている(省略されている)情報は、TPPに先行したNAFTAの問題点を隠している。それを私なりに読み解くと……。
 NAFTA以後、大企業(グローバル産業)は生産拠点をアメリカからメキシコに移した。アメリカの人件費が高いからである。人件費の安いメキシコで生産すれば、それだけ商品を安くできる。つまり、売りやすくなる。売れる。商品の値下げは消費者にとっても歓迎できるものである。企業も消費者にもいいシステムに見える。
 しかし、このシステムを労働者の側から見つめなおすとどうなるか。メキシコの労働者にとっては「歓迎」できるものである。新しい雇用が生まれる。自動車工場で働くことで、いままで以上の賃金を稼ぐことができる。
 一方、アメリカの労働者にとってはどうか。アメリカにあったトヨタ、マツダの工場がメキシコに移ってしまうということは、職場がなくなるということである。失業である。五大湖近くの州でトランプが軒並み勝利したのは、それらの州の労働者(有権者)がNAFTA以後失業し、不満を抱えていた証拠である。大企業はもうかるかもしれないが、労働者(市民)は苦しくなるだけのシステムがNAFTAだったのである。
 TPPが発効すれば、同じ問題が拡大する。工業製品だけではなく、農業製品も「安い」ものが売れる。「高い」ものは売れなくなる。「失業」が増える。「もの」を売りさばく企業だけが、「もの」を流通させるシステムを利用してもうけることができる。「生産者(労働者)」ではなく「経営者」だけがもうかるのが、いま、世界を覆っているシステムである。
 視点をかえてみよう。もし、メキシコに移転した工場が、アメリカで操業していたときと同じ賃金を労働者に支払った場合は、どうなるか。企業(経営者)の「もうけ」はかわらない。それは逆に見れば、企業は工場をメキシコに移すことで「搾取」の対象をアメリカ人からメキシコ人に変更したのである。
 簡略化して、算数にしてみる。アメリカ人に 100ドル払ってつくった商品を125 ドルで売る。25ドルが経営者の利益。同じ商品をつくるのに、メキシコ人なら賃金は50ドルですむ。(50ドルでもメキシコ人が働くのは、それまでのメキシコ人の賃金が25ドルだったからである。)そして、この商品を 100ドルで売る。消費者は 125ドルから 100ドルに下がったので、ずいぶんもうかった気持ちになる。
 このとき経営者の方に目を向けてみる。アメリカでは125 -100 =25。メキシコでは100 -50=50。なんと利益が倍増している。安くなった分だけ消費が拡大するだろうから、その利益はさらに膨らむ。だからグローバル産業は、このシステムに賛成である。
 問題は、「利益」を企業がどうしているか、である。社会に還元しているのか。労働者に還元しているのか。「利益」をもとに、アメリカで新しい商品のための工場建設し、アメリカ人を雇用するということがあれば、工場のメキシコ移転は問題にならないだろう。企業は利益を還元せず、ただもうけているだけなのである。
 また、労働者から問題を再点検しよう。メキシコの労働者が、メキシコ移転で企業が利益を拡大するのはおかしい。25ドルの利益が必要なら、賃金を75ドルまであげてもいいはずである、と要求したらどうなるか。企業は、きっと50ドルで満足する労働者を探し始める。いや、メキシコを捨てて40ドルで満足する労働者のいる国を探す。これは、労働者から見ると、賃金の果てしない「切り下げ」である。
 こういうことは、グローバル企業だけではなく、日本国内のそんなに大きくない会社でも頻繁に起きている。子会社を設立し、そこに業務を委託する。同じ仕事なのに、それまでの社員の賃金とは比較にならない賃金で新規雇用をし、利潤を増やす。これが、いま日本の多くの会社で起きていること。さらに、これに「非正規雇用」が加わる。日本では、企業経営者だけがもうかるシステムが動いている。
 トランプがやろうとしていることは、この連鎖を断ち切ること。ある意味では「経済革命」。「保護主義」と否定するだけでは、アメリカ人(貧困に苦しむ労働者/失業者)が示した「選択」の方向性を見誤る。「保護主義」という批判は、あまりにもグローバル産業よりの視点ということになる。

 もうひとつ、違う観点から考えたい。
 読売新聞の記事は「生産拠点の見直しも避けられない」と企業の心配をしている。企業の心配だけではなく、日本国民の心配をしてもらいたい、と私は思う。
 生産拠点を移転するのは企業にとって膨大な出費だろう。それは、わかるが、その結果、企業が納める税金はどうかわるのか。
 この問題だけにかぎらない。円高になると、輸出企業の利潤が下がる。大打撃になる。それはそうだろうが、それでは企業の大打撃が、私たちの「国の財政」にどれだけ影響するのか。具体的に説明すべきである。トヨタ、マツダが税金(法人税)をどれだけ国に納め、円高が進んだり、生産拠点の変更が必要になったとき、その税金はどれだけ減るのか。つまり、国の予算規模がどれだけ縮小するのか。そういう点検をこそ、報道機関はしてほしい。そういう「情報」を国民に知らせてほしい。
 大企業がどれだけ利潤を隠し、労働者を搾取しているか。それを明確にする視点、方法論が必要なのである。
 安倍はアベノミクスは成功している(道半ばである)と平然と言う。それは安倍の周辺、つまり大企業がもうかっている、利潤を増やしているという情報だけが安倍に届いているからである。つまり、アベノミクスというのは大企業の経営者向けの政策であって、国民向けの政策ではないということ。安倍が強引に推し進めるTPPも大企業向けの政策だからである。国民を無視して、大企業さえもうかればいいというシステムである。だからこそ、安倍は、それを推し進める。

 トランプ主義のもうひとつに「人種差別」がある。そして、それが「経済」が生み出したものであるのは事実だが、そうであるなら、いま進みつつあるグローバル経済主義というものが、どんな格差を生み出しているかという問題をみつめないことには、何も見つめたことにならない。
 大企業が損をする、どうしよう、という視点ではだめなのである。
 私はトランプの「人種差別」(平等の否定)には賛成できないが、大企業向けの政策ではなく、労働者向けの政策に転換するきっかけになるNAFTAからの離脱、TPP反対がどうなるかには注目している。「トランプ革命」が日本にどう影響するかに

 

*

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すとうやすお「さやえんどうをつむ」

2016-11-12 09:07:56 | 詩(雑誌・同人誌)
すとうやすお「さやえんどうをつむ」(「光年」150 、2016年09月15日)
 
 すとうやすお「さやえんどうをつむ」は「詩三篇」のうちの一篇。ある詩集を読んでいたとき、ふと思い出した。

うまれたての
やわらかいのをつむ
しおれたはなを
まだつけたのもつむ
つみとりきずのしるで
ひとさしゆびのさきを
ぬらしてつむ
うねをひとめぐりして
こんどははんたいにまわって
かくれていたのをつむ
まめをいれたふくろが
だんだんおもくなる

 文字どおり、さやえんどうを摘むということが書かれている。不思議にいとおしくなる。ことばのなかに、ことばでとらえられているものが、一瞬一瞬、生まれてくる感じがする。
 書き出しの「うまれたての」。えんどうなのだから「うまれる」という表現は「正しい」とは言えないかもしれない。だいたい「うまれたて」(結実してすぐ)ならば、小さすぎて食べるのには不適切ということになる。すとうは「事実」を書いていないことになる。でも、こういう「理屈」は「屁理屈」。結実して、何日かたっていても、それをつもうとしたとき、それは「うまれたて」としてそこにあらわれてくる。この「ことば」と「事実」がいっしょになって、「いま/ここ」に、自然にあらわれてくる。それこそ「うまれてくる」のである。
 「やわらかい」も、そのとき生まれてきた「事実」なのである。「うまれたて」の「事実」なのである。「やわらかい」ということばをつかわなくてもえんどうはやわらかいかもしれない。でも、「やわらかい」ということばで、そのときに「やわらかい」そのものが生まれてくる。何だが、うまれたての赤ちゃんを見るような、どきどきした気持ちになる。
 「しおれたはなを/まだつけたのもつむ」は最初の二行を言いなおしたもの。花の名残がある。「しおれた」は花の死を意味するかもしれないが、それが逆に「うまれたて」を輝かせている。「うまれたて」をあらためて発見、確認している。
 その次の、

つみとりきずのしるで
ひとさしゆびのさきを
ぬらしてつむ

 この三行が特にいいなあ。「つむ」という動詞は「肉体」を含んでいるけれど、最初の四行のなかの「うまれたて」「やわらかい」「しおれた」ということばは、摘んでいる人(すとう)の「肉体」というよりもえんどうの「肉体」を感じさせる。えんどうのみずみずしさが最初の四行で書かれている、と感じる。「つむ」という動詞は、最初の四行ではまだ「脇役」だ。
 それが、この三行で「主役」にかわる。
 「つむ」。そうすると「つまれるえんどう」の方から「反動」のようなものがかえってくる。えんどうが傷つき、しるを飛ばす。それが指先につく。そのしる(滴/飛沫)のようなものを指に残したまま、えんどうを摘みつづける。あたりまえのことなのだけれど、ここに、あ、働いている、肉体が動いていると感じる。えんどうを摘んだときのことを思い出すのである。あ、おぼえている。たしかにそうだった、と思う。このとき、えんどうが「うまれたて」の状態で生まれてきたように、「肉体」が「生まれてくる」。ここに書かれているのは、すとうの「肉体」なのに、まるで私(谷内)の「肉体」として生まれてきて、動いている感じがする。
 えんどうのしるでぬれる。それは「ぬれる」ということばではなかなか言わないものである。「流通言語」の奥でしずかに生きていたことばが、いまたしかに、「うまれて」いるのである。「生まれて」、そして「生き直している」。だから、感動する。「えんどうをつむ」というのは、ありふれたことなのに、それがことばといっしょに「生まれて、生き直している」。
 そのあとも「肉体」がていねいに描かれる。「うねをひとめぐり」と「はんたいにまわって」は同じこと。同じことだけれど、言いなおすことによって「反対」が新しく「生まれてくる」。そして、それは「かくれていた」を発見する。つまり、「生み出す」。発見とは、そこになかったものを見つけることではない。見落としていたものを、「そこにあった」と気づくこと。気づくだけではなく、それを「事実」として「生み出す」ことなのだ。
 「出産」ということばを、あえてつかいたいくらいである。それは「肉体」の「分離/分節」なのだ。そこから、まったく新しい「肉体」が動き始めるのである。

まめをいれたふくろが
だんだんおもくなる

 これは、摘み取ったえんどうをいれる「袋」、すとうが脇に抱えている「袋」が重くなるということを書いているのだが、私には、同時に摘み取られたえんどうの袋(さや)そのものが「充実して」、言い換えると「いっそう実り」、えんどう自体が重くなるようにも感じられる。摘まれることによって、えんどうの生長が始まる。そういうことは「現実」にはないのだが、摘んでいる「肉体」にはそう感じられる。
 すとうは、いままで存在しなかった「えんどう」を生み出している。そして、そのえんどうは、そのときすとうの「肉体」そのものでもある。「いのち」でもある。
 
みずたまり
すとうやすお
書肆山田
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千人のオフィーリア(メモ14)

2016-11-12 00:00:00 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ14)

私の前にだれがこのことばを読んだのだろう。
存在しないオフィーリアよ、
私はカップに近づけていた唇をとじる。

--ことばにすると、どんな姿態も淫らではなくなる。
  だから唾でよごれる声は飲み込みなさい。

意識の喉がしろくふくらむ。
夜の鏡のなかで。カーテンを開けた夜のガラス窓のなかで。

そのころ、存在しない百三十七人目のオフィーリアは、
ウィンドーの内部のマネキンの長くのけぞる、のど。











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