詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

宮内庁の悲鳴

2017-01-19 12:46:17 | 自民党憲法改正草案を読む
宮内庁の悲鳴
               自民党憲法改正草案を読む/番外68(情報の読み方)

 2017年01月17日読売新聞(西部版・14版)1面に

退位法整備 通常国会で/衆参正副議長が一致/19日に各派代表会合

 という見出し。国会で審議するのはあたりまえのことだが、気になるのは記事中の次の部分。

政府が想定する2018年末の天皇陛下の退位、19年1月1日の皇太子さまの即位に向けて準備を円滑に進めるためには、今月20日に召集される通常国会で法整備しないと間に合わないと判断したものだ。

 順序が逆だろう。審議があって、それから天皇の退位、皇太子の即位の日が決まる。審議の前に退位/即位日を決めておくと、審議にならないだろう。審議がすんでから、日程を決めればいいだけである。その日がいつになろうが、国民の誰が困るというのだろう。誰も困らない。
 大島衆院議長は「法案内容について与野党が足並みをそろえる必要性も強調した」と読売新聞は書いているが、足並みがそろうかどうかは審議の過程で決まること。審議する前に「足並みをそろえる」というのは審議しないことになる。

 2017年01月18日読売新聞(西部版・14版)2面には続報が載っている。

意見取りまとめ3月メド/退位法整備 正副議長が聴取へ

 3月中旬までに各会派の意見を取りまとめ、首相に報告するということなのだが、その記事中に次の文がある。

正副議長は現在の天皇に限り退位を実現させる特例法を想定する政府・自民党と、退位の制度化を訴える民進党などと意見の隔たりがあることから、各会派がそろって議論することには慎重だ。

 これも、奇妙な話である。意見の隔たりがあるからこそ議論が必要である。隔たりかあるから議論しないというのであれば、政府の結論を鵜呑みにするための「アリバイ」工作になる。
 議会の議長が議論を否定するのは、民主主義に反している。

 この日の読売新聞(1面)には別の記事もある。

即位の儀式「元日困難」/宮内庁次長 終日行事過密で

 先に報道された2019年1月1日に皇太子が天皇に即位し、新年号にするという政府の方針に対して、宮内庁次長が意見を述べたというものだ。2面の関連記事がある。

新年行事「特別な意味」/宮内庁次長 皇室の立場を説明

 見出しだけで、十分わかる記事である。
 疑問は、新年行事が込み入っていることは政府(官邸)も知っているはずということ。「新年祝賀の儀」には三権の長が出席している。毎年行われていることであり、どういう日程で行われているか、知らないとしたら、その方が問題だろう。
 知っていて、カレンダーの都合(国民の生活に配慮する)という理由で「1月1日」にこだわっている。
 何よりも問題なのは、「1月1日に新元号(即位)」ということになったとき、宮内庁側の対応はどうなるのか、そのことを官邸が問い合わせていない。交渉していないということである。(少なくとも、宮内庁次長の意見を読む限り、「1月1日」に関しては、折衝がなかったことがわかる。折衝があったのなら、それは「1月1日」説が出た段階で、どこかに書かれているはずである。)
 このことについて、宮内庁側の姿勢は、こう説明されている。

 天皇の公務負担軽減等に関する有識者会議で議論が進むなか、宮内庁は陛下の憲法上の立場に配慮し、陛下が昨年のお言葉で意向を示唆された退位に関する発言を控えてきた。

 注目しなければならないのは「陛下の憲法上の立場に配慮し」である。
 8月8日のビデオメッセージのなかには、「天皇は国政に関する権能を有しない」という意味のことが最初と最後の2回にわたって語られている。(私は、語らさせられている、と受け止めている。文言は事前に官邸が検閲しているからである。検閲されて、了解がとれかことばを天皇は読んでいる。無検閲の文章を読み上げているわけではない。)
 何か発言すれば、それは国政に関与したことになる。憲法違反になる。政府(安倍)は、そう年押しする形で、天皇(宮内庁)の発言を封じている。口封じをした上で、全てを決めようとしている。
 8月8日のことばに、私は天皇の「悲鳴」を聞いたが、いまは宮内庁の「悲鳴」が聞こえる。

 19年は平成30年の節目(30年が終わる)、ということだが、それだけの「意味」で「19年1月1日」が選ばれているわけではないだろう。20年は「東京オリンピック」の年でもある。20年まで天皇が在位すれば、当然、東京オリンピックには今の天皇が出席するだろう。安倍は、それを排除したいのだ。リオオリンピックの閉会式から東京オリンピックの開会式へと、安倍自身が「主役」であるとアピールするために天皇を排除しようとしている。オリンピックは「国家」が開催するのではなく「都市」が開催するもの、主役はアスリートであるはずなのに、安倍は「自分が主役」をアピールするために利用している。
 そうした動きが背後にある。
 「区切り」というだけなら2019年よりも2020年か2021年の方が「西暦/元号」の「換算」が便利になるだろう。さらに「東京オリンピック」が東日本大震災からの「復興」を強調するものなら、被災者に寄り添ってきた天皇のことを思えば、そこまで今の天皇が天皇のまま方がいいのではないだろうか。「東京オリンピック」は国民と一緒に歩んできた天皇と国民の「象徴」となるだろう。
 いったん「〇十年」という「区切り」がいいということになれば、次の天皇も「〇十年」を区切りに退位/譲位、ということになりかねない。「〇十年」の方が国民生活(カレンダー)にとって都合がいい(わかりやすい)ということになりかねない。「国民生活を優先する」という「理由」で天皇の「在位期間」を決めるということもなりかねない。
 「理由」というか「意味づけ」というのは、どうとでも言えるものである。だからこそ、「どういうか」が大事にもなる。「理由」の「実質」を見ていかないといけない。

 「天皇」は憲法の「第一章」にかかげられている。私は天皇制に反対の人間だが(天皇制は廃止すべきだと考えている人間だが)、憲法と国民全体に関係する大事な問題を、「静かな環境(天皇に負担をかけない)」という「口実」で、国民議論の対象外に置こうとする安倍の姿勢はおかしい。それに異論を挟まない衆参の議長・副議長もおかしい。騒ぎ立てない野党もおかしい。

 宮内庁は、やっと声を上げた。その「声を上げた」という「事実」をもっと重視すべきだと思う。宮内庁の悲鳴は天皇の悲鳴でもある。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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井本節山「キンモクセイ・クエスト」、カニエ・ナハ「:Plant Box」

2017-01-19 11:08:05 | 詩(雑誌・同人誌)
井本節山「キンモクセイ・クエスト」、カニエ・ナハ「:Plant Box」(「hotel第2章」39、2016年11月01日発行)

 「hotel第2章」39は「樹木・植物考」という特集を組んでいる。井本節山「キンモクセイ・クエスト」は特集には組み込まれていないのだが……。

夜になるとキンモクハセイを探しに出る。見知らぬ角々に立ちどまっては。
肌寒いくらがりで。風のなかに鼻をくんくんさせる。

甘い、ほのかに燈る、オレンジの灯りを求めて。
角から角へ曲がり続ける。細い糸をたぐるように。

探すこと。かすかな灯りの方向へ。悪意、嫉妬、悲しみ、不安、無関心……
それらはくらがりの数々のノイズの混じった、短い私信であり、
質素な招待状。迷うこと。角々に立ち、鼻先を羅針盤として、選り分けて。

風上へ、遡る。始まりのところへ。
ずっとそうだった。ずっとそうなのだろう。匂いに導かれて、そして角々で迷う。

 「探す」という動詞が「迷う」という動詞に変わる。
 その過程で、一連目「鼻をくんくんさせる」は嗅覚。二連目の「甘い」も嗅覚だが、その直後の「灯り」は視覚。動いている「肉体」がかわる。「細い糸をたぐる」の「たぐる」は何だろうか。「細い」とあわせて、手の感じ(触覚)を、私は感じる。
 そのあとの三連目がおもしろい。「灯り(視覚)」のあとに、「悪意、嫉妬、悲しみ、不安、無関心」がつづき、「数々のノイズ」と言いなおしている。「ノイズ」は聴覚ということになるだろうか。さらに「ノイズ」を「私信/招待状」とも言いなおしているのだが、「私信/招待状」とは何だろう。嗅覚、視覚、聴覚と単純化できない。「私信/招待状」を「ことば」と言い換えてみると、「頭脳」によって、整理、整頓された世界ということになるかもしれない。
 ここに、「迷う」が闖入してくる。
 そうか。肉体を駆使して、何かを「探す」。肉体をとおしてさまざまな情報が入ってくる。輻輳する。一つではないから、「迷う」ということが始まる。
 この変化が、とても自然だ。
 で、「頭脳」の「迷う」のあと、「鼻」がもう一度動き始める。
 四連目に「遡る」「始まり(始まる)」ということばが出てくる。輻輳する感覚のなかで最初に動いたものへと帰っていく。キンモクセイを探すというよりも、自分自身の「肉体」を探すようなおもしろさがある。

*

カニエ・ナハ「:Plant Box」は特集のうちの一篇。

現実の細部に鋭利な深い影を秋。穏やかな、静かな秋の静かな人が放棄された
箱が与える、無限の概念に怖がっていた。存在しない姉妹に似ている。枝折を
読んで、その教えを呼吸するための箱。あるいは幸せだった最後の時。やがて
世界を去ったとき、次の樹にいる二人を結びつける黄金の空に蜂。雲の両端の
それぞれが何世紀にもわたって、熱が生成され。深く離脱している。根も葉も
飛んで美しい。埃の多い木曜日は、長い忘却を取り戻すための夢の中で愛する
人の復活の物語を肖像する。それでやっと、いま、ここにいる理由がわかった。

 「それでやっと、いま、ここにいる理由がわかった。」と書かれているが、読んでいる私は、ちょっと「わからない」。「わかった」とは言えない。
 で、最初から読み直す。

現実の細部に鋭利な深い影を秋。

 ここには、動詞がない。細部に鋭利な影を「与える(つくる)」のが秋なのか。確かに秋は影が鋭利になるかもしれない。しかし、このときの「鋭利」は夏の鋭利とは違う。夏に比べ秋の方が、「深さ」を感じるかもしれない。これはほんとうにそうなのか、たまたま私たちの「文芸」の伝統が秋をそうやって表現することが多いからそう思うのか、判然としない。しかし、私は「鋭利」「深い」「影」ということばと「秋」は非常に「似合う」と感じる。だから

現実の細部に鋭利な深い影を秋と呼ぶ。

 という具合に「呼ぶ」という動詞を補って読んでもいいかなあ、と思う。
 私が「呼ぶ」を補って読んだことばは、また「秋を現実の細部に鋭利な深い影と呼ぶ」という具合に入れ換えることもできると思う。「呼ぶ」という動詞があっても入れ替え可能ということは、呼ぶがない場合はもっと容易に入れ替え可能ということでもある。
 そして、思うのだが、このカニエの詩では、書かれていることが全て入れ換え可能なのではないだろうか。

穏やかな、静かな秋の静かな人が放棄された箱が与える、無限の概念に怖がっていた。

 「人」と「箱」は、どちらが「放棄された」のか。「放棄された」は「放棄した」かもしれない。「人」が「箱」を「放棄した」のか「箱」が「人」を「放棄した」のか。「主語」を変えれば「放棄された(受動)」は「放棄した(能動)」になる。「怖がっていた」のは「人」か「箱」か。もちろん「箱」は「感情」を持たないから「箱が怖がる」というのは非論理的だが、「比喩」としてならば成り立つ。

存在しない姉妹に似ている。

 これも、非論理的なことばであるけれど、この「非論理」そのものが「比喩」なのである。存在しないものに、何かが「似る/似ている」ということは不可能だが、「似る」という動詞は、何かと何かが「似る」という形で成り立っているので、「似る/似ている」という動詞をつかうとき、そこにそれが存在していようが存在していまいが関係がない。だいたい「比喩」というのは、そこにあるものをそれ以外のもので言いなおすことだから、「比喩」は「存在しない(不在)」の証明でもある。
 「きみは薔薇(のように美しい)」というとき、「きみ」は「薔薇」ではない。「薔薇ではない」からこそ「薔薇である」という「比喩」が成り立つ。
 「比喩」のなかで存在と不在が入れ替わることが、「比喩」が成立する条件である。
 だから、というのは論理の飛躍だが、(私は年末から風邪を引いて頭が働かないので、と、ここで強引に個人的な事情を割り込ませて端折るのだが)、この詩では、書かれている「断定」を「断定」されたものではなく、もっと不確かなものへと変換しながら読むべきなのだ。

それでやっと、いま、ここにいる理由がわかった。

 とカニエは書いているが、誰がいるのか。「私(話者)」がいると考えるのがいちばん簡単だ。そう考えた後、では「誰がいないのか」と入れ換えてみる。「愛する人」が「いない」のだ。「愛する人がいない」から、その「不在(長い忘却)」を「取り戻す」ために「夢」を見る。「夢の中で」「愛する人」を「復活」させる。そういうことをするためには、愛する人は「不在」でなければいけない。「不在」を実感するためには、「私(話者)」は「ここにいる」必要がある。「理由」がある。
 植木鉢(プランター)に植物が植えられているのか、植物は枯れてしまって、もう土だけなのか。その「存在」があらゆる「不在」を、しかも「存在した何か」を呼び起こす。「存在」と「不在」が交錯しながら「いま/ここ」が「ある」。

 井本は「探す」から始まり「迷う」にたどりつき、「始まり」へと帰って行ったが、カニエは「探す」という動詞の中に「迷う」ことをつづけている。「迷う」ことが「探す」であると踏みとどまっている。

馬引く男
カニエ・ナハ
密林社
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