詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「論点整理」という罠

2017-01-24 12:48:28 | 自民党憲法改正草案を読む
「論点整理」という罠
               自民党憲法改正草案を読む/番外70(情報の読み方)

 2017年01月23日読売新聞(西部版・14版)1面に「天皇の生前退位」を巡る「論点整理」に関する記事がある。

退位「一代限り」の方向/有識者会議 論点整理、首相に提出

 有識者会議でいろいろな「論点」が議論された。その結果、「一代限り」という方向性を打ち出した、ということなのだが。
 「論点整理の全文」というのが11面に載っている。一番スペースをとって紹介されているのが「退位」を「将来のすべての天皇を対象とすべきか、今上天皇に限ったものにすべき課について」という項目である。
 (イ)将来の全ての天皇を対象とする場合(ロ)今上天皇に限ったものとする場合の二つに分けて、「意見」と「課題」が書かれている。(ロ)の方が「意見」も「課題」も書かれている項目が少ない。特に課題が三項目と限定されている。ここから

退位「一代限り」の方向

 ということが打ち出されている。
 「課題」が少ないから、こっちがいい。
 これって、何か変じゃないだろうか。「消去法」で決めるようなことがらだろうか。「課題」は多くても、課題をひとつひとつ克服し、こうしなければならないということもある。大事な問題なら大事であるほど、「消去法」ではなく完全に納得できるものを選ぶべきである。
 「消去法」では「理念」が見えない。天皇制はどうあるべきなのか、ということがほんとうに議論されたのか、そのことがまず「疑問」として浮かび上がる。
 天皇は8月8日のメッセージを「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」というタイトルで語った。それはタイトルが示すように、「象徴としての務め」についての「実践」と「理想」、つまり「思想」を語ったものである。「生前退位」について積極的に語ったものではない。
 天皇が「思想(理想)」を語っているのに、それを無視してというか、「理念」を明示せずに議論をはじめてもしようがないだろう。

 それに。(ここからがポイント)
 有識者会議のメンバーは6人。6人の「意見」が違っていたとしても、「意見」の数は6を超えない、と私は単純に考える。ところが、(イ)将来の全ての天皇を対象とする場合に対する「意見」は10項目ある。「課題」は23項目もある。1人で複数の「意見/課題」を語った人がいるということである。一人の人間のなかで「意見/課題」が「整理されていない」。もちろん、そういうことはあるだろうが、問題は、それではどの「意見」とどの「意見」が完全にリンクしているか(一人の人の意見なのか)、それに対するどの「課題」がだれによって提起されたのかが、まったくわからない。
 「意見A」に対して、「意見B」の人が「課題A」と問題提起したのか。その「課題A」は「意見B」とはほんとうに無関係なものなのか。「意見B」の場合は「課題A」は完全に解消されるのか。そういう「有機的なつながり」(全体の思想)が、まったく見えない。
 どんな「意見」でも、それを言うとき、その人間の「全体」があるはず。その「全体」が見えないから「個別の意見/課題」も「人間」の形として見えてこない。
 これは、とても不気味である。
 「論理」を「論理」として議論するのだから、誰が言ったかは問題ではないということかもしれないが、あるひとがひとりで「意見A」と「意見B」を言っていると仮定してみる。そしてAとBは矛盾する意見だと仮定してみる。そのとき、ひとはAの意見は矛盾していると批判するはずである。「矛盾している」というのは「無効である」という意味でもある。
 議論をわざと複雑怪奇にするために、そういう「操作」が行われているかもしれない。議論をある方向に向けるために、わざと思ってもいないことを口にする、ということがあるかもしれない。
 誰が、どの意見、どの課題を発言したのか、その意見、課題が、どんなふうにつながり、かんれんしているのか、それを明確にしないことには、議論が純粋な議論なのか、作為に基づく操作なのか、わからない。
 「意見」「課題」の書き方についても言える。
 安倍は「一代限りの特例法」をめざしているが、そのときの課題として「有識者会議」、こう整理している。(番号は私がつけたもの。)

(1)長寿社会を迎えた我が国において、高齢の天皇の課題は今後も生じる。このような課題は皇室典範制定時には想定されていなかったものであるから、時代の変化にあわせ、皇位継承事由を「崩御」のみに限定するという原則を見直し、退位制度も原則の一つとして位置づける必要があるのではないか。その方が安定的な皇位継承に資するのではないか。
(2)今上陛下に限ったものとする場合、後代に通じる退位の基準や要件を明示しないこととなるので、後代様々な理由で容易に退位することが可能になるのではないか。その場合、時の政権による恣意的な運用も可能になるのではないか。


 (1)はすでに報道されている「皇室典範」に補則を付け加えるという方法である。皇室典範に補則を加えるというのは、皇室典範の改正とどう違うのか。 
 (2)は政権の都合で「天皇を退位させる」ということが起きるのではないか、という不安を間接的に書いたものである。私なら、政権が政権の都合で天皇を退位させるという「余地」を残しておくために、恒久的な法律にしないのではないか。皇室典範そのものを改正すれば、政権はその法律に従わなくてはならない。だから「一代限り」の特例法にしようとしている。次の天皇には、次の天皇の「一代限り」の特例法で対応するという「余地」を残すための方便にすぎないように見える、と言うだろう。
 で、この二つの「課題」だが、どれを先に表記するかという問題も起きる。「論理」が違ってくる。
 (2)を先に書くと、(1)は(1)のままでは書けなくなる。(2)の課題が先にあると、(1)では政権に恣意的な運用をさせないためにはどうするべきか、ということを言わないといけなくなる。それをかいているとごちゃごちゃと長くなる。政権を弁護しているようにも受け取られてしまう。それではまずい、ということだろう。
 今回の「論点整理」はとても巧妙である。
 (1)に対して(2)の反論(?)をさせ、それを(3)止揚する。弁証法というのかどうかわからないが、こうである。

(3)退位の具体的な要件を定めなくても、皇室会議の議決を要件とするなど退位手続きを整備することにより、恣意的な退位を避けることができるのではないか。

 「恣意的な退位」の「恣意的」の「主語」は誰なのか。天皇なのか。政権なのか。どちらともとれる。(2)が「政権による恣意的な運用」を問題にしていたので、「政権による恣意的な退位」ととらえておこう。(2)の不安は、「皇室会議の議決を要件とするなど退位手続きを整備することにより」防げる。だから(1)でいいのではないか、と「要点整理」は「結論」を出しているのである。
 この部分は、「課題」の並列ではない。だれかが、意図的に整理している。
 「整理」をしたひとが誰なのか。それは「意見」「課題」のそれぞれを誰が発言したのかわかれば、おのずと見えてくるだろう。そして、その人物が特定できれば、もっと違うもの、今回の議論の背景にあるものも見えてくるかもしれない。なぜ「有識者会議」のメンバーが6人なのか、なぜ「有識者会議」に民進党や共産党、その他の党の「推薦者」が含まれないのか、というような問題点の背後にあるものも見えてくるはずである。

 ほかにもいろいろ書きたいことだらけなのだが、私は目が悪くて長くパソコンに向かっていられない。最後に少しだけ付け加えておく。
 「退位について」という項目の「積極的に進めるべきとの意見」の最初に紹介されていることば。

今上陛下については、御意思に反していないことが推察されるので、退位に伴う弊害を心配する必要はないのではないか。

 誰の意見かわからないが、その人は「推察」ということばをつかっている。「生前退位」が「御意思に反していない」かどうか、天皇に確認したわけではない。籾井NHKが「天皇、生前退位の意向」とスクープしてから、誰ものが天皇は「生前退位の意向」を持っていると思っているが、思っているだけで、確認した人はいないだろう。籾井NHKの「ことば」にリードされているだけである。
 繰り返しになるが、8月8日の天皇のことばは「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」であって、「退位についてのおことば」ではない。「退位」ということばはメッセージのなかには出てこない。

 3面に

「退位」「退位後の活動」 課題

 という見出しがあり、記事に次の部分がある。

 平成の即位では、昭和天皇の「大喪儀」が1年続き、国の儀式「即位の礼」や皇室の儀式「大嘗祭」は崩御の翌年、喪が明けてから行われた。退位ならば服喪もなく日程も変わる。

 これに関することは8月8日のメッセージにも関連することばがあったが。
 この記事、さっと読める? 書かれていることに納得できる?
 私は「退位ならば服喪もなく日程も変わる。」にぎょっとしてしまう。天皇が死んだ場合と、天皇ではなくなった人間が死んだ場合では「服喪」が違ってくるというのは「法律」(あるいは、制度)としてはそうなのだろうが、「人間」の気持ちとしてはどうだろうか。
 私は親孝行とはいえる人間ではないが、非常に違和感をおぼえる。
 いまの皇太子が天皇になり、天皇ではなくなった今の天皇が死ぬ。そのとき「天皇」は死んだのは天皇ではないのだから「服喪」は簡単でいい、と思うのだろうか。「日程」(行事?)は簡便にしないといけないのかもしれないが、気持ちは「制度」のようにはわりきれないだろう。気持ちはひとそれぞれで、父親のことをすぐに忘れる人もいれば、何年も悲しみに沈む人もいる。身分が「天皇」であるか、ないか、だれが「天皇」なのかということとは別に、父の気持ち、子の気持ちというものがある。それは「日程」ではないだろう。「日程」が「気持ち」を決めるのではなく、「気持ち」が「日程」を決める。これは「皇族」だろうが、「庶民」だろうが、同じだと思う。

退位ならば服喪もなく日程も変わる。

 というのは、おそろしく機械的な考え方であり、そこに安倍の姿勢の反映を感じる。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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高埜圭『ここはいつも冬』

2017-01-24 09:58:10 | 詩集
高埜圭『ここはいつも冬』( 100人の詩人・ 100冊の詩集)(土曜美術社出版販売、2016年11月26日発行)

 高埜圭『ここはいつも冬』は、目の悪い私にはとても読みづらい。灰色の紙に朱色(金赤かな? 灰色のせいで朱色に近く見えるのかな?)で印刷されている。「挫折模様」の最終行「視線の先にはキリストが微笑んでいる」まで読んで、あとは読むのをあきらめた。巻頭の「青幻」には刺戟を受けたので、もっと読みたいと思ったのだが目がついていかない。
 その「青幻」。

定義されることばは非情にすぎない
という反問の中で我々の関係は風化する

 「定義されることばは非情にすぎない」が「反問」であるかどうか、わからない。何に対する「反問」なのか、わからない。ある断定(定義)と、「反問」。「問い」という「反論」があるのだろうが、先行する「こと」がわからない。わからないまま「我々の関係は風化する」と断定される。「関係」が「事実」として突然あらわれる。しかもその「関係」は「風化する」という形で否定されていく。「風化する」という動詞が、そこで起きている「こと(事実)」になる。
 「存在」が否定されるとき、残されるのは、ことばのリズム。強い。リズムが「論理」であると主張しているように感じられる。
 言い直しなのか、補足(付け加え)なのか、これもわからないまま、ことばはリズムを守ってつづいていく。

機能の逆転かもしれない
我々の関係に浸透するしか
視つめることのできない偏光に在る
ひとつから派生した幻想に語られる可能性は
無為の証明と訣別の破裂音でしかない

 「漢字熟語」は「意味」を強引に呼び込む。「表意文字」が重なり「意味」が増幅する。ただし、わかるのは「意味」が過剰に増えているということだけであり、「意味」そのものは、私にはわからない。
 「意味」の増え方のリズムが「一定」している。「安定」している、と感じる。このリズムに酔ってしまう。
 リズムが高じて、「視つめる(視力/視覚)」でとらえられていたものが、「破裂音」と聴覚へ直結する。この飛躍に詩の強さがある。ここが、自然体の中でいちばん美しい。
 私は「音読」はしないから、漢字熟語「視覚」のリズムに酔うと言い換えることができる。それが「視覚」のリズムだからこそ、私は、この本を読みづらいとも感じる。
 このリズムがこのままつづくとおもしろい。「視覚」から「聴覚」へ飛躍した「肉体」が、さらに暴走し、輝くとすばらしいと思う。

 けれど、違ってきてしまう。

カオスから取り出す点(ピリオド)はカオスに還るだろうか

 一行の中で「カオス」ということばが繰り返される。それまでの、先行することばを内側から突き破っていくリズムが崩れ、循環してしまう。カタカナの登場も漢語のリズムを「視覚」で破壊する。つまずかせる。
 繰り返しそのものについてならば、これまでにもあった。「関係」ということば、「我々の関係」はすでに繰り返されている。しかし、これは「テーマ」なので繰り返されるのはしかたがない面がある。
 このリズムの破綻は、その後、突然「意味」に変わってしまう。音楽を拒み、「意味」の重力へと傾いていく。

いつまでも平面であり
いつまでも線(ウェーブ)であり
立体構成のない我々の関係の風化は冷却する

 「点→線→平面→立体」というのが算数(数学)の「経済学」だが、それは「ウェーブ」というルビが持ち込む「意味」と一緒にずらされる。「ずれ」というのか「差異」というのか、私は知らないけれど、そういうものをとおして「関係の風化」が語られなおす。そして、「予定調和」のように、ことばが変転し、運動がおさまっていく。
 「意味の重力」はとても強い。

訣別がもたらした風化は冷却により除去(のぞ)かれ
我々の関係の成立条件は
影と砂の国の彼方
息吹くほほえみのうちに
極めて遠く
窮めて近い
白星雲を超えて在る

 これは「カオス」の繰り返しと、その直後の2行「いつまでも平面であり/いつまでも線(ウェーブ)であり」(……である)が引き起こしたものである。
 ことばの表記の変化と一緒に「動詞」の「形」が違ってきてしまった。「動詞」が「動き」から「状態」へと固定化され始めたのである。平面に「なる」、線に「なる」という「動き」を含んだものではなくなった。
 弛緩したリズムを書朝敵に具体化するのが「除去(する)」を「のぞく」と読ませるところにあらわれている。
 終わりの方の「極めて」「窮めて」の書き分け、「差異(ずれ)」をさらに細分化するものであり、「白星雲」というような「宇宙」が出てきても、コップの中の水のみだれのようにしか感じられない。
 書き出しの七行の、動詞が動詞がぶつかり合い、先行する動詞を次の動詞が突き破っていく烈しさが、そのままつづけば楽しいと思う。灰色と金赤の色の衝突も一瞬の内に過ぎ去る感じになるかもしれない。固定化が始まり動きがゆるくなると、目の悪い私には「金赤」と「灰色」の衝突しか見えなくなる。どうにもつらいものがある。
ここはいつも冬
クリエーター情報なし
土曜美術社出版販売
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