監督 ラース・クラウメ 出演 ブルクハルト・クラウスナー、ロナルト・ツェアフェルト、セバスチャン・ブロムベルグ
アルゼンチン・ブエノスアイレスに逃亡していたアイヒマンはモサドによって拘束されたが、その影にはドイツの検事がいた。バウアー検事こそがアイヒマンを見つけ出し、拘束の貢献者だった、という映画なのだが。
主眼はアイヒマンの追跡にない。アイヒマン追跡はむしろ脇役である。
描かれているのは戦後のドイツの中枢にいかに多くのナチスの残党がいたかということ。彼らはアイヒマンの拘束をどんなに恐れていたか。アイヒマンがつかまれば、芋づる式に逮捕されてしまう。だから検事の邪魔をする。
冒頭、検事が風呂場でおぼれかけるシーンがある。事故か、自殺未遂か、自殺を装った殺人未遂か。明らかにされないが、捜査員が睡眠薬の瓶から薬を大量にポケットに滑り込ませる。「自殺未遂」に見せかけるための工作である。精神的に不安定な検事にアイヒマン追跡をまかせておいていいのか。風潮をつくりだすことで、検事を追放しようとしている。
さらに検事がコペンハーゲン(だったかな?)で逮捕されたときの逮捕状のコピーも登場する。検事はゲイで、禁止されている行為をした。何かあれば、それを利用して検事を追い出そうというのである。
アイヒマン拘束を妨げているのは、捜査機関(検察)内部の、ナチスの残党である。自分の悪を知られたくない。自分が逮捕されるのは免れたい。いまのままの地位に、あるいはさらに上の地位をめざしたい。欲望が「正義」をさまたげている。
この「構図」はとてもおもしろい。
ここに、もうひとつ、エピソードが絡んでくる。バウアー検事を補佐する若手の検事。彼もゲイだった。ゲイであることを隠しているが、妻が妊娠したと知らされ、安心して(?)男に会いに行く。そのとき検察の上司から、男と会っていたときの写真を突きつけられる。「公表されたくなかったら、我々に協力しろ」という。バウアー検事はアイヒマンをモサドから引き渡してもらい、ドイツで裁判にかけるつもりだった。そうならないようにしろ、妨害しろ。
若手検事は、圧力に屈してしまう。誰にでも秘密がある。知られたくないことがある。ナチスの残党はナチスの残党であることを知られたくない。ゲイの検事はゲイであることを知られたくない。秘密は「知られたくない」という形で迫ってくるとき、「弱み」になる。
「秘密」ではなく「弱み」。
もし、それが「弱み」ならば、それを乗り越えることもできるかもしれない。いや、克服しないければならない問題かもしれない。「弱み」を克服しない限り、ひとは前へ進めない。
最後の方にさらりと描かれているが、若手検事はバウアー検事がアイヒマンの裁判を逃してしまって落ち込む姿を見て、自分の「弱さ」を心底実感する。警察に出向く。ゲイ行為をした、と告白するためである。逮捕されるためである。
その後、彼がどうなったかは映画では描かれていない。彼の秘密(弱み)が、暴かれるべきだった「真実」の全体像を隠してしまったということが暗示されるだけである。
映画は、アイヒマンの追跡そのものを描いているのではない。アイヒマンを追跡するドイツ人の「正直」がどんなものであったかを描いている。若手検事のエピソードは小さなものだが、とても重要だ。ひとは自分自身の「弱み」を越えていかない限り「正直」にはなれない。「真実」にはたどりつけない。
ナチスの中枢にいた人間のなかには、知らず知らずにナチスに組み込まれた人もいるだろう。バウアー検事も一度反ナチから離れてしまったことがあるということが語られている。「事実」をどう見つめ、どう克服するか。バウアー検事の場合、アイヒマンを追うことで自分の「弱み(悪)」を克服しようとした。「正義」だけが、自分自身の「悪(弱み」を正してくれる。
そういうことを映画は語りかける。
人間は誰でも「絶対的正義」よりも自分自身の保身を考える。「正義」は他人にまかせておけるけれど、「保身」は他人にはまかせられない。遠くの「正義」よりも自分の身近にあるものの方が大切。
しかし、この「凡庸な願い」こそが「悪の温床」なのかもしれない。
ドイツ人は、その「悪の温床」をひとりずつ克服して、いまのドイツを築いたのだろう。そういうことを教えてくれる映画である。
派手なアクションも、はらはらどきどきのサスペンスもない。その分、見終わったあと、ずしりと重みがのしかかってくる。
(KBCシネマ2、2017年01月08日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
アルゼンチン・ブエノスアイレスに逃亡していたアイヒマンはモサドによって拘束されたが、その影にはドイツの検事がいた。バウアー検事こそがアイヒマンを見つけ出し、拘束の貢献者だった、という映画なのだが。
主眼はアイヒマンの追跡にない。アイヒマン追跡はむしろ脇役である。
描かれているのは戦後のドイツの中枢にいかに多くのナチスの残党がいたかということ。彼らはアイヒマンの拘束をどんなに恐れていたか。アイヒマンがつかまれば、芋づる式に逮捕されてしまう。だから検事の邪魔をする。
冒頭、検事が風呂場でおぼれかけるシーンがある。事故か、自殺未遂か、自殺を装った殺人未遂か。明らかにされないが、捜査員が睡眠薬の瓶から薬を大量にポケットに滑り込ませる。「自殺未遂」に見せかけるための工作である。精神的に不安定な検事にアイヒマン追跡をまかせておいていいのか。風潮をつくりだすことで、検事を追放しようとしている。
さらに検事がコペンハーゲン(だったかな?)で逮捕されたときの逮捕状のコピーも登場する。検事はゲイで、禁止されている行為をした。何かあれば、それを利用して検事を追い出そうというのである。
アイヒマン拘束を妨げているのは、捜査機関(検察)内部の、ナチスの残党である。自分の悪を知られたくない。自分が逮捕されるのは免れたい。いまのままの地位に、あるいはさらに上の地位をめざしたい。欲望が「正義」をさまたげている。
この「構図」はとてもおもしろい。
ここに、もうひとつ、エピソードが絡んでくる。バウアー検事を補佐する若手の検事。彼もゲイだった。ゲイであることを隠しているが、妻が妊娠したと知らされ、安心して(?)男に会いに行く。そのとき検察の上司から、男と会っていたときの写真を突きつけられる。「公表されたくなかったら、我々に協力しろ」という。バウアー検事はアイヒマンをモサドから引き渡してもらい、ドイツで裁判にかけるつもりだった。そうならないようにしろ、妨害しろ。
若手検事は、圧力に屈してしまう。誰にでも秘密がある。知られたくないことがある。ナチスの残党はナチスの残党であることを知られたくない。ゲイの検事はゲイであることを知られたくない。秘密は「知られたくない」という形で迫ってくるとき、「弱み」になる。
「秘密」ではなく「弱み」。
もし、それが「弱み」ならば、それを乗り越えることもできるかもしれない。いや、克服しないければならない問題かもしれない。「弱み」を克服しない限り、ひとは前へ進めない。
最後の方にさらりと描かれているが、若手検事はバウアー検事がアイヒマンの裁判を逃してしまって落ち込む姿を見て、自分の「弱さ」を心底実感する。警察に出向く。ゲイ行為をした、と告白するためである。逮捕されるためである。
その後、彼がどうなったかは映画では描かれていない。彼の秘密(弱み)が、暴かれるべきだった「真実」の全体像を隠してしまったということが暗示されるだけである。
映画は、アイヒマンの追跡そのものを描いているのではない。アイヒマンを追跡するドイツ人の「正直」がどんなものであったかを描いている。若手検事のエピソードは小さなものだが、とても重要だ。ひとは自分自身の「弱み」を越えていかない限り「正直」にはなれない。「真実」にはたどりつけない。
ナチスの中枢にいた人間のなかには、知らず知らずにナチスに組み込まれた人もいるだろう。バウアー検事も一度反ナチから離れてしまったことがあるということが語られている。「事実」をどう見つめ、どう克服するか。バウアー検事の場合、アイヒマンを追うことで自分の「弱み(悪)」を克服しようとした。「正義」だけが、自分自身の「悪(弱み」を正してくれる。
そういうことを映画は語りかける。
人間は誰でも「絶対的正義」よりも自分自身の保身を考える。「正義」は他人にまかせておけるけれど、「保身」は他人にはまかせられない。遠くの「正義」よりも自分の身近にあるものの方が大切。
しかし、この「凡庸な願い」こそが「悪の温床」なのかもしれない。
ドイツ人は、その「悪の温床」をひとりずつ克服して、いまのドイツを築いたのだろう。そういうことを教えてくれる映画である。
派手なアクションも、はらはらどきどきのサスペンスもない。その分、見終わったあと、ずしりと重みがのしかかってくる。
(KBCシネマ2、2017年01月08日)
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