詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

冬の帰り路

2017-01-21 10:06:38 | 
冬の帰り路

街灯の白い光へ冷たい空気が降ってきて、ガラスのように散らばる。路地。靴音が歩道から跳ね上がり、ウインドーにぶつかるのを耳の奥に聞いたのは、その路地に入る前のことだったが。

街灯の下を通りすぎると、影が方向を変える。男は影が長くなる方へと足を運ぶのだが、頭の中で「この影はさっきまで自分の後ろにあった」とことばにしてみると、私を追い越したいものが背後にいるのだとわかった。
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長嶋南子「四丁目のかどで」

2017-01-21 09:43:12 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「四丁目のかどで」(「きょうは詩人」35、2017年01月12日発行)

 きょうも、長嶋南子。「四丁目のかどで」の全行。

人ごみを歩いている
ねえさんビール飲もうよ
弟がそばに寄ってくる
ビールは嫌いコーヒーにしよう
と答える
弟はふくれっ面をする
ふくれたほほを
人差し指でつついてやる
はじけてしぼんで
おじいさんの顔になった弟
年をとると甘いものだね
ねえさんぜんざい食べよう
ぜんざいは嫌い 汁粉は粒あんがいのち
と答えておく
弟はまたふくれっ面をする
顔がふくらんで若者になった
しわだらけのわたしと歩くのはいやなのか
人ごみのなかに消えていく
ちょっと待ってよそばにいて
わたしは大声で叫ぶ
弟なんていないんだってば

 「弟なんていないんだってば」というのはほんとうのことなのかどうか、知らない。知らないし、わからなくてもいい。街で近寄ってきた男が、弟か、年下の男か、それもどっちでもいい。それがたとえ「他人」であっても、ふくれっ面の頬をつついて、はじけて、しぼんで、おじいさんの顔になった、という「時間」の急展開がとてもいい。
 長嶋が何歳か知らないが、まあ、長い時間を生きているのだと思う。その「長い時間」のなかで、かけ離れた二つの瞬間がぱっとくっつく。
 あ、昔、こんなことがあったなあ。瞬間的に思い出す。
 詩は手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い。つまり、異質なものが瞬間的に出会うこと。この「定義」を長嶋は「手術台(場)」ではなく「時間」のなかでやっている。そして「もの」のかわりに「肉体の記憶」をつかっている。これが、とっても、いい。
 親しい人のふくれっ面(肉親かもしれないし、好きな人かもしれない)はかわいいし、それをつっつくのは楽しい。「肉体」と「肉体」の触れ合いは、ことばを超えてしまう。ことばにならない。「おぼえている」何かが、「肉体」の奥からよみがえる。
 あ、このひとにも、若くてほっぺたがふくらんでいた時代があったんだねえ。それはもちろん自分にとってもそうなのだけれど。

年をとると甘いものだね

 この一行。これは、だれの「せりふ」だろう。
 姉(長嶋)が、変わり果てた弟の姿を見て、そう思ったのか。ビールがだめならぜんざいと要求を下げる。そうすれば聞いてもらえると思っている。「年をとると甘いものだね」は「もうろくしたねえ、だらしないねえ」という蔑み。たぶんね。
 でも、弟がそう言ったとも言える。
 「年をとるとビールなんかよりも、甘いものの方がいいよなあ。ねえさん、ぜんざい食べよう」
 そうすると、これは「ねえさん、食わせてよ」という「甘え」かもしれない。「ビール飲もうよ」も「甘え」だったんだね。「ねえさん、飲ませてよ」。だから、冗談じゃない、「コーヒーを割り勘で」。「ちぇっ、しけてやんの」。こんなことは書いていないのだけれど、書いていないからこそ、想像してしまう。「肉体」が思い出してしまう。
 で、そういう「現実」と「思い出」には、「弟」だけではなく、他の男も入ってくるだろうなあ。女から見れば、男なんてみんな同じ。年下の甘えん坊、ということなのだろう。年下の甘えん坊の男というのは、自分のことしか考えない。「ちぇっ、しけてやんの」は捨てぜりふ。単に「せりふ」を捨てるのではない。いっしょに女を置き去りにして、ぱっと消えてしまう。甘えさせてくれる女の方へ行ってしまうものなのだ。
 顔がふくらんで(つやつやの頬になった)弟は「しわだらけのわたしと歩くのはいやなのか」。もちろん、そうなんだけれど。(あ、申し訳ない。)こんなふうに、突き放して自分のことを書けるのが長嶋のいいところだね。「笑い」を引き受ける。人間に余裕があるね。

ちょっと待ってよそばにいて

 このことばのスピードもいいなあ。「待って」と「そばにいて」がくっついている。「待って」が先に書かれているが、その「待って」を「そばにいて」が追い越していく。「そばにいて」という「声」を方こそ聞いてほしい。
 それなのに。ちぇっ。年下の男は駄目だなあ。こらえしょうがない。女はいつでも、ほっぺたつっついたり、「嫌い」を連発して、存分にじゃれ合うのを楽しみたいのに。
 あ、これも、もちろん書いていない。私が「誤読」したこと。いや、「妄想」したこと。
 私は、だれかを「理解したい」と思ったことは一度もない。「妄想する」のが好き。「理解する」は「正しさ」が求められる。窮屈。「妄想する」はどんなに違っていても「妄想ですから」と言えばすむ。
 「妄想ですむか」と怒る人もいるかもしれないけれど、あれっ、何を怒っているのかな? 怒った顔っていきいきしていて好きだなあ、と私は笑う。
 長嶋の詩に出てくる「弟」のように、私は根っからの「末っ子」なのかもしれない。

猫笑う
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思潮社
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