詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

天皇の「意思」が封印される

2017-01-03 18:19:47 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇の「意思」が封印される
     自民党憲法改正草案を読む/番外63(情報の読み方)

 2017年01月01日の新聞を読み比べていたら、面白い見出し、記事に出会った。朝日新聞、毎日新聞(ともに西部版・14版)の一面、天皇の生前退位と特例法をめぐる動き。

朝日新聞
退位「固有の事情明記」へ/特例法で政府検討 先例化回避狙う

毎日新聞
天皇の意思 明記せず/特別立法 退位要件で政府方針

 別なことを書いているようにみえるが、同じことを書いている。「生前退位の要件」をどうするか。どう明記するか、政府が検討している。
 朝日新聞は天皇の意思については触れていないように見えるが、記事を読むと次のように書いてある。

政府は、仮に天皇を退位を制度化すれば、その要件の一つに「退位を望む天皇の意思」を盛り込まざるを得ず、天皇について「国政に関する権能を有しない」と定めた憲法に抵触する恐れがあると判断。このため、特例法だけでなく皇室典範改正でも、退位の要件化は困難としている。


朝日新聞は「天皇の意思を明記せず」を別な角度から言い直したもの、ということができる。
で。
意地悪な読者の私は、別のことをこの記事から読み取るのである。
まず「政府検討」(朝日)「政府方針」だが、有識者会議の考え方は? 無視していないか。有識者会議は、ただのお飾り。すべては「政府方針」通りに進んでいくということだろう。
 次に「天皇の意思盛り込まず」だが、これには別な要素があると私は読む。
「天皇の意思」を盛り込む(文書化する)ためには、天皇の意思を再確認しないといけない。天皇は「生前退位の意向」を持っていると言われているが、本当か。私は「安倍が天皇の生前退位をもくろんでいる」と見ている。天皇はほんとうは何を望んでいるか、「明文化」するのは避けたいのだ。「生前退位」ではなく「譲位」と天皇が言えば、籾井NHKのスクープ「天皇、生前退位の意向」が天皇の側(宮内庁側)ではなく、安倍の側からリークされたものであることが明確になる。天皇の意思が「象徴としての務めを次の天皇に引き継いでもらいたい、そのスムーズな引き継ぎをしたい」ということが明らかになれば、天皇の公務を縮小し、天皇と国民の接触を分断するという安倍のもくろみは破たんする。
だから「天皇の意思」ではなく、

陛下が重視してきた公的行為が、高齢などで困難になった一連の経緯を明記。ほかの天皇に当てはまりにくい個別の事情を記すことで将来の天皇の退位とは切り離し、皇位継承の安定性を維持する狙いがある。(朝日新聞)

ということになる。
「将来の天皇の退位とは切り離」すは、言い換えると、政府にとって都合のいい(言うことを聞く)天皇なら、何があっても退位させずに利用し尽くすということだろう。

関連して思うのは、今年は天皇の「新年の感想」がなかったこと。負担軽減という名目だが、ほんとうは「天皇のことばの封印」(口封じ)だろう。どんどん天皇の口封じを進める。そうして国民と天皇の接触を減らす、天皇がこころがけてきた「象徴としての務め」を封印してしまう、ということだろう。
天皇はほんとうに「生前退位」を望んだのか。「譲位」ということばで思いを語っていたのではないのか、というところから問題を見つめ直さないといけない。「思想」は「ストーリー=要約した意味」ではなく、ことばの細部に生きている。
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木村孝夫『夢の壺』

2017-01-03 11:25:29 | 詩集
木村孝夫『夢の壺』( 100人の詩人・ 100冊の詩集)(土曜美術出版販売、2016年11月30日発行)

 木村孝夫『夢の壺』のなかに「新人老人」ということばが出てきて、びっくりした。「老人になったら」という作品。

特別擁護老人施設に入るには
介護度の認定が三以上必要となる

施設不足だから
入居までの待機期間が長い

新人老人には気の遠くなる話だ

 「新人」と「老人」は相いれないイメージがある。しかし、「一生懸命働いて/やっと老人の仲間入りをした」ばかりの老人は、たしかに「新人」かもしれない。
 「新人」には、その「世界」が「新世界」に見える。「新人」とは「世界」を「新しく」とらえなおすひとのことである。

有料老人ホームはあるが高額だ
やむなく自宅介護をすることになるが
自宅内の事情は考慮されない

「保育園落ちた 日本死ね!」
ツイッターのこの一言が炎上して
主婦が団結していったが

「老人施設の待機期間が長い!」
この言葉は長い間見向きもされずに
切り捨てられてきた

 「待機児童」ならぬ「待機老人」。何を待つのか。「入居」だけではない。「死」を待つのだ。「待機児童」にはまだ未来があるが、「待機老人」には未来がない。そして国は未来がない老人が死ぬのを、本人やその家族以上に待っている。死ねば国家負担が軽くなる。「待機児童」はやがて成長し、働き手になる。けれど「待機老人」は働き手にはならない。経済成長を支えない。だから、死ぬのを待っている。
 自民党憲法改正草案の「前文」に、こう書いてある。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

 美しいことばだ。だが美しいことばには「裏」がある。「経済活動を通じて国を成長させる」。これは「経済活動」できない人間は国民として認めないということにつながる。「経済活動」をしている間(働いている間)は国民として認めるが、働けなくなったら「やっかいもの」。安倍の「1億総活躍」は、そのことを明確に打ち出している。活躍できないひとを、どう守っていくかという視点が完全に欠落している。
 木村の詩は、こう叫ぶ。

老人になったら
下流老人、漂流する老人、老人破産
などという言葉が待っていた

 ことばは誰が用意したのか。ことばは、どこから生まれてきたのか。自民党憲法改正草案は先取り実施されている。下流老人、漂流する老人、老人破産も「1億総活躍」もみな「経済活動」を優先する「政策」が生み出したものである。

この老人世帯ほど
貧富の差が大きいのだ
これが政府の言う老後安心なのだ

 いまこそ老人は怒らなければならない。若者以上に怒らなければならない。「18歳選挙権」は、この詩を読んだ後では、若者の声を政治に呼び込むというよりも、「若者向け政策」を打ち出し、若者の人気を得ることで老人を切り捨てる口実づくりのようにさえ見えてくる。
 これからは若者対策を重視する。老人対策を切り捨てて若者対策に予算を回す。だから投票して、とささやく安倍の声が聞こえる。
 「待機児童の解消」「給付金型奨学金の充実」など、若者に未来を支えるための政策を充実させる。誰もが働ける環境にする。そのためには、「老人対策」はあとまわし。「経済活動」ができない人間の面倒まで見ていられない。「年金の給付開始を70歳にま延長する」というのも働けるだけ働かせる、ということだろう。それまで、どれだけ働いてき方は無視するということだろう。

「老後破産」
何とも嫌な言葉だ
老人になるのをもう少し待てばよかった

 最後の一行に笑ってしまうが、だれも「待つ」ことができないのが老人になることだ。もう少し待って、それで安倍政治が変わるわけではない。

 「保育園落ちた 日本死ね!」ではなく、「特別擁護老人施設落ちた 日本死ね!」が今年の「流行語大賞」になるといい。「流行語大賞」になるくらい、国会で問題してほしい。
 長い詩なので一部しか引用できなかった。詩集でぜひ読んでほしい。「新人老人には気の遠くなる話だ」「老人になるのをもう少し待てばよかった」など、思わず笑ってしまうことばもあるこの詩、口コミで広がり、社会を動かす力になると楽しい。






夢の壺―木村孝夫詩集
クリエーター情報なし
土曜美術社出版販売
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長谷川龍生「老後、触れた水路」

2017-01-03 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
長谷川龍生「老後、触れた水路」(「現代詩手帖」2017年01月号)

 長谷川龍生「老後、触れた水路」は「老後」ということばをタイトルに持つ。詩の中には「死」も登場する。だが、ことばに強い響きが満ちている。

川の近郊にザブラジェという名の町で
アンドレイ・タルコフスキーが
一九三二年四月四日に生まれたことを知った

 「川」とは「ヴォルガの舟唄」のヴォルガ。「ヴォルガの舟唄」は長谷川にとってはなじみの唄。ときどき口ずさんでいる。その「記憶」にあるものに、突然、タルコフスキーが結びついてくる。「一九三二年四月四日に生まれたことを知った」という新しい「事実」が加わる。
 「新しさ」が長谷川のことばを活気づかせる。
 この「新しさ」は動きが急だ。

一九八六年十二月二十九日夜 パリにて
タルコフスキーは肺癌で急に亡くなった
蒼ざめた馬に乗って去っていく

 生まれたと思ったら、もう死んでしまう。それでもことばに勢いがある。なぜか。

彼は 映画芸術の一山をこえ
さっさと去っていく
七、八本を腰に巻いて去って行った

それ以外は 何も知らない 知らないが
どこかの試写室で制作の流れに
ふと 触れたことがある

 「触れたことがある」は「感じたことがある/肉体で知ったことがある」というくらいの「意味」だろう。映画のタイトルを書いていないが、タルコフスキーの映画の原点(源流)を感じたということだろう。「流れ」ということばがここに登場するのは、「ヴォルガ」と「川の近郊の街・ザブラジェ」が関係しているだろう。
 生まれ育った場所。そこには当然「少年」のタルコフスキー(人間の原点としての「少年」)がいるはずである。
 確実に把握しているわけではないが、その「少年」に長谷川は触れた。
 だから、詩は、こうつづく。

時代と場所 彼の少年の頃を知りたい
イメージは 永久に消えていなかった
戦争が勃発したからだ 戦時の体験
先取りも先取り 少年時代の運命を
深く映して 最後まで持ちこたえる

監督の仕事について 頭脳が冴えた
素材力の良さ 運命を切りひらく--
人生体験も 体験身をひらく

水路に触れた なめるような希求一筋--

 長谷川のことを私は詳しくは知らないが、たぶんタルコフスキーと同年代なのだろう。タルコフスキーの体験した「戦争」と長谷川の体験した「戦争」は同じではないだろうけれど、どこかで通じる。タルコフスキーに「戦争」の体験を「イメージ」の共有として感じたのかもしれない。だからタルコフスキーの少年の頃を知りたいと思う。
 タルコフスキーの少年の頃を知るとは、長谷川自身の少年の頃を知ることでもある。もちろん長谷川は自分自身の「少年の頃」を知っている。しかし、他人の「少年の頃」を知ることで自分自身が見落としてきた(無意識の奥にしまいこんでいる)何かを知ることがある。
 長谷川は、そういう「予感」のようなものを強く感じたに違いない。
 「知った」ではなく「触れた」。「触れて感じた」に違いない。
 「一九三二年四月四日に生まれたことを知った」「それ以外は 何も知らない」「知らないが/触れたことがある」。
 「知る」と「触れる」を長谷川は明確につかいわけている。
 「触れる」は「知る」よりも強い。「知る」は「知識」だが「触れる」は「知識」になる前の「肉体の感覚」。「肉体」そのものだからである。「肉体」を長谷川は、いま、新しく生み出している。新しい長谷川の「肉体」がいま生まれている。「誕生」の強さが、詩のことばを動かしている。
 「具体的」には、わからない。「具体的」には書かれていない。これはしかし、あたりまえのことなのだ。「知識」ではなく「肉体」が感じている「ことば以前」のことだからである。流通言語では、具体的には書けない。
 戦争を体験することで「先取り」して見てしまった何か。それを長谷川はタルコフスキーの映画に感じ、いま、長谷川自身の体験と「肉体」を開いていこうとしている。その勢いが「死」を乗り越えている。 「老い」を忘れさせる力となっている。





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