詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

天皇の退位後の呼称

2017-01-12 16:52:17 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇の退位後の呼称
              自民党憲法改正草案を読む/番外65(情報の読み方)

 2017年01月12日毎日新聞(西部版・14版)1面に面白い記事がある。朝日新聞にも類似の記事があるが、朝日の記事は「結論」に至っていない。で、毎日の見出しと記事。

退位後「上皇」使わず/政府方針「前天皇」を検討

 政府は天皇陛下が退位した後の呼称について、歴史的に使われてきた「太上天皇」と略称の「上皇」は使用しない方針を固めた。上皇が天皇より上位にあるとして政治に関与した歴史があり、皇位の安定性に懸念を抱かせる恐れがあると判断した。代わりに天皇より上位とみなされにくい「前天皇」や「元天皇」とすることを検討している。

 思わず私は笑い出した。「上皇が天皇より上位にあるとして政治に関与した歴史があり、皇位の安定性に懸念を抱かせる恐れがあると判断した。」というが、天皇は「権威」を目指して「退位意向」を表明したのか。なぜ、そんな心配をするのか。
 こんな懸念が出てくるのは、今回の「生前退位」が安倍の仕組んだものであることを証明している。安倍が天皇を「退位」させたい、口封じをしたいと狙っている。「上皇」という「天皇」よりも上位の位を与えてしまうと口封じができなくなる、そう懸念しているのだ。
 また、今回の「生前退位」が「一代限り」の「特例法」で進められるのなら、今後「上皇」が誕生するはずがない。無意味な「懸念」ということになる。
 「上皇」が存在してまずいのは、次の場合だ。
 天皇が「生前退位」させられ、皇太子が「新天皇」になる。その「新天皇」が気に食わなくて、さらに「生前退位」を迫る。秋篠宮が「新・新天皇」になる。そのとき「新天皇」をどうするか、という問題が起きる。「上皇」にすると、それこそ「上皇」が2代つづき、「歴史」になる。そして、皇太子と秋篠宮の「いさかい(?)」を招くことにもなる。そういう時だろう。
ということは。
安倍は今の天皇の「生前退位」だけでなく、皇太子の天皇即位→生前退位、そのあと秋篠宮の天皇即位を想定しているということにならないか。(私は、このあとさらに悠仁の「摂政」まで想定していると「妄想」しているのだが。)
「生前退位」の意向の表明が、ほんとうに天皇の「自発的」表明であったのなら、天皇が「上皇」になったからといって、その地位を利用して政治に関与するはずがない。そんなことをすれば天皇が嘘をつくことになる。ビデオで「天皇には政治に関与する権能がない」といったのは、「上皇」になることで「憲法」を超え、政治に関与するためだ、ということになる。それでは「象徴天皇の務め」と相いれないだろう。
 安倍は、天皇を「生前退位」させるだけでは、まだ不安なのだ。なんとしても口封じを「完璧」にしたいのだ。

毎日新聞には、次のくだりもある。

有識者会議では「院政期の上皇は権力を持つために退位したので、現行憲法下の象徴天皇と結びつけるのは飛躍がある」として、懸念は不要との意見もあった。
しかし、上皇は歴史的な称号で権威を与えかねず、新天皇に即位する皇太子さまとの「国民統合の象徴の分裂」が起こる懸念がある。「二重権威になっていさかいが起こるイメージがある」(有識者会議関係者)こともあり、使用を見送る判断に傾いた。

これを読むと、「有識者会議」の意見から採用されるのは、「政府(安倍)」の都合のいい意見だけということがわかる。
後段のコメントの「有識者会議関係者」が曲者である。毎日新聞は「有識者会議のメンバー」とは書かずに「関係者」と書いている。「関係者」なら当然、安倍側の人間も含まれるだろう。安倍が天皇の口封じに必死になっていることが、ここからも感じられる。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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「有識者会議」の嘘のつき方

2017-01-12 09:56:13 | 自民党憲法改正草案を読む
「有識者会議」の嘘のつき方
               自民党憲法改正草案を読む/番外65(情報の読み方)

 2017年01月12日読売新聞(西部版・14版)2面に次の見出し。

退位 特例法が軸/有識者会議 論点整理 23日公表

 具体的には、どういうことか。

 論点整理では、退位を実現する法整備として、①特例法制定②皇室典範の付則に根拠規定を置いた上で特例法を制定③皇室典範改正による恒久制度化--の3案を盛り込んだ上で、恒久制度化は難しいとの方向性を示す見通しだ。

 いままで報道されてきたことを考えると②が「結論」になるのだろう。しかし、皇室典範に「付則」を付け加えるのは皇室典範の改正には当たらないのか。「付則」だから「本文(?)」の改正ではないというのは、ごまかしの論理である。「付則」を増やし続ければ、どうなるのだ。
 自民党憲法改正草案には「緊急事態」条項がある。いまの憲法にはない項目である。これを「付則」としていまの憲法に付け加えれば、それは憲法改正ではないのか。「付則」を付け加えただけ、とは言えないだろう。
 もしかすると②は憲法改正の「手法」を探るための予備訓練かもしれない。
 公明党も「憲法改正ではなく加憲」という、奇妙な論理を展開しているが、同じ「嘘のつき方」である。
 「付則に根拠規定を置く」というやり方をいったん認めれば、次から次へと「付則に根拠規定を置いた特例法」が生まれる。
 すでに「戦争法案」というものが「付則」という形はとっていないが、「付則」と同じようにして「憲法」に付け加えられた。憲法の「戦争放棄」を無視して、つまり「憲法違反」の法律が誕生している。「憲法違反」の法律など無効であるはずなのに、「法律」として存在している。
 同じことが次々に起こる。
 「憲法改正」がむりなら、憲法に「付則」をつける。「付則」に「根拠規定」を置いた上で「緊急事態特例法」を制定する。
 絶対に、そうなる。

 2面の記事だけではわかりにくい。4面に御厨座長代理の会見要旨が載っている。そこに、こういうことばがある。

「(特例法か皇室典範の改正かなど)法形式論よりも現在の天皇陛下に限って判断するのか、すべての天皇を対象とする制度をつくるのかということが議論の主眼ではないのか」「特例法による(退位実現の)場合、国会でその都度国民の意思を反映し、状況に応じた慎重な審議ができるので、(典範改正による退位の制度化よりも)リスクは少ない」との意見も出た。

 「一代限りの特例法」は「みせかけ」。「一代限り」を装って「恒久的な制度」をつくろうとしていることは明らかである。しかも、その「恒久的制度」は「その都度」変更可能なもの、つまりその都度「一代限り」を繰り返すのである。「一代限り」が可能のな「特例法」をもくろんでいる。
 誰が天皇か、その天皇がどのような考えを持っているかを見極め、その都度「一代限りの特例法」を定め、対処する。言い換えると、安倍の都合にあわせて、そのときどきの天皇の在位期間を決めるということである。
 まず手始めに、今の天皇を追い出す(口封じをする)というのが、安倍のもくろみである。一度これが成功すると、次は簡単である。「理由」などどんなふうにもつけられる。皇太子の一家には雅子の「健康問題」がある。それを理由に退位を迫り、秋篠宮を天皇にする。しかし、それでは皇太子と秋篠宮の関係がぎくしゃくしそうなので、いっきに悠仁を天皇にする。あるいは「摂政」にし、安倍が「後見人」にして思いのままに「天皇制度」を利用する。
 天皇の問題だけではなく、天皇と権力の問題を関係づけて「恒久法」にする必要があるのだ。権力が天皇制度を利用できないようにする制度が必要なのだが、天皇の「意思」ばかりが問題にされ、権力の「意思」が問題にされないのは、非常におかしいだろう。大問題だろう。

 「状況に応じた慎重な審議」とは「美しいことば」だが、裏を返せば「状況に応じた天皇を在位させる(都合が悪ければ、その都度退位させる)」ということである。
 いまの状況を見ればわかるが、「国会でその都度国民の意思を反映し」ということ自体おこなわれるはずがない。天皇の生前退位意向が籾井NHKによってスクープされてから約半年。国会で天皇の生前退位問題が審議されているか。安倍は「有識者会議」を設置し、審議はそこに閉じ込められている。有識者会議には安倍にとって不都合な人間、たとえば野党の推薦する「有識者」を含んでいないだろう。安倍の「意図」にそった審議しかされていない。「国民の意思」など反映されないのである。

 「19年元日に新元号」。「国民生活への影響に配慮」というきのうのニュースも、非常にふざけた発想である。カレンダーの「年号」が「国民生活」にどう影響しているのか、実態調査をした上で言っているわけではない。単なる口実だ。
 すでに書いたが、いったん「元日に新元号」というシステムが作られると、次の天皇が退位する/即位するのも「元日」に制限される。「元日に新元号」は「元日に新天皇」という形にすり替えられ、「退位」強制の名目ができてしまう。
 カレンダーが大事なら、天皇即位の人「新元号」を切り離せばいいだけのことである。年の途中で天皇が交代したときは、12月31日までを前の天皇の「元号」、1月1日から「新元号」にすればいい。それでは今までの「歴史」との整合性がとれなくなるというかもしれないが、歴史の整合性と国民生活は無関係。国民の暮らしは、せいぜい「元号」が三回変わればおしまい。私は歴史に疎いせいかもしれないが、「明治」以前、どんな「元号」がつづいてきたか、天皇が誰だったかなんて知らない。暮らしのなかで考えたこともない。

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和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第15巻)

2017-01-12 08:42:09 | その他(音楽、小説etc)
和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第15巻)(岩波書店、1990年07月09日、第3刷発行)

 風邪で一日中寝たり起きたりしている。遠藤周作の『沈黙』がマーチン・スコセッシ監督で映画化される。それを見る「予習」として和辻哲郎『鎖国』を読み始めた。体力が落ちているときは、一度読んだ本をぼんやり読むのが楽な感じでいい。とはいうものの、目がかすんで字が読みづらい。しかし、夢中になってしまう。
 私は歴史という「科目」が大嫌いだったが、あれは教科書や先生が悪いのだとつくづく思う。和辻の『鎖国』みたいな「教科書」があれば、きっと夢中になっていたと思う。
 前篇は「世界的視圏の成立過程」、後篇は「世界的視圏における近世初頭の日本」。後篇と『沈黙』が重なる。再読したのは前篇。後篇までは一日では読めなかった。ローマ帝国とゲルマン民族の大移動からはじまり、ポルトガルが喜望峰周りでインド洋に進出、スペインがアメリカ大陸を発見し、太平洋横断し東南アジアにたどりつくまでが書かれている。
 「歴史」に詳しい人には既成の事実が書かれているだけなのかもしれないが、そうか、ひとの欲望はこんなふうに動き、時代が変わっていったのかということが、人間そのものの動きとしてわかる。
 そこに、こんなおもしろい文章がある。マガリャンス(マゼラン)の世界一周についての部分。スペインから大西洋を渡り、さらに太平洋を横断し、喜望峰を周り大西洋に出る。アフリカ西海岸のサン・チャゴ島に上陸する。

この際最も驚いたことは、船内の日付が一日遅れていることであった。ビガフェッタはこのことを特筆している。自分は日記を毎日つけて来たのであるから日が狂うはずはない。しかも自分たちが水曜日だと思っている日は島では木曜日だったのである。この不思議はやっと後になってわかった。彼らは東から西へと地球を一周したために、その間に一日だけ短くなったのであった。

 私たちが「日付変更線」とともに「あたりまえ」と感じていることが、「驚愕の事実」として目の前にあらわれてくる。「大陸」の発見は「目」に見える。しかし「日付変更線」は目に見えない。それを「事実」としてつかみ取るには時間がかかるのだが(やっと後になってわかった、と和辻は簡単に書いているが)、これはなんともすごい。「肉体」でつかみとったことが、それまでの「世界」のあり方に変更を強いる。「日付」が違うということを、「日付」があう、という形にするためには、大洋をわたるという大冒険と同じように、知性も大冒険をしなくてはならない。知識を根底からつくりかえなければならない。書かれていないが、ビガフェッタは「日付変更線」を発見した。これはアメリカ大陸の発見と同じように衝撃的である。「ある」とは誰も考えなかったものが「ある」とわかったのである。しかも「見えないもの」が、「ある」。
 ビガフェッタの「日誌」は、

マガリャンスの偉大な業績を世界に対してあらわにすることになった。かくして最初の世界周航は、スペイン国の仕事として一人のポルトガル人によって遂行され、右のイタリア人によって記録されたということになる。これは近世初頭のヨーロッパの尖端を総合した仕事といってよい。

 この和辻の文章の「統合した仕事」、「統合する」という「動詞」のつかい方に、私はとても感動する。そうか、いろいろな「要素」(事実)は「統合する」ことで「真実」になる。どのようなことも「統合する」ちからで「世界」としてあらわれてくる。「事実」を「統合する」ことで「日付変更線」が姿をあらわす。「統合」しないかぎり、それはあらわれない。
 和辻の書いていることも、すでに知られている「歴史的事実」を「統合した」ものである。和辻が発見したことなどない。でも、その「統合」の仕方がいきいきしている。「人間」そのものを浮かび上がらせている。まるで、そこに描かれている人間になって動いているように、私は興奮してしまう。そして、感動する。

 私は和辻の文章がとても好きだ。どうして好きなのか、それをあらわすことばをなかなか見つけられなかったが、「統合する」という動詞に出会って、あ、これだったのだなあ、と気がついた。
 「世界」にあるものを、正しく「統合する」。それが哲学。

( 203ページに、「アフリカ南方の海峡を通って大西洋に出る未知である。」という文章がある。これは「アメリカ南方の」、あるいは「南アメリカ南方の」の誤植だろう。いま、全集は「第何刷」なのか知らないが、訂正されていることを期待したい。)


和辻哲郎全集〈第15巻〉鎖国 (1963年)
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