詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

生前退位特例法案(「一括」という罠)

2017-01-01 10:42:19 | 自民党憲法改正草案を読む
生前退位特例法案(「一括」という罠)
               自民党憲法改正草案を読む/番外62(情報の読み方)

 2017年01月01日読売新聞(西部版・14版)は1面に、次の見出しがある。

秋篠宮さま「皇太子」待遇/「退位」特例法案 関連法を一括で

 やっぱり、と私は思った。
 安倍の狙いは天皇を退位させ、「摂政」を設置すること。「摂政」を設置し、「摂政」への関与を強化し、「天皇制」を支配すること。
 天皇が退位させられ、皇太子(56歳)が天皇になる。皇太子には男子の子供がいない。皇太子の次の皇位継承者は秋篠宮(51歳)。秋篠宮には悠仁(10歳)の男子の子供がいる。悠仁は皇位継承順位でいうと3位。安倍は、いろいろな「口実」をつくって悠仁を「摂政」に置くだろう。皇太子-秋篠宮への皇位継承は年齢が近い関係で、継承されても秋篠宮が天皇である期間は短いことが予想される。つまり、不安定である。その不安定さを解消するために、はやくから悠仁を「摂政」に据え、影響力を行使する、というのが安倍の狙いだ。
 籾井NHKが天皇の「生前退位」意向をスクープしたときから、私は、これは安倍が籾井NHKをつかって「情報操作」をしているのだと「妄想」してきた。「護憲派」とみられる天皇、国民から信頼を集めている天皇を退位させないことには憲法改正が進まない。単に天皇を退位させるだけではなく、皇太子、秋篠宮の「年齢」を理由に(すぐに高齢になる)、悠仁を「摂政」に据え、「天皇教育」をはじめる。安倍にとって都合のいい次期天皇を育てる。安倍は、悠仁天皇誕生の立役者として「歴史」に残る、ということだ。

 こんな「妄想」は読売新聞には書いていない。
 こう書いている。

政府は天皇陛下の退位を実現するため、一代限りの特例法案を1月召集の通常国会に提出する方針を固めた。特例法案は皇室典範と皇室経済法や宮内庁法など関連法の特例を一括したものとする。皇位継承順位が1位となる秋篠宮さまを「皇太子」待遇とし、退位した天皇の故障は「上皇」(太上天皇)とする方向だ。

 「特例法」を政府が方針として打ち出したとき、皇太子には男子の子供がいない、皇太子が不在になるということは世間で話題になっていた。そのときは何もいわずに、今になって秋篠宮を「皇太子」待遇にする(悠仁を次の「皇太子」あつかいにする)と言う。さらには「皇室典範と皇室経済法や宮内庁法など関連法の特例を一括したものとする」という。
 これでは「天皇の生前退位」だけをテーマにした「特例法」ではない。広範囲の「法改正」である。さらに「一代限り」でもない。影響は悠仁にまで及ぶから「三代にわたる」特例法ということになる。実質上は「恒久法」に等しい。
 なぜ、皇室典範、さらには憲法にまで踏み込んで改正しないのか。
 いま、こういう疑問を投げかけても、もう遅い。政府は「特例法案を1月召集の通常国会に提出する方針を固めた」、つまり、「やりなおしはしない」ということ。「やりなおし」を求める声を封じるために、最初から「皇室典範と皇室経済法や宮内庁法など関連法の特例を一括したものとする」ということを隠していたのである。
 「天皇の生前退位だけをテーマにする」と嘘をついて、国民をだましていた。その嘘に有識者会議は加担した。有識者会議など、最初から「アリバイづくり」。有識者の声を聞き、専門家の意見も聞いたという「アリバイ」を利用して、安倍は「独断」を隠している。
 私は有識者会議で何が議題になってきたか、ヒアリングに応じた専門家がどう答えたかを逐一確認しているわけではないが、天皇が生前退位した後、皇太子や秋篠宮の「生計(経済状態)」など主要なテーマとしては取り上げられていないだろう。特例法に秋篠宮の経済状況に関する法律まで含まれてくるとは思っていないだろう。
 一種の「だましうち」である。

 読売新聞の記事の末尾に、こうある。

有識者会議は23日の会合で論点整理を公表する。これを受け、国会でも与野党による議論が始まる見通しだ。政府は18年中の退位を視野に、5月の大型連休前後に法案を国会に提出したい考えだ。

 もう、スケジュールは決まっている。
 そのスケジュールを見ると、また、別のこともわかる。通常国会の会期は「150 日」。1月に開会すると6月には会期末が来る。(もちろん延長は可能だが。)そうすると「5月の大型連休前後に法案を国会に提出」した場合、「特例法および円連法」の審議期間(日程)はどうなるか。1か月前後。天皇の「退位」は憲法に関係してくる。さらに秋篠宮を「皇太子待遇」にするというのも簡単に決めていいのか。皇太子の子供(愛子)をどう処遇するのか、という問題も起きてくる。悠仁と愛子との「地位」というか、「身分」の関係は? そんな短い期間の審議でいいのか。
 安倍は「ていねい」に審議することを嫌い、すべて「一括」ですまそうとする。そこに多くの「隠し事」がある。
 秋篠宮の経済負担を軽くする(皇族費を値上げする)といえば「聞こえ」はいいが、その背後にどんな思惑が動いているか、見過ごしてはいけない。
 さらに「18年中の退位を視野」というのは、天皇を18年中に退位させ(邪魔を取り除き)、19年には憲法改正を推し進めるというスケジュールを安倍が組んでいることを語っている。安倍の暴走はますます加速している。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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松浦寿輝「背後の橋」

2017-01-01 09:11:31 | 詩(雑誌・同人誌)
松浦寿輝「背後の橋」(「現代詩手帖」2017年01月号)

 松浦寿輝の「文体」は長い。「背後の橋」に特徴があらわれている。

ようやく渡りおえた橋は背後ですでに絶たれ
濃い靄が立ちはだかって前途はまったく見透せない
こんなことが前にもあったなとわたしは考えていた
立ちすくむという体験にはどこか甘美な陶酔がある
底に恐怖がうごめいていない陶酔というものはないのだ

 渡り終えた橋が背後で絶たれ、引き返せない。靄が立ち込めていて前にも進めない。「実景」なのかどうかわからないが、「実景」として読むことができる。橋、靄、立ちすくむ「わたし」という存在を「事実」とみなすことができる。
 これを松浦は「考え」で反復する。「こんなことが前にもあったな」というのは、しかし背後で橋が絶たれ、靄で前にも進めないという「実景」そのものではなく、「立ちすくむ」ということである。「実景」が「立ちすくむ」という「動詞」のなかで反芻されている。そしてそれがさらに「陶酔」と言いなおされ、その「陶酔」がもう一度「底に恐怖がうごめいている」という「状況」として言いなおされる。
 「実景」が「立ちすくむ」という「動詞」として言いなおされ、「立ちすくむ」という肉体の「動詞」が「陶酔(する)」という「官能」の動きとして言いなおされ、さらにそれが「底に恐怖がうごめいている」という「状況」として言いなおされる。
 「実景」も「状況」と言えるが、私はここではつかいわけている。「実景」は「わたし」の「肉体」の存在する世界。「状況」は「わたし」の「内面(思考/感覚)」でとらえなおした世界。松浦は「肉体」のありようを、「内面」のありようとして言いなおしていることになる。
 「言い直し」のために「文体」が長くなる。

 「言い直し」には、もう一つ特徴がある。
 「ようやく」とか「すでに」とか「まったく」という「副詞」は、ことばの上では(文法上は)「肉体の動詞」をある方向に導く働きをする。「ようやく/……する(した)」「すでに/……した」「まったく/……ない」という具合に。

渡りおえた橋は背後で絶たれ
濃い靄が立ちはだかって前途は見透せない

 でも「実景」は変わらないが、何かが違う。
 「副詞」によって「動詞」が「文法上」決定されるとしたら、その「副詞」のなかには「文法上」の動きを支配する「精神」のようなものがある。
 「実景」に見える最初の2行も、「精神(文法意識=ことば)」によって生み出されている。「実景」も「実景」ではなく、ことばによって(文法によって)生み出された「状況」なのである。「精神」を「精神」で言いなおす。
 この動きは止まらない。
 「実景(肉体)」を「状況(内面によって把握され、整理された意味)」に言いなおすだけなら、そこで終わりだが、「精神(内面によって整理された意味)」は何度でも言い直しを求められる。「内面」というものには「果て」がないからである。

ポケットから取り出したペーパーマッチを開き
何本か残っているのを確かめ安堵した後になって
どこかに煙草の箱を忘れてきたことに気づく
それでもマッチの軸を一本引きちぎってあてどなく
火を点けてみる 何かを占うように 何かに挑むように
陶酔を長引かせるように 未練の芽を断つように
しかし それもこれも無意味なことだ

 「ペーパーマッチ」という印象的な存在が「実景」として強く浮かび上がる。もう一度「実景」にもどったかのような印象を与える。しかし「確かめ(る)」という動きが、「肉体」の運動というよりも「精神」の運動である。「忘れる」は「肉体」の動作の結果だが「気づく」は「精神」の運動である。
 どれが「肉体」の動詞であり、どれが「精神」の動詞なのか、相対化し、特定するのは、しかし意味がないだろう。「言い直し」によって、その関係は、常に相互入れ替えができるだろうから。「陶酔」を「長引かせる(言いなおし続ける)」ためのものだから。松浦がつかっていることばをつかえば、「無意味」ということになる。
 詩は、このあと、こうつづいていく。

後方に棄ててきてしまったものはもう思い出せないし
前方に待ち受けるものをめぐる予想はいつも外れるから
火が指を焼く前にわたしはマッチを決然と投げ捨てる

 「思い出せない」「予想(する)」という「精神」の運動が先行し、「マッチを投げ捨てる」という「肉体」の運動が追いかける。ただし、そこにも「決然と」ということばが動き、文法上の(精神上の)動詞を決定するということが起きている。
 ここからも「実景/状況」「肉体/内面(精神)」の特定が「無意味」であるといえるだろう。
 言い換えは、さらにつづいていく。

炎が宙を飛んでその軌跡が靄をひとすじきらめかせる
だからと言って その靄を闇とは呼び換えるまい
日の名残りはまだこの冷気のなかを揺曳しているのだ
帰っていくべき場所はどこにもない なのにそれはある
必ずあると感じられてならないのはいったいなぜなのか
かつて在ったものへのこの烈しく胸苦しい想いは何なのか

 うーん。私はだんだん「小説」を読んでいる気持ちになる。後半に「微差」ということばが出てくるが、こんな微妙な違いを追いつづけることばは、「小説」だなあ。長い長いストーリーのなかで、微妙な変化を浮かび上がらせる。ストーリーがどんなに劇的であっても、あるいは劇的であればあるほど、この「劇的」なことは些細なことから始まったというときの「小さな何か」。小さな動きを拡大し延々と書き込むのが「小説」である。行わけで「詩」の形はしているが、ことばの運動は「小説」。松浦は「散文」を生きているのだなあと感じた。


BB/PP
松浦 寿輝
講談社
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