詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第十五巻)(2)

2017-01-18 20:30:13 | その他(音楽、小説etc)
和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第十五巻)(2)(岩波書店、1990年07月09日、第3刷発行)

 「後篇 世界視圏における近世初頭の日本」を読んだ。倭寇からはじまり、鎖国がるまでのことを書いている。
 「歴史」や「哲学」のことを書こうとしても、私は門外漢なので、見当外れになるだろう。で、違う観点から書いてみる。なぜ、私は『鎖国』という本が好きなのか。
 信長とフロイスについて触れた部分の末尾。( 426ページ)

信長がひそかにキリシタンになっていると信ずるものもあった。そうでなければ、あのように思い切って神仏を涜することはできないからである、と。この言葉には、フロイスの信長にかけていた希望が鳴り響いていくように思われる。

 「フロイスの信長にかけていた希望が鳴り響いていくように思われる。」この部分に、私は思わず傍線を引く。それはフロイスの「心中」を推し量っているのだが、まるで和辻の思いの表明であるように聞こえる。
 フロイスが信長に期待していたものと、和辻が信長を評価している部分は一致しないのだが、何か重なる。
 もし信長が光秀に暗殺されずに生きていたら、日本は違った国になっていたはずであるという思いが「鳴り響いている」ように聞こえる。ことばに「躍動感」がある。それがそのまま「評価」としてつたわってくる。
 信長と秀吉を比較した部分に、宣教師たちのことばが引用されている。( 508ページ)

秀吉は信長ほどに他人の意見を容れる力がない、自分の意見を他の誰のより優れたものと考えている

(信長は)未知の世界に対する強い好奇心、視圏拡大の強い要求を持っていた。それは権力欲の充足によって静まり得るようなものではなかった。それをフロイスは感じていたのである。ところで秀吉には、そういう点がまるでなかった。これは甚大な相違だと言ってよいのである。

 「これは甚大な相違だと言ってよいのである。」はフロイスのことばではなく、和辻が付け加えたもの。「それは権力欲の充足によって静まり得るようなものではなかった。」も同じ。ここにも「史実/歴史」を超えて、何か、躍動する精神の断定力がある。「未知の世界に対する強い好奇心、視圏拡大の強い要求を持っていた。」は和辻自身を語っているように思える。「事実/歴史」を書きながら、人間を評価し、人間に寄り添っている。というより、その人間になりきって動いている。この感じが、随所にあふれている。
 思わず、「そうだ」と相槌を打ちたくなるのである。
 もう一つ、秀吉に関する評価の部分を引用する。( 511ページ)

民衆を武装解除する秀吉の気持ちのなかには独裁権力者の自信や自尊は顕著であったであろうが、未知の世界への探究心や視圏拡大の要求はもはや存在しなかった。宣教師たちが自分の用をつとめなければ追い払う、--それは前の年にクエリヨに特許状を与えたときの秀吉の腹であった。

 「秀吉の腹であった」の「腹」ということばのつかい方。これも興味深い。「魂胆」という「意味」だろう。もっと簡単なことばでいえば「気持ち/こころ」と言えるかもしれない。(気持ち、ということばは直前につかわれている。)
 しかし、和辻は、ここでは「魂胆」も「こころ」もつかいたくなかったのだと思う。
 「魂胆」には「魂」という精神的なことばと「胆」という肉体のことばが同居しているが、意味の重心は「魂」にあるかもしれない。「魂」はきわめて精神的なことばである。そういうことばで秀吉を評価したくなかった、ということだと思う。
 「腹」は「腹が据わっている」という言い方があるが、同時に「腹黒い」というようなつかい方もある。何か「知的」とは遠い。
 信長を評価するとき、探究「心」、「視」圏拡大というような、抽象的なことば(知的なことば)が動くのと対照的である。
 和辻は「知力」について書いているのだということがわかる。
 「未知」を発見し、「未知」を理解する。それは「世界」を理解するということ、「世界」を統合し直すということ。「哲学」しなおすということ。
 次の部分に、手厳しく、こう書かれている。( 535ページ)

秀吉は気宇が雄大であったといわれるが、その視圏はきわめて狭く、知力の優越を理解していない。彼ほどの権力をもってして、よき頭脳を周囲に集め得なかったことが、その証拠である。

 「鎖国」そのものは家光が発令したのだが、秀吉の政策が出発点ということになる。「刀狩り」から始まっている。つまり、「秀吉が下から盛り上がってくる力を抑えて、現状を固定させようとする方向に転じたとき」( 523ページ)から始まっている。

 秀吉を批評して、和辻は、こうも書いている。( 536ページ)

国内の支配権を獲得するために国際関係を手段として用いるような軍人の一人にすぎなかった。

 これは家康についても同じようなことばで批評している。

 他の「史実」にも触れながら、「結論」として、和辻は、こう書いている。( 546ページ)

当時の日本人に外に向かう衝動がなかったのではない、為政者が、国内的な理由によってこの衝動を押し殺したのである、とはっきり断言することができるのである。
 つまり日本に欠けていたのは航海者ヘンリ王子であった。あるいはヘンリ王子の精神であった。

 この「結論」から、また「前篇」を読み返すことができる。「前篇」との対比で「鎖国」の問題がよりいっそう見えてくる。
 ここでも和辻は「精神」ということばで「知力」(世界を統合し直す力)を問題にしている。
 日本が鎖国へ向かっていたとき、世界の「知力」はどう動いていたか。それを「知力」で語りなおしたのが和辻の『鎖国』だということができる。
 そして、その「知力」で語りなおした「歴史」が、単に「知識」の羅列ではなく、そこに躍動する感情として動いているのが、この本のおもしろいところである。和辻のことばには、いつでも「躍動感」がある。

和辻哲郎全集〈第15巻〉鎖国 (1963年)
クリエーター情報なし
岩波書店
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