詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

天皇の「政治的発言」

2017-01-20 12:13:30 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇の「政治的発言」
               自民党憲法改正草案を読む/番外69(情報の読み方)

 2017年01月20日読売新聞(西部版・14版)2面と4面に「天皇の生前退位」を巡る「法整備」に関する記事がある。

(2面の見出し)
退位法整備 意見集約3月中合意/各党協議 「国民総意 見つける」

(4面の見出し)
各党「静かに議論」一致/退位法整備 立法形式なお隔たり

 「(衆参の)正副議長は協議で、2月中旬以降に各党から個別に意見を聴取し、3月上中旬をメドに(各党の意見を)とりまとめる方針を説明し、了承を得た」(2面)ということなのだが、「個別に意見を聴取」することで「国民総意」というものが見つかるのか。
 各党それぞれに「A、B、C、D、E」という意見があったとする。自民党は意見を集約した結果(いちばん多い意見を)Aとした。公明党はB、民進党はC、共産党はD。これをとりまとめるとき、必然的に党員の多い自民党のAという意見が最初に書かれ、それから他の意見が併記されるということが起きる。このとき問題になるのは、どの党の案にもならなかったEが、党にこだわらずに集計するといちばん多いということもありうることだ。個別に集計するのではなく、全体で集計すれば、BやCが多くなるということありうる。だいたい、議論というのは他人の意見を聞きながら自分の意見を変えていくものである。「個別に」とりまとめていたのでは、そういう「意見変更」の機会がない。こういうものは「議論」とは呼べない。
 ここでもまた「静かに」ということばが出てきている。昨年7月、籾井NHKの参院選報道(静かな報道/選挙報道をしないとい作戦)が自民党の大勝を引き起こしたばかりなのに、野党が「静かな作戦」にやすやすと乗ってしまうところが、私にはどうにも理解できない。「静かに」議論している限り、巨大政党の自民党の案だけが目立つ。少数意見は抹殺される。
 民主主義は「個」の多様性を認めるところから出発する。「個別の意見」を排除することで「全体の意見」にするという安倍の「作戦」に乗ってはいけない。この「静かな」作戦を阻止するところからはじめないといけない。
 現行憲法の第十三条 「すべて国民は、個人として尊重される。」を自民党憲法改正草案では「全て国民は、人として尊重される。」と「個」を排除する形で書いている。「個(多様性)」の排除は、天皇の退位問題の議論でも先取り実施されている。いまここで「静かに」議論してしまえば、それはすでに自民党の憲法改正草案を認めることになる。野党はそのことを自覚すべきである。
 安倍は「静かに議論」という作戦を通して、自民党総裁(自民党の意見を代表する)から「国民の総裁」になろうとしている。自民党における支配システムを国民全体に押し広げようとしている。これを「独裁」というのだが、「独裁」を阻止する方法は「烈しい議論」しかない。「静かに」議論していては「個」は抹殺される。

 それにしても不思議でしようがないのだが。
 8月8日、天皇が語ったことは「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」という具合に宮内庁のホームページでは記録が残されている。新聞などでも同じタイトルで掲載していた。つまりこれは天皇の「象徴」の「定義」である。「生前退位」をめぐる「お気持ち」などではないのだ。
 「象徴」について、憲法第一条には、

第一条
天皇は、日本国の象徴であり日本国及び日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 

 とは書かれているが、くわしい「定義」はどこにも書かれていない。それを天皇は、天皇のことばで、こう言いなおしたのである。

 私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行おこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井しせいの人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

 8月8日のことばのなかでいちばん美しい部分(天皇の肉声)である。国民一人一人によりそうこと、その集大成として国民の統合の象徴になる。天皇がこう「定義」したとき、それはあくまで「国民/国」の「統合」の象徴である。「国民」というのは必ずしも「国家」を前提としない。つまり、「国家(政治体制)」に対して反対する人間も「国民」である。政治とは無関係に、天皇は「国民一人一人」に寄り添い、国民を思い、国民のために祈ると言ったのである。それも

人々への深い信頼と敬愛をもってなし得た

 と語った。
 そして、ここでは「国民」を「人々」と言いなおしている。言い直しながら、単に「寄り添い、思い、祈る」のではなく、「深い信頼と敬愛をもって」それを実行し得たと語っている。
 他の部分にも「人々」は出てくる。これも「政治とは無関係に(政権とは無関係に)」ということである。
 そのことに注目するならば、これは実は天皇の「政治的発言」だったのである。なんといっても「象徴」の「定義」を天皇は自分自身の体験とことばによって語ったのであるから。(どこかの憲法解説書や学者の説を引用したのではないのだから。)
 このことを、私たちはもっと重視すべきである。
 このことばに寄り添って、天皇の問題を考えるべきだと思う。

 「退位」を口にすることが「政治的発言」なら「象徴」について「定義」することも「政治的発言」である。
 それが問題にならなかったのは、安倍が「生前退位」を「政治問題」にすることに夢中になりすぎていたためだろう。安倍が仕組んだ天皇の口封じのことばかりに意識が集中しているからだろう。天皇を引っぱりだして「生前退位」に関する発言を引き出すことができたぞ、と小躍りして喜んでいたのだろう。

 安倍の仕組んだ籾井NHKのスクープによって、天皇は「生前退位」についての発言を強要された。その強要された発言の中で、天皇は二度にわたって「天皇には国政に関する権能はない」と言わされている。(官邸が事前に原稿を検閲している。)
 そうした中で、天皇は「退位の意向」は「示唆」という形で語りながら、「象徴の定義」を「定義」ということばをつかわずにやってのけている。
 ここから「天皇の生前退位」問題についての「反撃」をはじめるべきだと思う。
 「天皇の負担軽減」ということばで語られているものを、もっと具体的にとらえなおし、「象徴」の定義を明確にするところから議論をはじめなければならない、と「政党」ではなく、「政治家」ではなく、ふつうの人々が声を上げないといけない。
 「天皇」は「政権の象徴」ではなく、「人々の統合の象徴」である。
 安倍は、この「人々の統合の象徴である天皇」を「政権の象徴」にすり替えるために、天皇に「生前退位」を迫っている。

 現行憲法が誕生したころ、和辻哲郎は「国民統合の象徴」という文章を書いている。(岩波書店版「和辻哲郎全集」第十四巻に収録)哲学者が発言している。
 いまの状況で、誰か哲学者が「天皇の象徴性」、「天皇の生前退位」について語っているかどうか、私は知らないが、もっと多くの人間が語るべきだと思う。憲法学者は「戦争法」のとき何人か発言したが、「天皇の生前退位」について、天皇が提起した「象徴の定義」について、さまざまな視点で議論すべきだと思う。
 学者だけではなく、「市井の人々」である私たちが、私たちのことばで語る。「静かに」ではなく、大声で語る。そうすることで、「静かな議論」を「騒がしい議論」に変えていく必要がある。
 私は籾井NHKの「参院選報道をしない(静かな作戦)」に7月3日(いわゆる選挙サンデー)に突然気づき、急いで「自民党憲法改正草案を読む」という文章を何日かに分けて書いた。(ポエムピースから「自民党憲法案の大事なポイント」という本になっている。)
 ひとりひとりが「騒ぐ」ことが「独裁」を阻止する力になると信じたい。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
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長嶋南子「あき地で」

2017-01-20 09:34:44 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「あき地で」(「zero」6、2016年12月28日発行)

 長嶋南子「あき地で」は「家族史」かもしれない。

草ぼうぼうのあき地に立っている
ここに家があった

庭先で酔った弟が大の字になって寝ている
もう少ししたら奥さんと別れることになる 知ってた?
生まれたばかりの娘は別の男に育てられる
知ってた?

 かつて家があった場所は「あき地」になっている。「あき地」に来て、かつての家族を思い出している。何が起きるか知らずに(あたりまえだが)、生きている。生きてみると、たとえば弟は妻と別れる。生まれたばかりの娘は、妻と再婚した(たぶん)男に育てられる。そうなることを、

知ってた?

 もちろん知らない。何が起きるか知らずに生きている。それが人間である。
 「歴史」を「こんなことがあった」と語るのではなく、「こんなことが起きる、それを知ってた?」と語り直すとき、妙に切ない。そうか、人間は、何が起きるか知らずに生きるのか。起きてから、何が起きたのかを知るのか。
 あたりまえなんだけれどね。

そんなところで寝てないで
奥さんと娘さんのことろへ早く行きなよ
弟はろれつが回らないことばで
姉さん 早く夫に先立たれること知ってた?
こどもが引きこもりになること
知ってた?

 人間は意地悪だねえ。やり込められたら、やり込め返す。姉さんだって何も知らずに、何の手だて(?)もせずに生きているだけじゃないか。
 さて。
 こんなふうに「きょうだい喧嘩」になったら、どうすればいいんだろう。

知らない 知らない
弟がいたことも子どもがいたことも
おかっぱ頭のわたしはあき地でままごとしている
子ども役の弟に
早く学校に行きなさいといっている
行きたくないと子ども役の弟は
大の字になって寝ている
草むらでムシが
知ってる知っている と鳴いている

家があった

 「知ってた?」と聞かれたら「知らない」と答える。
 それでおしまい?
 いや、そうじゃない。
 もちろん、そうなることは知らないさ。けれど、「覚えている」。忘れない。弟が庭先で寝ている。そのときの「だだのこねかた(?)」は、ままごと遊びで弟が「学校へ行きたくない」と「大の字になって寝ている」姿にそっくり。あんたは、いつでもそうだったねえ。
 それは「知っている」こと、だから書かないのだが。
 弟が奥さんと別れたこと、娘が別の男に育てられたことを、「知っている」だけではなく、自分のことのように「覚えている」。夫が先立ったこと、子どもが引きこもりになったことも「覚えている」。それは「忘れられない」。そして、それは「現在形」だ。
 この書かれていない「現在形」が、きっと、

知ってた?

 という「過去形」を引っぱりだすのである。
 ひとは誰でも「現在形」で生きている。「未来」のあるとき、また「知ってた?」とこれから先に起きることを聞くかもしれない。

知らない 知らない

 でも、起きたことは「忘れない」。「覚えている」。
 草むら(あき地)やムシは人間ではないので、人間の、そういう面倒くさい「感情」なんか気にしていない。何にも知らないくせに「知ってる知ってる」と言い立てる。
 そうだよなあ。
 誰かが「知っている」。それは「自分」のなかの「予感」かもしれない。なんとなく、「わかっている」。だから、それを受け入れて生き続けるのかもしれない。
 この詩には「知っている/知らない」(知る)という動詞しかつかわれていないのだが、どこかで「おぼえている」「わかっている」ということばが動いている。
 弟の「思い」は「わかっている」、姉の「思い」も「わかっている」。「わかっている」もの同士の集まりが家族。家族はいろんなことを言い合う。減らず口をたたきあう。でも、それは「わかっている」から。
 そうやって「家族」がつづいていく。

家があった

 は、「家族があった」であり、「家族があった」の「あった」は決して過去形にはならずに「ある」という形でつづいていく。
 長嶋の詩にはいつも「ある」を受け入れる力が強く動いている。


はじめに闇があった
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