詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西岡寿美子「一つの言葉から」

2017-01-29 19:54:52 | 詩(雑誌・同人誌)
西岡寿美子「一つの言葉から」(「二人」317 、2017年02月05日発行)

 「二人」は、粒来哲蔵の作品がない。西岡寿美子の作品だけなのが、少し寂しい。粒来との二人の作品があると、そこにある緊張感が生まれる。その楽しみがないのが残念だが。
 「一つの言葉から」は、こう始まる。

この土地では
命尽きることを「満(み)てる」という
生の極みの意であろう

わたしがこの言葉に接した最初は
病んでおられた師について
仲間のお一人である長老からお知らせ頂いた時だ
--先生がただ今お満てになりました


 「死ぬ」とは言わずに「満てる」。同じ土地(高知)のことば「満つる/満ちる」という言い方があるかどうか知らない。「満つる/満ちる」ということを「満てる」というのか、「死ぬ」という意味のときだけ「満てる」というのか。もし、後者だとしたら「満てる」の「て」には「つ/ち」とは違ったニュアンスがあるのかもしれない。二連目の「お満てになりました」には、なんとなく違ったニュアンスを感じる。「お」がついているせいかもしれないが、一種の「敬意」というものが「満てる」という言い回しにはあるかもしれない。「命の極み」と西岡は書いているが、「極」に到達した人への「敬意」があるかもしれない。
 「この言葉に接した」の「接した」にも、何か「日常」とは少し違った感じがする。そのあとの「病んでおられた」「お一人」「お知らせ頂いた」という表現は、「満てる」ということばが引き寄せた「敬意」も含まれていると思う。単に「師」への「敬意」というものではないような感じがする。
 三連目。

若かったわたしは
泣きに泣いて場の貰い泣きを誘ったものだが
それでも初めて現れとしてわたしに来たこの事態から
類い稀に広々と豊かに実り
まさに満ちた師の全体像は過たず受容した気がする

 三行目「それでも初めて……」からの「文体」に、私は思わず背筋をのばす。
 書いてあることは「なんとなく」わかる。しかし、私は、こういう「文体」になれていない。私はこういうふうには語らない。私のまわりにはこういう言い方をする人がいない。そのことが、私の背筋をのばさせる。身を整えて聞かないと「わからない」ことが書かれている。身を整えないと、私の「肉体」のなかには入ってこない「文体」である。
 「初めて現れとしてわたしに来たこの事態」が強烈である。「死」というものに出会ったのが、まさか「初めて」ということではないだろう。それまでにも、直接ではないにしろ、誰かが「死ぬ」ということは間接的に知っているだろう。死は特別なものだが、日常的にありふれてもいる。それなのに、西岡は「初めての現れ」と書いている。そして「わたしに来た」とも書いている。死ではなく「満てる」という「動詞」そのものが「現れ」、そして「来た」。「死んだ」とは言わずに「満てる」が「現れ」「わたしに来た」と書く、その「文体」のなかで動いているものが、複雑で、複雑であることによって強くなっている。その強いものと向き合うために、西岡自身の「文体」が変わってきているということだろう。
 「満てる」を「類い稀に広々と豊かに実り」と「実る」という「動詞」で言いなおすことで「全体像」をつかみ見直し、つかみ直すことで「過たずに受容した」と言うことができる。ここにも「厳しい文体」がある。西岡は、自己に厳しい人間なのだと思う。
 自己に厳しいからこそ、別なときに別な感想が動く。

いまひとつ
四十年来の友がふと洩らした
--わたしこの頃熟れ満ちた気がするの

失礼ながら粗忽人で軽躁と見えた
その人にしては過ぎた言葉に
密かに顔を窺わずにはいられなかったものの
期するところのある人の決然とした口ぶりは
わたしの疑義を制する威があった

 「熟れ満ちる」。自分自身に言うときは「満ちる」ということばをつかっている。ここからも「満てる」というときは「敬意」がよりあらわれている、ということができるかもしれない。「……られる」というニュアンスがあるのかもしれないと私は想像するが。
 自分について語るときも、つまり「満ちる」というときも、そのことばはもっと厳密につかうべきである、と西岡は考えている。「粗忽人」「軽躁な人」はつかってはいけないのではないか、と思っている。「満てる」を特別視していることがわかる。そのために「過ぎた言葉」が口をついて出たのだろう。
 ただし、「決然とした口ぶり」に「敬意」を払って、西岡は、そのことばをつかったことを批判はしていない。
 このあと、詩は、こう展開する。

あの時
ふふ と含み笑いした友よ
嬉しげにも
幾分哀しげにも見えたその笑みは
彼女の中に満ちてきた
有無を言わせぬものの力でもあったのか

 ここでも「満てる」ではなく「満ちる」ということば。「彼女の中に満ててきた」とは言わずに「満ちてきた」というのは、彼女に対する「敬意」というものが師に対するものとは幾分違うということをあらわしている。西岡が「彼女」自身になって、そのことばを「追認」しているのかもしれない。そして、「満ちる」を今度は「有無を言わせぬものの力」と言っている。「類い稀に広々と豊かに実り」のかわりに「力」という抽象のまま語って、つかみ直している。
 ここで一瞬身を整え直して、次の連に向かう。

日ならず友は急逝し
喘ぎ喘ぎ歩いてきたわたしの長旅も
間もなく果てが見えて来ように
経てきたいずれの道程もことごとく瑕疵と恥まみれだ

時はやがてわたしをも満てさせてくれようが
未だに何の啓示も受けぬこの不覚者のことなら
人並みに満ちることは難しかろう
まして従容と出で立つことなど望外の夢であろう

 この自省のなかに「満てさせてくれる」「満ちる」の二つのつかいわけがある。「満てさせてくれる」というときは「時」そのものへの「敬意」があらわれている。「満てる」と「満つる/満ちる」はやはり違うのだ。
 そう思うと「満てる」のことばの美しさがよりいっそうわかる。西岡がはじめてそのことばに接したときの、西岡の感動もわかってくる。二連目、三連目の「文体」の「厳密」な美しさが、いっそう強く響いてくる。

熟す心地は
急か
徐々にか
自ずから湧いて満ちるのか
何者かの啓示を得てか
思えば友にあの時押しても聞くべきであった

詩集 紫蘇のうた (1987年) (二人発行所) [古書]
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