江代充「紗音とともに」(「現代詩手帖」2017年01月号)
江代充「紗音とともに」は「紗音 わたしは語る」のなかの一篇。
松浦寿輝の詩と読み比べると、江代は「実景」だけを描いているように見える。しかし、そうか。三行目「先ほどから見えなくなっていた」は「意識」によってはじめて成り立つことばである。「見えていたものが/見えなくなった」という「意識」が動いている。そして、それが「見せはじめ」ということばでくくられるとき、「見せはじめ」は「見えてきたことに気づいた」ということ、「気づき」をあらわしている。「意識」を「実景」のなかに深くもぐりこませてことばが動いている。意識が実景を動かしている。
「実景」など、ないとさえいえる。どんなに「具体的」に書かれていても、そこには「もの」は存在せず、「意識」の運動があるだけだ。
「意識の運動」を江代は「肉体」あるいは「もの」の「動詞」とからめて具体化する。「出る」「折れる」「見えなくなる」……。ことばと一緒に動くのは「意識」というよりも「肉体」である。それにともなって「実景」も変化する。
「壁の表」とは不思議な言い方である。「壁」に「表」「裏」はあるか。あるとしても外から見えるのは「表」だけである。「表」とことわらないと「実景」にならないというわけではない。「実景」が「余剰」に描写されている。その「余剰」が「精神」というものである。
しかし。
「紗音(しゃのん)」って、何? 「指の幅」ということばがつづいている。「観音」か何かの一種?
私は「わからないことば」を調べるという習慣がない。大事なことばなら、きっと別なことばで言いなおされるはずと思っているので、言い直しが出てくるまで待つことにしている。
で、つづきを読む。
さて、困った。
私がつかわないことばとして「所為」というのが出てきている。これと関係がある? いや、なさそうだなあ。
「紗音」。わかるのは「音」だな。
で、前半を読み直す。
「小川」が出てくるが、見えているのは「水」ではなく「石垣」。そして、後半はそれに呼応するようにして「川床の水の流れを見ることができない」とある。「水の流れ」を見ていないのに、「かれ」は「川」と判断している。「石垣」から? すべての「石垣」が川岸の石積みとはかぎるまい。そうすると「音」から「川」と判断していることになる。「水の音」。
「紗音」とは「川の水の音」。「紗」には「糸」があり「少ない」がある。ほそい、とぎれとぎれ。豊かに流れる川ではなく、小川の「小さな音」。「指の幅」とは「細い」に通じ、とぎれとぎれに通じる。
小さな音がとぎれとぎれに聞こえるように、壁の表と無花果の影が「まだら」を描いてつづいている、ということか。
その「音」を聞くことで、「かれ」は「川の水」をみなくても「川に出会うことができた」と感じている。
最後の「思った」が、小学生の「作文」のようだが、とても重要だ。
江代が書いているのは「実景」ではなく「精神の運動」、「川の水」を見なくても「川にふたたび出会った」といえるのは、「川」を「実景」ではなく「状況(頭でととのえた意味)」としてつかんでいるからである。ただし、「頭」といっても、それは「抽象的」ではない。「耳」をつかっている。「目」で確かめてはいないが「耳」で確かめている。「肉体」が認識の奥で融合して動いている。
「目」と「耳」の融合に力点を置けば、「肉体」でとらえなおした「川のある風景」ということになるが、その融合を確固としたものにしているのは「見る/聞く」という動詞をとらえなおす「意識」である。
江代充「紗音とともに」は「紗音 わたしは語る」のなかの一篇。
やや狭まった空地のような所に出ると
少し前に道を折れたため
先ほどから見えなくなっていた近くの小川が
そこから対岸の石垣を見せはじめ
上には岸にせまった人家の色付いた壁の表と
無花果のかげが
ひらいた紗音(しゃのん)の指の幅をもって
いくつか続いていた
松浦寿輝の詩と読み比べると、江代は「実景」だけを描いているように見える。しかし、そうか。三行目「先ほどから見えなくなっていた」は「意識」によってはじめて成り立つことばである。「見えていたものが/見えなくなった」という「意識」が動いている。そして、それが「見せはじめ」ということばでくくられるとき、「見せはじめ」は「見えてきたことに気づいた」ということ、「気づき」をあらわしている。「意識」を「実景」のなかに深くもぐりこませてことばが動いている。意識が実景を動かしている。
「実景」など、ないとさえいえる。どんなに「具体的」に書かれていても、そこには「もの」は存在せず、「意識」の運動があるだけだ。
「意識の運動」を江代は「肉体」あるいは「もの」の「動詞」とからめて具体化する。「出る」「折れる」「見えなくなる」……。ことばと一緒に動くのは「意識」というよりも「肉体」である。それにともなって「実景」も変化する。
「壁の表」とは不思議な言い方である。「壁」に「表」「裏」はあるか。あるとしても外から見えるのは「表」だけである。「表」とことわらないと「実景」にならないというわけではない。「実景」が「余剰」に描写されている。その「余剰」が「精神」というものである。
しかし。
「紗音(しゃのん)」って、何? 「指の幅」ということばがつづいている。「観音」か何かの一種?
私は「わからないことば」を調べるという習慣がない。大事なことばなら、きっと別なことばで言いなおされるはずと思っているので、言い直しが出てくるまで待つことにしている。
で、つづきを読む。
このまわりに散在する草の所為ではないが
ここからは背伸びをしても
川床の水の流れを見ることができない
その代わりにかれは
いま立ち止まっている所からでも
ふたたび川に出会うことができたのだと思った
さて、困った。
私がつかわないことばとして「所為」というのが出てきている。これと関係がある? いや、なさそうだなあ。
「紗音」。わかるのは「音」だな。
で、前半を読み直す。
「小川」が出てくるが、見えているのは「水」ではなく「石垣」。そして、後半はそれに呼応するようにして「川床の水の流れを見ることができない」とある。「水の流れ」を見ていないのに、「かれ」は「川」と判断している。「石垣」から? すべての「石垣」が川岸の石積みとはかぎるまい。そうすると「音」から「川」と判断していることになる。「水の音」。
「紗音」とは「川の水の音」。「紗」には「糸」があり「少ない」がある。ほそい、とぎれとぎれ。豊かに流れる川ではなく、小川の「小さな音」。「指の幅」とは「細い」に通じ、とぎれとぎれに通じる。
小さな音がとぎれとぎれに聞こえるように、壁の表と無花果の影が「まだら」を描いてつづいている、ということか。
その「音」を聞くことで、「かれ」は「川の水」をみなくても「川に出会うことができた」と感じている。
最後の「思った」が、小学生の「作文」のようだが、とても重要だ。
江代が書いているのは「実景」ではなく「精神の運動」、「川の水」を見なくても「川にふたたび出会った」といえるのは、「川」を「実景」ではなく「状況(頭でととのえた意味)」としてつかんでいるからである。ただし、「頭」といっても、それは「抽象的」ではない。「耳」をつかっている。「目」で確かめてはいないが「耳」で確かめている。「肉体」が認識の奥で融合して動いている。
「目」と「耳」の融合に力点を置けば、「肉体」でとらえなおした「川のある風景」ということになるが、その融合を確固としたものにしているのは「見る/聞く」という動詞をとらえなおす「意識」である。
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