詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

添田馨『天皇陛下<8・8ビデオメッセージ>の真実』(不知火書房、2016年12月30日発行)

2017-01-06 19:34:23 | 自民党憲法改正草案を読む
添田馨『天皇陛下<8・8ビデオメッセージ>の真実』(不知火書房、2016年12月30日発行)
               自民党憲法改正草案を読む/番外63(情報の読み方)

 添田馨『天皇陛下<8・8ビデオメッセージ>の真実』は刺激的な一冊である。「象徴天皇制」についての指摘が鋭い。「反知性主義クーデターに抗する存在について」という文章の次のくだり。

天皇の今回の「おことば」が画期的なのは、「象徴天皇制」というものの思想的な核心について、歴史上はじめて、「象徴」たる天皇その人がみずから言葉にして語ったものだからである。                            (50ページ)

 天皇が自分のことばで象徴天皇制について「はじめて」語った。これは「事実」である。しかし「事実」であるからこそ、私は見落としていた。「思想的意義」を考えたことがなかった。ほかのことに気を取られていた。もう一度、読み直してみようと思った。
 このことを踏まえて、添田は「日本国憲法と<象徴存在>」「象徴と民心」という文書を展開している。
 その「日本国憲法と<象徴存在>」なかで、先の部分は、こう言いなおされている。

 あの時、テレビ画面のなかに見えていたのは誰だったのだろうか。それは、憲法上の規定によって基本的人権もプライベートも奪われた<象徴>という没主体が、みずから<声>を発しそれを音声装置を使って増幅させることで、遂にみずからを<象徴存在>の位相にまで押し上げるのに成功した、天皇という制度的地位にある実体なき者の前代未聞の姿だったのである。                          (73ページ)

 この考えの基本には

<象徴>はシンボルであって、それ自体けっして実体ではない    (75ページ)

 という「思想」がある。「思想の言葉」(75ページ)で、添田は「象徴天皇制」をとらえなおし、天皇のことばを読み解いているということになると思う。
 ここから沖縄戦終結の日、広島原爆の日、長崎原爆の日、終戦記念日、さらにサイパン、パラオの激戦地の慰霊に触れて、こう書く。

実体をもたない<象徴>としての卓越したその存在様式が、敵も味方も含めてすべての戦没者を普遍的に慰霊するという、これまで誰にもなし得なかった象徴行為を可能にした。
                                 (76ページ)

 とてもよくわかる。
 こういうことを通して、添田は、

「象徴天皇の務め」が、天皇の数ある「象徴的行為」のなかでも、他の者には、たとえ血の繋がった親族であっても、それを代行することができない極めて特別な「務め」であると、再認識しないわけにはいかないのだ。                    (54ページ)

 と書く。「象徴天皇」と天皇の強い「一体性」を再認識したということだろう。

 それは、よくわかるのだが(頭でわかったつもりになるのだが)、書かれていることが美しすぎないか、と思ってしまう。私は「観念の世界では霊(魂)とは紛れもない実体」(59ページ)のようには考えることができないからかもしれない。
 私は「観念の世界では」というのは、ことばを動かすための「方便(方法論)」だと思っているし、「魂/霊」というものを見たことがないので「実体」ととらえることができないからかもしれない。私は「思想の言葉」(観念のことば)が苦手である。添田の書いていることの1割も把握できていないかもしれない。
 天皇は、私にとっては「実体をもたない<象徴>」ではない。「肉体」をもった「人間」。「存在」が「象徴」なのではなく、「行動」が何かを「象徴する」。沖縄、広島、長崎、激戦地へ行って「頭を下げる(深く祈る)」という行為(動詞)が、そのまま多くの人の「祈る」という動詞を一身に集め、統合する(象徴する)と考えている。「祈り」を「統合/象徴」するのではなく「祈る」というのはこういう風に頭を下げて、思いを巡らすこと、自分はこれから平和に生きていくと誓うことなのだと「肉体の動き」としてひとに示すことだと思っている。
 「世界」にあるのは「肉体」と「行為(動詞)」。「象徴する」という「行為」はあっても「象徴」という「名詞(存在)」は考えにくい。

 籾井NHKのスクープ、さらには宮内庁幹部の「報復人事」についても、私は添田とは違った考えを持っている。こういうことは添田の本に対する感想ではなくて、他の形で書いた方がいいのかもしれないが……。
 籾井NHKのスクープについて、45ページにこう書いてある。

「天皇の生前退位」にまつわる一連の問題に、国民の注意を惹きつけると共に、この問題を考えるきっかけまで提供するという、絶大な効果がこのニュースの発表にあったことは間違いない。その結果、もっとも損をするのは誰なのか。

 添田は「損をするのは誰なのか」という視点から見ている。そして「安倍政権が損をする」と結論づけている。皇室典範の改正などに取り組まないといけない。憲法改正の日程が狂う、という。
 逆に「得をするのはだれか」という視点から見るとどうなるのだろう。天皇や宮内庁の得になるのか。憲法改正を遅れさせることができれば天皇の「得になる」のか。
 ひとは、こうすれば他人に「損を与えることができる」ということだけでは行動しない。「損をさせる」は一時的なことである。「得をする」ことをもくろんで行動すると思う。私は「得をするのは誰か」という点から今回を動きを見ている。
 安倍に、どんな「得」があったか。
(1)天皇には国事に関する権能を有しないと天皇に言わせることができた。
(2)ビデオの発言は「個人的なもの」であると言わせることができた。
(3)高齢である、そのために「務め」が果たせないかもしれない、と言わせることができた。
 8月8日の天皇発言には、とても変な表現がある。

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。

 「思われます」「考えられます」「懸念されます」。直接表現ではなく、婉曲表現である。天皇なのに「思います」「考えます」「懸念します」と直接言っていない。「誰か」が「思う」「考える」「懸念する」。そのことを配慮しているように聞こえる。そう「思う」「考える」「懸念する」ひとがいるので、そのテーマに関して「思われます」「考えられます」「懸念されます」と言っていると私は感じる。
 天皇はいつでも「思います」「考えます」というようなことばを使っている。「思い起こされます」という表現は、他の「ことば」のなかに何回か見かけるが、それは「思い起こした対象」を尊重(尊敬)しての表現である。大変感動を与えてくれたので、そのことが自然と「思い起こされる」というつかい方だ。
 添田は、籾井NHKのスクープから8月8日の放送までの「手際」の良さについて、こう書いている。

7月13日のNHKニュースが8月8日の「おことば」公表を実現させるための前哨戦だった可能性を示唆するものだ。つまり、天皇ご自身によるお気持ちの表明こそが、これら一連の動きの当面の山場、つまりプロジェクト目標だったことが窺える。 (48ページ)

 添田は、安倍に「損をさせる」ためのプロジェクトと考えているのだが、私は「天皇のことば」を引き出すための計画と考えている。天皇が自分から言うのではなく、天皇に言わせるのだ。「国事に関する権能を有しない」(何か言うと憲法違反になる。言っていることは「個人的なたわごと」と天皇自身に言わせる)「高齢で務めが果たせない」。
 それが国民につたわれば、この問題提起がどういう形におさまるにしろ、天皇を退位させることができる。「退位したい」と天皇が言っていると国民が感じれば、天皇の思いに沿うのがいいのでは、と国民は思う。天皇は退位するしかない。
 添田は、こう書いている。

天皇は自身の「生前退位」のことに直接触れてはいない。むしろ、天皇は象徴としての務めを「全身全霊」で全うしなければならないこと。また、そのためには、摂政では駄目なのだと言っているのである。ここには、明らかに<8・8ビデオメッセージ>が孕む真実の意図の、マスコミによる隠蔽操作=すり替えが働いているのだ。それは、つまり、天皇は現在もこれからも<象徴>として存在しなくてはならないという陛下ご自身の強い意思の表明だったものを、高齢に伴う健康不安から自分がまだ元気なうちに譲位することを図りたいという皇位継承問題に、まんまとすり替えたのである。   (24-25ページ)

 私は「すり替え」ではなく、安倍は最初から、そうするために籾井NHKを使って「仕組んだ」と見ている。最初から仕組まれているからこそ、マスコミがやすやすとその方向性にのみこまれた。
 もし「天皇が時の政権に対して真っ向から闘いを挑む」(24ページ)というものだったら、すくなくともスクープした籾井NHKは違った報道の仕方ができたはずである。するはずである。
 添田はまたスクープに「橋口和人・宮内庁キャップ、社会部副部長」の存在が大きく関与していると報じられたと書いている(43ページ)。そこに、その橋口が

秋篠宮をはじめ皇室の信頼が篤いとされる

 という注目すべき一文がある。
 私は、このニュースを知らなかったが、この情報で、天皇を退かせ、摂政を設置することで天皇制度を自在にあやつることを狙っている安倍がリークしたのだということが「予感」ではなく「確信」にかわった。
 秋篠宮には悠仁という「男子」の子どもがいる。安倍は天皇を退位させたあと、いろいろ「難癖」をつけて(皇太子が天皇になると、つぎの皇太子が不在になるとか)、皇太子や秋篠宮を飛び越えて悠仁を摂政に据えることをもくろんでいる。私は籾井NHKのスクープのときから、そう「予感」していた。
 秋篠宮はたしか天皇の「定年制」について語ったことがあると思う。そのころから安倍は皇太子ではなく秋篠宮に接近していたのだろう。秋篠宮を利用することを考えていたのだろう。
 「生前退位」を巡る特例法に関しては、先日読売新聞が、秋篠宮を「皇太子待遇」にするという関連法も一括上程されるとの予測を書いていたが、これも「摂政・悠仁」へ直結する動きである。

 「宮内庁報復人事」についても、私は添田とはまったく違った見方をしている。添田は籾井NHKのスクープについて、風岡宮内庁長官が関与していると読んでいる。風岡がリークし、天皇のメッセージ発表という動きたために安倍の憲法改正論議が遅れた。だから報復として風岡を更迭し、西村内閣危機管理官を送り込んだ。

一部報道によると「お気持ち表明に関し、誰かが落とし前をつけないと駄目だ」(政府関係者)とか、「陛下が思い止まるように動くべきだった」(同)との声がある。
                                 (78ページ)
 
 この報道は、私も読んだが、それこそ「すり替え」にしか見えない。「天皇の象徴としての務め」に関するメッセージを「生前退位の意思表明」と「すり替えた」のと同じように、安倍主導のスクープなのに、宮内庁のリークというストーリーに「すり替え」、「報復人事」という「一般受けしやすい事実」で隠蔽したのである。
 今後、風岡が「あのスクープは私がリークしたのではない。安倍が仕組んだものだ」と言ったとしても、それは「報復人事」を受けた人間の「捏造」と見なされるだろう。「見苦しい抵抗」と批判されるだろう。
 安倍は、それくらいのことはやってのけるだろう。

 ついでに書いておけば。
 新しいNHK会長の交代。参院選では「選挙報道をしない作戦」で安倍に大勝をもたらし、「天皇、生前退位意向」のスクープでも安倍の天皇降ろし作戦に貢献した籾井が会長をつづけられなかったのはなぜか。
 「用済み」と見なされたということだろう。
 これ以上籾井をつかえば、「選挙報道をしない作戦」「天皇生前退位スクープ」がNHKをつかった情報操作であることが明確になってしまう。籾井は軽率な発言が多い。ここで切り捨て、次はもっと隠蔽工作のうまいやつをつかわないと、と考えたのだろう。
 新会長になる上田はNHK経営委員会の委員。NHK経営委員会とは「執行部を監督する」機関らしい。つまり、籾井を「監督する」ということも仕事に含まれていたはずだ。そこから会長が選ばれたということは、籾井の痕跡隠しをはじめるということだろう。さらに籾井以上の「貢献」が見込めると判断されたからNHK会長に選ばれたのだろう。
 NHKが、今後、「生前退位」をめぐってどう動くか、それに注目しないといけない。国会論議をどれだけ報道するか、報道のとき誰の発言を強調し、誰の発言をカットするか。そういうことを注目しないといけない。(私は目が悪くてテレビを見ることがないので、直接はNHKの動きを見つめるということはできないのだが……。)
天皇陛下〈8・8ビデオメッセージ〉の真実
添田馨
不知火書房
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平田俊子「ヘルスケア」

2017-01-06 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
平田俊子「ヘルスケア」(「現代詩手帖」2017年01月号)

 「現代詩手帖」2017年01月号には、年寄りじみた詩が多い。書いている人が高齢化しているということかもしれない。しかし、正月に読むには、どうも「辛気臭い」。私は俗な人間なので、正月早々、気の滅入る詩は読みたくはない。
 ということで、平田俊子「ヘルスケア」。

もう
何年も寝込んだことがない
今年こそはと思うけれ
決意は毎年失意に変わる
口笛を吹いて蛇を呼んだり
水の上を走ったりは
その気がなくてもしてしまうのに

 私は年末から風邪を引いて、かかりつけの病院が休診で、やっと見つけて行った病院ではいつもとは全く違う薬を処方されて、いつもの薬局も休みで、病院近くの薬局まで引き返し……さらに風邪をこじらせ、会社へは出勤はしたものの、早引け。散々な状態をひきずっているので、健康な人がうらやましい。
 なぜ、平田は「寝込む」ことに憧れるのか。

寝込むと幸せになるらしい
親切な人が現れて
ひたいにきれいな氷を置いたり
片手でリンゴを握りつぶして
ジュースにかえてくれたりするらしい

 ふーん。寝込むと氷が「きれい」かどうかは、わからないものだけれどね。氷がぬるい水のように感じたりする。もっとしっかり凍らせた氷はないのか、と思うものだけれど。

頭が割れたり
腕が取れたりすることはあるが
その程度では遅刻すらできない

 「頭が割れる」は「頭痛」、「腕が取れる」は忙しさで「手が取られる」。「比喩」だね。そうか、「遅刻」もせずに乗り切る体力があるのか。
 まあ、でも、こういうことは「軽口」の類。
 「軽口」も詩なのだろうけれど。
 そのリズムが自然で、小気味いいのだけれど。
 感心まではいかない。
 いや、わざと抑えているのかな?
 三連目がおもしろい。

保険料は払っている
払いたくなくても
財布をこじ開け
月々無理やり持っていかれる
あれらはどこにいったのか
わたしのためのものではないのか
寝込めば
寝込むとき
猫屋敷
寝込んで
わたしも悪夢にうなされたい

 「寝込む」の「何段活用(?)」かに「猫屋敷」がまぎれ込む。ここがおもしろい。ことばのリズムが急速にアップし、飛んでしまう。

 「どうせ、詩なんだから」というと、いろんなところから(平田を含めて)、批判が返ってきそうだが、詩はどうせ現実ではないのだから、こんなふうに楽しいのがうれしい。「辛気臭い」のは、めんどうくさい。
 新年号、作品特集となれば、みんなまじめな顔をして詩を書く。詩の「顔面」がみんなまじめで堅苦しい。そういうことを見とおして平田はことばをさらに軽くしているのかもしれない。
 ことばの見せ方が上手だ。
 あ、平田だ、と思わせる部分をしっかり書き込んでいる。


低反発枕草子
クリエーター情報なし
幻戯書房
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