海東セラ「たてまし」(「ピエ」17、2017年01月15日発行)
海東セラ「たてまし」はとてもおもしろい。
「主語」がわからない。「家は」と書き出されるが、これは「主語」ではなくテーマ。家というものは、ということ。次の「思想の宿り」の「宿り」は「名詞」だけれど、「宿る」という「動詞」派生のことば。そうすると、ここから「思想は家に宿る」という具合にことばを読み替えることができる。「家は思想の宿りである」は「思想は家に宿る」を言い換えたものととらえることができる。もちろん、これは「事実」というよりも、ある人の「観点」である。「見方」である。それこそ「思想」である。そうであるなら、「主語」は「ひと」である。つまり「詩人=海東」がほんとうの「主語」であり、「詩人」が「観点/思想」をことばにして動かしている。ことばを動かすとき「対象」として「家」を選んでいる、と言いなおすことができる。「みてとれます」という「動詞」の「主語」は書かれていないが、そこに「詩人=海東」が隠されている。
「たとえ別れを惜しんで、柱をいたぎ壁をなでさすりして」の「惜しむ」「いだく」「なでる」「さする」の「主語」も「詩人=海東」ということになるのだが、では、そのあとの「三角の屋根から矩形に台形にすがたをかえ」はどうか。「主語」は一転して書き出しの「家」にもどる。もちろん限定的に「屋根は」と言うこともできるが、そのあとにつづくことばを「統合する主語」は「家」と考える方が、ことばの経済学にあっている。ここでは「テーマ」が「主語」となって、「詩人=海東」をのみこんでいくのである。
たてましによって、家が家をのみこんでいく。もとの家がわからないくらいに増殖していく、という関係が、ここから始まる。
もちろん、この「家」をもう一度「テーマ」に戻すために、「軽業もはじめます」を「軽業をはじめるのが/みてとれます」という「動詞」を補うことができる。「みてとれます」という「動詞」を補えば、すべては「詩人=海東」が見た世界ということになる。「家」をそういう風に見る「詩人=海東」の「見方/観点/思想」を言語化したものととらえることができる。
でも、そんなふうにすると、あまりおもしろくなくなる。
「詩人=海東」の「見方/観点/思想」を言語化したものというようなことは、言わなくてもいいことだし(思想をことばにしていない文学というのはないのだから)、そう断定してしまうと「テーマとしての主語」「語り手としての主語」が相対的に固定化されてしまい、ことばの「流動性」が「図式化」されてしまう。
書かれているのは「家」であり、書いているのは「詩人=海東」であると固定化するのではなく、書かれているのは「詩人=海東」でもあり、書いているのは「家」でもあるという具合に、「テーマ」と「主語」を入れ換えながら、ことばのなかに迷い込むことが大切なのだ。
書き手はというか、家の住人という「主語」は「家族」の数だけ増殖し、それに合わせて「部屋」も増殖する。「たてまし」される。そこでも「ひと」と「部屋」は「テーマ/主語」のどちらにもなりうる。
こういうとき、それでは「キーワード」は何になるのか。
「つながり」という「名詞」が出てくる。これを「つなぐ」という「動詞」にすると、だれが何をつなぐ、という「主-従」の関係が生まれる。ここが詩全体の「キー」である。「主-従」というのは「主語-述語」という関係にも似ている。でも、「つながり」という「名詞」のままにしておくと、そこに「主-従」はない。どちらが主であってもいい。「動詞」は「ある」というニュートラルな「状態」にかわる。「つながり」という「名詞」が「キーワード」だ。
そして、その「ある状態=つながり」から、
「波形」は「固定化できない/流動的」ということだろう。
私がおもしろいと感じるのはここに「おとずれる」という「動詞」が登場すること。
相互入れ替え可能な流動的な「状態」から「あるひとつの形」が「つながり」として「おとずれる」。
うーん。
私は、こういうとき「生み出される/生まれる」ということばをつかってしまうが、そうか海東には「おとずれる」という形で動くのか。
「おとずれる」というと、私はどうしても「外部」から「おとずれる」と考えてしまう。「生み出す/生まれる」は「内部」から。でも海東は、家の「内部」から「おとずれる」。あるいは家の「内部」が「おとずれる」。「おとずれる」という「動詞」の動きが、私がつかっている「おとずれる」とは違った動きをする。
「おとずれる」は誰もがつかうことばだが、海東のことばのつかい方は「独自」である。海東語、と考えた方がいい。
「おとずれる」は「名詞」として言いなおすなら「訪問」というよりも、「インスピレーション」のようなものかもしれない。インスピレーションは外からやってくるのか、内からやってくるのか、わからない。ただ、それは選ばれたもののところに「おとずれる」ものだろう。そう考えると、海東は「たてまし」ということばに選ばれた詩人ということになるのだろう。
実際、最初から最後まで「設計図」に従って書かれたことばというよりも、何かに突き動かされて、全体がわからないまま(細部もわからないまま)、ことばがことばを呼び寄せながら動き、広がっていく感じがする。
「詩」の幸福が、ここにある。
「産みの苦しみ」とは無縁な「祝福された受胎」のような輝きがある。
「おとずれる」は、詩の書き出しにあった「宿り/宿る」かもしれない、と私は突然思う。何かが「外部」から「おとずれる」。「内部」に入ってきて、「内部」に「宿る」。あるいは「内部」に「宿っていたもの」が「外部」を「おとずれる」。「外部」を「おとずれる」ために、生まれる。そこから育っていくもの/生み出されるものは、「外部」が「主語(主役)」か「内部」が「主語(主役)」か区別しても始まらない。そんなものは相対化し、断定してみても、新しく誕生したものの「内部」にのみこまれていくだけである。
「内部/外部」も、単なる「便宜」。無意味になっていく。
「たてまし」は「たてます」という「動詞」になるが、その「たてます」という「動詞」だけがいきいきとした「主語(主役)」になるのだ。
書いていることが(書こうとしていたことが)、だんだんずれてしまって、何を書いているかあいまいになってきたが、「テーマ/語り手」「主語/主役」の流動化のなかで、何かが「おとずれる→宿る」が「宿る→生まれる」に、「生まれたもの」がさらに何かを「おとずれ→宿り」という変化を繰り返すところが、とてもおもしろい。停滞を知らない。ただ「たてまし」され続ける感じが楽しい。
海東セラ「たてまし」はとてもおもしろい。
家は思想の宿りであって、たてましのたびにかたちをう
しなってゆくばあい、すでに流浪にあるとみてとれます。
たとえ別れを惜しんで、柱をいたぎ壁をなでさすりして
も、一見して合理的な思考回路によって三角の屋根から
矩形に台形にすがたをかえ、分裂しては融合し、その頃
には住み手を離れ、アンバランスな両翼で飛びたったり、
すれすれに着地したりの軽業もはじめます。
「主語」がわからない。「家は」と書き出されるが、これは「主語」ではなくテーマ。家というものは、ということ。次の「思想の宿り」の「宿り」は「名詞」だけれど、「宿る」という「動詞」派生のことば。そうすると、ここから「思想は家に宿る」という具合にことばを読み替えることができる。「家は思想の宿りである」は「思想は家に宿る」を言い換えたものととらえることができる。もちろん、これは「事実」というよりも、ある人の「観点」である。「見方」である。それこそ「思想」である。そうであるなら、「主語」は「ひと」である。つまり「詩人=海東」がほんとうの「主語」であり、「詩人」が「観点/思想」をことばにして動かしている。ことばを動かすとき「対象」として「家」を選んでいる、と言いなおすことができる。「みてとれます」という「動詞」の「主語」は書かれていないが、そこに「詩人=海東」が隠されている。
「たとえ別れを惜しんで、柱をいたぎ壁をなでさすりして」の「惜しむ」「いだく」「なでる」「さする」の「主語」も「詩人=海東」ということになるのだが、では、そのあとの「三角の屋根から矩形に台形にすがたをかえ」はどうか。「主語」は一転して書き出しの「家」にもどる。もちろん限定的に「屋根は」と言うこともできるが、そのあとにつづくことばを「統合する主語」は「家」と考える方が、ことばの経済学にあっている。ここでは「テーマ」が「主語」となって、「詩人=海東」をのみこんでいくのである。
たてましによって、家が家をのみこんでいく。もとの家がわからないくらいに増殖していく、という関係が、ここから始まる。
もちろん、この「家」をもう一度「テーマ」に戻すために、「軽業もはじめます」を「軽業をはじめるのが/みてとれます」という「動詞」を補うことができる。「みてとれます」という「動詞」を補えば、すべては「詩人=海東」が見た世界ということになる。「家」をそういう風に見る「詩人=海東」の「見方/観点/思想」を言語化したものととらえることができる。
でも、そんなふうにすると、あまりおもしろくなくなる。
「詩人=海東」の「見方/観点/思想」を言語化したものというようなことは、言わなくてもいいことだし(思想をことばにしていない文学というのはないのだから)、そう断定してしまうと「テーマとしての主語」「語り手としての主語」が相対的に固定化されてしまい、ことばの「流動性」が「図式化」されてしまう。
書かれているのは「家」であり、書いているのは「詩人=海東」であると固定化するのではなく、書かれているのは「詩人=海東」でもあり、書いているのは「家」でもあるという具合に、「テーマ」と「主語」を入れ換えながら、ことばのなかに迷い込むことが大切なのだ。
住人のなかには、空想の渡り廊下をあるいて鍵のかから
ない自室にこもる者も出てきます。不在のときでも出入
り自由ですが領域は保たれ、なにしろ空中の渡り廊下を
経てゆくいわゆる「はなれ」であるために、卵形の窓か
ら家の断面が書き割りのようにみえて、家族と家族、部
屋と部屋とのつながりが、そのときどきの波形となって
おとずれるのです。
書き手はというか、家の住人という「主語」は「家族」の数だけ増殖し、それに合わせて「部屋」も増殖する。「たてまし」される。そこでも「ひと」と「部屋」は「テーマ/主語」のどちらにもなりうる。
こういうとき、それでは「キーワード」は何になるのか。
家族と家族、部屋と部屋とのつながり
「つながり」という「名詞」が出てくる。これを「つなぐ」という「動詞」にすると、だれが何をつなぐ、という「主-従」の関係が生まれる。ここが詩全体の「キー」である。「主-従」というのは「主語-述語」という関係にも似ている。でも、「つながり」という「名詞」のままにしておくと、そこに「主-従」はない。どちらが主であってもいい。「動詞」は「ある」というニュートラルな「状態」にかわる。「つながり」という「名詞」が「キーワード」だ。
そして、その「ある状態=つながり」から、
そのときどきの波形となっておとずれるのです
「波形」は「固定化できない/流動的」ということだろう。
私がおもしろいと感じるのはここに「おとずれる」という「動詞」が登場すること。
相互入れ替え可能な流動的な「状態」から「あるひとつの形」が「つながり」として「おとずれる」。
うーん。
私は、こういうとき「生み出される/生まれる」ということばをつかってしまうが、そうか海東には「おとずれる」という形で動くのか。
「おとずれる」というと、私はどうしても「外部」から「おとずれる」と考えてしまう。「生み出す/生まれる」は「内部」から。でも海東は、家の「内部」から「おとずれる」。あるいは家の「内部」が「おとずれる」。「おとずれる」という「動詞」の動きが、私がつかっている「おとずれる」とは違った動きをする。
「おとずれる」は誰もがつかうことばだが、海東のことばのつかい方は「独自」である。海東語、と考えた方がいい。
「おとずれる」は「名詞」として言いなおすなら「訪問」というよりも、「インスピレーション」のようなものかもしれない。インスピレーションは外からやってくるのか、内からやってくるのか、わからない。ただ、それは選ばれたもののところに「おとずれる」ものだろう。そう考えると、海東は「たてまし」ということばに選ばれた詩人ということになるのだろう。
実際、最初から最後まで「設計図」に従って書かれたことばというよりも、何かに突き動かされて、全体がわからないまま(細部もわからないまま)、ことばがことばを呼び寄せながら動き、広がっていく感じがする。
「詩」の幸福が、ここにある。
「産みの苦しみ」とは無縁な「祝福された受胎」のような輝きがある。
「おとずれる」は、詩の書き出しにあった「宿り/宿る」かもしれない、と私は突然思う。何かが「外部」から「おとずれる」。「内部」に入ってきて、「内部」に「宿る」。あるいは「内部」に「宿っていたもの」が「外部」を「おとずれる」。「外部」を「おとずれる」ために、生まれる。そこから育っていくもの/生み出されるものは、「外部」が「主語(主役)」か「内部」が「主語(主役)」か区別しても始まらない。そんなものは相対化し、断定してみても、新しく誕生したものの「内部」にのみこまれていくだけである。
「内部/外部」も、単なる「便宜」。無意味になっていく。
「たてまし」は「たてます」という「動詞」になるが、その「たてます」という「動詞」だけがいきいきとした「主語(主役)」になるのだ。
書いていることが(書こうとしていたことが)、だんだんずれてしまって、何を書いているかあいまいになってきたが、「テーマ/語り手」「主語/主役」の流動化のなかで、何かが「おとずれる→宿る」が「宿る→生まれる」に、「生まれたもの」がさらに何かを「おとずれ→宿り」という変化を繰り返すところが、とてもおもしろい。停滞を知らない。ただ「たてまし」され続ける感じが楽しい。
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