詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「昼の月」「星宿」

2017-01-05 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「昼の月」「星宿」(「現代詩手帖」2017年01月号)

 池井昌樹「昼の月」は「連載詩・未知」の最初の作品。

旧い本家の玄関を開け、框に沓を脱ぎ揃え、
閉て切りの戸障子ばかり余所ゆき顔して続く
廊下をゆけば更に旧い本家へと通じ、磨き込
まれて黒光りする廊下の先には荒廃した中庭
が海のように展けていました。伸び放題に生
い茂る羊歯や鱗木類の涯には更に更に旧い本
家があり、そのかたはそこに臥されているの
でした。何百年いや何千年いやそれ以上臥し
ていられるのでした。ちかよるまいぞ。私た
ちはたよりない子どもだから、鬼薊を抜いて
はその根を噛みその苦い汁を擦りつけあい笑
うばかり。

 田舎の古い家。病気の老人が寝込んでいる。(あるいは「座敷牢」にだれかが閉じ込められている。人目に触れないように隔離されている。)それは子供にとっては「異次元」への入り口のようなもの。「近寄ってはいけない」というのは大人が命じること。安眠を邪魔するな、ということ。だけれど子どもだから好奇心が勝つ。どうしても近づく。近づくけれど、戸を開けて覗くということまではできない。庭で騒いでしまう。
 多くの人が(大家族だった時代の多くの子どもが)体験したことかもしれない。
 ふつうは、何も起きない。せいぜいが家の中からうめき声が聞こえるくらいである。病人のうめき声とわかっていても、子どもだから極端に反応する。わっ、と騒いで逃げ出す。
 池井が体験したことは、「ふつう」ではなかった。

     あッ。あのかたがおきてきたッ。
それはこの上ない禍々しさのはじまりでした
が、窓一つない黒板壁の大屋根の上には白い
昼の月があるばかり。それきりでした。何百
年いや何千年いやそれ以上昔の話です。幾度
となく生き死にを繰り返してきた私でさえ、
あの日の昼の白い月だけは忘れることができ
ないのです。あの日、あれから何があったか。
何もかも、すっかり忘れてしまいましたが。

 見てはならない人が起きてきた。姿をあらわした。
 どんな人か。池井は書いていない。見てはならない人だから、見なかったのだ。見えなかったのだ。見た瞬間に「見た」という記憶だけが残り、姿は消える。そのかわりに昼の月が記憶に刻まれる。「あのかた」は「昼の月」である。
 それを強調するために「だけ」という限定のことばがつかわれている。「あの日の昼の白い月だけは忘れることができないのです。」そして、この「だけ」は「あの日、あれから何があったか。何もかも、すっかり忘れてしまいましたが。」の「あれから」と呼応している。
 禁止というよりも禁忌。犯した瞬間の、池井の内部で起きた変化。それは正確には語れない。語ることばがない。かわりに「白い月」が池井を見つめている。池井は「白い月」を見ただけではなく、「白い月」に見つめられたのである。「あのかた」に見つめられることで、「存在しているけれど存在しないもの」に「見つめられる」という体験をした。この体験は「時間」を超える。「何百年いや何千年いやそれ以上昔の話です。」は「時間を超える」を意味している。

 この感覚は、粕谷の「厭世」に似ていないだろうか。共通するものを持っていないだろうか。粕谷は「何百年、何千年」とは書かずに、「ただ」とか「一年」と書くのだが。池井の場合は「時間」が拡大し、粕谷の場合は「時間」が一点に凝縮する。しかし、なんだか似ている。
 ある何かに触れて、その「一瞬」が「永遠」になる。粕谷は「ひょうたん」という何気ないもの、池井は「あのかた/そのとき一緒に存在した昼の月」という特異なものという具合に違うのだけれど。
 またふたりの「一瞬/永遠」の把握に「見る」という「肉体」の動きが深く関係しているのも似ている。何かを「ぼんやり」見つめる、何かを「真剣に」見つめる。何かを見つめて「意味を求めない」、何かを見つめて「真理」を探し求める。「見つめる/見つめた対象になる」粕谷。「見つめる/見つめられる」池井。「見つめる/見つめられる」からはじまる「一瞬」は「永遠」へとつながっている。

 「星宿」は「あのかた」のかわりに(?)「橋」が出てくる。

どこかしらないところへゆく橋をみかけた
どこかしらないところへゆく橋は旧い木橋で

 「あのひと」は「どこかしらないところへゆく」ひと。あるいは「どこかしらないところ」に生きているひとかもしれない。「どこかしらない」世界がある。それは見えないけれど、ある。そして「見えない」けれど、そこから「見つめられる」ということがある。池井は「見つめられた瞬間」を忘れることができない。

どこかしらないところへまだゆきたくはなかったから
どこかしらないところへゆく橋をゆきすぎ帰ってきたが
こちらからあちらへ
まるであっけらかんとかけわたされていたその橋は
どこかしらないところもある世を深く記憶させた
あの日からもう二度と橋をみかけることはない
あの日から
どこかしらないところで
星宿は夢のようにぼくの頭を巡りつづけた

 あの日からもう二度と「あのひと」をみかけることはない、と言いなおすと、そのまま「昼の月」につながる。あの日から、どこかしらないところで、「昼の月」は池井の頭上を巡り続けている。「あのひと」が見つめ続けている。
 「見つめられている」という意識が池井のことばを整えている。
 まだ「どこかしらないところへまだゆきたくはなかった」から、「こちら」に引き返し、「こちら(現実の世界)」から「あちら(永遠の世界)」を見つめる。そのとき「見つめられる」を感じる。「見つめる」と「見つめられる」が呼応し、「見つめられる池井」自身を整えるとき、池井の中に「永遠」が不定形のまま、しかし、しっかりと根を下ろす。「永遠」が生まれる。


 (池井の詩とは直接関係がないのだけれど、私は詩を読みながら、私の体験を思い出した。父の兄(本家の長男)は胃ガンだった。坂の上に家がある。元気なとき、ときどき坂を降りて父の所に遊びに来る。父はいない。私が話し相手になる。帰りは、歩いて帰れない。私が背負って坂を上る。胃ガンで弱った体が背中にはりつく。気のせいかもしれないが、胃ガンのガンそのものが背中にべったりはりつき、そこから私の肉体に侵入してくるような気持ち悪さを感じる。そのとき、昼の月が出ていた。昼の月のあいまいな白い形で背中にはりついているように感じた。)

池井昌樹詩集 (ハルキ文庫 い 22-1)
クリエーター情報なし
角川春樹事務所
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